「12歳の少年」の末裔たち(前編):ゼロ年代批評の男性性論的側面の意義と限界
この記事を読んだ。それで、私がゼロ年代批評に関心を持つ理由を書いておこうと思った。ことは「成熟」や「女々しさ」などに関わる。ただ生物学的な諸事象よりは隠喩や寓意に、人生物語に関するお約束や紋切型に関わる。
ゼロ年代批評には確かに(それが全てだったわけではないが)男性学的観点を含んだサブカルチャー批評の面もあった。簡単に言えば(異性愛者の)男性のありかたを考える自分語りや(男性オタクとしての)我々語りがゼロ年代批評のひとつのラインであった。そこでは社会のメインストリームを占めるはずの「成熟」した男性と異なる男性のあり方が模索されていたが、それは往々にして己の「女々しさ」を「男はつらいよ」的な心情を大っぴらにしたものなのだと語り、自分たちの傷を舐め合う姿を公にさらしつつも、「女性」には「フェミニズム」があるからこういう傷の舐め合いをしなくてもいい(から羨ましい?)などと挑発し「女性」と己たちを分断する「男性」たちを生み出してきた(先のブログ記事のように)。私の見てきた世界の一部では、大っぴらにBLや百合の話をしたり現実の同性愛やトランスなどの話をすると気持ち悪がる男性たち女性たちがいた。その他いろいろあり、なので上記記事の現状認識には部分的に頷ききれない箇所がある。「男性」一般や「女性」一般を勇気づけたり様々なグループ一般を勇気づけたりするとか特に何に属するかを問わずに個々人を勇気づけてくれる表現や人々や集団も点在するし、それと逆のあれこれをしてくる諸々も点在するという認識だ。
これは私の感性の偏りのせいもあってか、ゼロ年代批評には、どうして「オタク」の「男性」に固有の心境とされているか、よくわからない話もある。例えば難病で早逝する女性の姿が描かれた泣ける純愛物語という点でゼロ年代の『AIR』と『世界の中心で、愛をさけぶ』がどれほど隔たっているか私にはわからない(色んな違いがあるのはわかるが、泣ける理由は難病で早逝することになる健気なキャラクターと周囲の諸々が織りなす人間物語だと思っている)。だからこそ「女々しさ」を「女性性」と分断するような語りが繰り返されてきたのではないかとさえ感じている。「成熟」と同様に「女々しさ」もまた連帯や解放の道具にも抑圧や排除の道具にもなる観念だと私は考えており私は連帯や解放に使う方が望ましいと思っている(たとえ「男性オタク」は「女々しい」だけで「女性性」とは何の関係もないどころか傍迷惑な紛い物だと非難されようとである)。なので、さっきの記事に対して、私は現状認識の違いとは別に、相容れないところがある。もちろん、相容れないからといって、ひとを私の思い通りに「改心」させたいわけではない。
私が言う「女々しさ」とは「成熟」にそぐわない「ダメ」な「男性」たちのメンタリティや文化を指す。それは性差二元論を下敷きに「男らしくない」から「女々しい」とされがちで、だからこそ「女々しさ」を肯定しようとしていた「オタク」向けのコンテンツや、それを肯定しようとしたゼロ年代批評は、クロスジェンダーやジェンダーレスにつながる要素を様々なところに見出しまた様々に打ち出してきたのだと思うし、そうした繋がりがあるとの議論を仮に望まない男性や女性などがいるとしても通じ合う箇所もある(見つかってしまう)はずだと考えている(その上で個別の是々非々がある)。
ゼロ年代批評が、特定のコンテンツの愛好家である男性たちが「女々しい」自分語りのやり取りで互いに慰め合う場を提供した一面を持つのは確かだろうし、その場が破壊されるべきだとは思わない(信じてもらえるかわからないが、必要は、痛いほどよくわかる)。ただ、先ほどの記事の一節に、これだけは明確に反感を述べると「同世代のオタク男性にうっすらと共有されている「敗北感」に訴えることで、ある種のホモソーシャルな「連帯」を呼びかけている」と言ったそばから「負けたのはヒロインではなく、自分だったかもしれない」などとは続けないで欲しかった。「ヒロイン」に自己仮託しておきながら男所帯をつくる振る舞いも、というかそれこそ「レイプ・ファンタジー」として批判された「少女」の「所有」ではないのか(それは「ダメ」などではなく、明確に、クソだと思う)。「ヒロイン」は二次元で「オタク男性」は三次元みたいな理屈はありうるにせよ、その「少女」に自らを仮託してしまった「女性」の居場所は残されていないのではないか。これは著者にこの一節を書き改めて欲しいという要望ではない。そうした仮託が可能だからこそ「男性」だけではない「連帯」、「男性」だけではない傷の舐め合いの可能性も模索できるのではないかといった問題設定にこの記述が私を導く(この問いに代わりに答えて欲しいという要望でもない。答えは自分で書くべきとわかっている。困難も覚える。何度も提起しなおしている)。
「成熟」や「女々しさ」をめぐるこのような構図は、男性向け(に割り当てられがちな、ある種の)オタク文化だけに見出されるものではないはずだ。支配従属関係を性的にした観念として攻め(男役)/受け(女役)なる観念があるが、遡れば国民像や国際関係の表現でもこうした「男性化/女性化」があった。具体的には、被植民者や敗戦国の男性たちは「女々しい」とされる場合があった。アメリカ合衆国による日本占領が容易に思い出され、近代日本自体がセルフ植民地化の産物だとの話も思い出されるだろう。戯画的に言えば〈欧州列強の猿真似で東亜の盟主を気取る大日本帝国〉だ(なお私は日本国籍の日語話者たちに育てられてきた、日本国籍の日語話者だ。ただ何世代かの物語を背負った結果、それ相応の親日感情と反日感情がある。東京拘置所で死亡したとある人物を幼少の頃から大恩ある存在と意識させられてきたので、比較的、特殊な環境だったのかもしれない、とは思っている)。
米国による日本占領の話ばかりして日本帝国による植民地占領の話からは目を逸らすのに似た雰囲気がある種の(男性)オタク語りには感じられる。さらに遡れば日本こそが中華であるとの山鹿素行などの倒錯的(と今の私は感じてしまう)主張なども思い出されるだろうか。「敗北」「成熟」「女々しさ」は日本文化に執拗について回ってきた問題なのではないか。ならば、個別の人々の言動のよしあしを測るのとは別の文化史的探究も有意義だろう。これはその手付だ(放言の野蛮と疎漏は謝す。事実誤認は適宜改めたい)。
ゼロ年代批評の男性性論的側面の意義と限界
ここでは、ゼロ年代批評では対人性愛者で異性愛者で男性であるような主体のあり方がどのように議論されてきたかという観点で幾つかの議論を扱う。ゼロ年代批評がこのような観点に包括されると私は思わない。別の主題や問題設定も含まれるし端的に別の書き手がいた。
1990年代には、サブでない文化領域でも日本の男性が「〈男らしさ〉の鎧」を脱ぐべきだという伊藤公雄の名で知られる脱男性性論があった(他方には「父性の復権」などを唱道する林義道がいた)。伊藤の主張は、現行社会で男性に割り当てられる人々が陥りがちな悪弊や悪習、すなわち他人に被せてしまい自身も被ってしまうような種々の苦しみを構成してもいる諸価値観や振る舞いを改訂ないし廃止しようと志すものだった。なお今日の日本に輸入された「有害な男性性toxic masculinity」論は、この「鎧」論のより生化学的隠喩を強めたバージョンとして受容されている面があると私の眼には映る。「鎧」以前の無垢が託される児童への介入志向も濃く時代差かもしれない。
〈男らしさ/父性〉は脱ぐべきか復権すべきか。第三の道や第四の道もあった。別の男性性を培うことであり、別の男性性を身に着けるということだ。熊田一雄『〈男らしさ〉という病?――ポップ・カルチャーの新・男性学』2005は、ジェンダー学者コンネルの論を引き男性性が単一ではない点に着目する。雑に言えば、ひとが参考にするのは覇権的な男性像だけではなく周縁的な男性像でもあり、諸々の男性像があるという議論だ(例えば男性のうちでもモテ/非モテ、陽キャ/陰キャなどの線引きがなされる場合もある)。
熊田の本は、ゼロ年代に存在した、男性学的観点を踏まえたポップ/サブカルチャー分析の一例である。消費者の男性性がどうあるべきか論じられているものだ。そこでは作品が男性性をどのように形づくるのか(複数ある)、そして、男性性がどのように形づくられるべきなのか(推すべきひとつの道を論考は選び取る)が論じられていた。前者は作品に何が描かれておりどう機能しうるかの分析で、後者は読者(要は作品の享受者)たる人々がいかにそれを解釈する(何らかの主体になる)べきかの考察だ。無論、両方が要る。
熊田は例えば『美少女戦士セーラームーン』や『少女革命ウテナ』また『マリア様がみてる』などのファンである男性が、現行社会では周縁的であるものの、脱暴力的な新しい男性性を、こうした作品に触れつつ学んでいる側面もあるのだと論じていた(他方、熊田は従来的で覇権的な男性性のモデルを宮沢誠一の論じた「忠臣蔵」幻想に求めていたが、私にはうまく理解できなかった。例えば1990年代だけでも『サラリーマン金太郎』や『GTO』など破天荒な――反官僚、反学校、反教養の装いをまといつつ、腐敗した現状を「構造改革」する――男性像の理想化があった。この系譜の批判も要る)。
私の理解ではゼロ年代の〈男の娘〉をめぐる談義の中にも、オルタナティブな男性性の考察は含まれていた(先駆的なものとしては水野麗「「男の娘」好きの男の子についての考察」『年報『少女』文化研究』2011などか。国会図書館に行ってこれを読んだ10年ほど前を私は思い出す)。おそらく現在では『HUGっと!プリキュア』2018のキュアアンフィニの登場に、様々な思いや願いを持った人々が(その多様な受容層の中には、多少なりとも異性愛者の男性も含まれていることだろう)何かしらか勇気を得、学んだはずだ。この手の議論に毀誉褒貶はあるが(例えばピンクウォッシュ)ここでは措く。
いわゆるゼロ年代批評は上記に見てきたような文脈から捉えれば確かに男性学的な批評と言える側面があった。より具体的には(異性愛で男性の)オタクはどうあるべきかと語っている面があった。東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』2007に所収された「萌えの手前、不能性に止まること――『AIR』について」がその範例であろう。そこでは、いわゆる「美少女ゲーム」が、異性愛者の男性たちのアイデンティティを形づくりうるコンテンツを供給するジャンルとして捉えられていた。『AIR』などの美少女ゲーム作品はプレイヤーに恋愛を体験させる(恋愛物語に没入させる)。「非モテ」の「男性オタク」でも恋愛や結婚を夢見れる。いわば〈父になる〉ことができる。かくして美少女ゲームとはプレイヤーを〈父にさせる〉ジャンルだ、となる。
「父性の復権」だろうか。一面ではそうだ。しかし、ただの引き写しではない。「非モテ」の(男性)オタクは(憧憬と侮蔑半々で)「マッチョ」になれない「ダメ」男と自嘲し、己の「女々しさ」をある種の「少女漫画」的感性と混淆させつつ(程度の強弱はあれ、暴力的な要素を含む場合も少なくない)性的妄想をこじらせていく。ところで文学青年や音楽青年はマッチョモードと少女モードを使い分けて良いとこどりを目論む碌でもない輩になりがちだが、この意味で男性オタクとは純文学を読まない文学青年である(意識せぬまま二次元と三次元の乖離としてそうしている)。マッチョか、あるいは文学青年か。このふたつの道しかないのか。少なくとも、いずれの道も選ばない所作を東は提案する。「萌えの手前、不能性に止まること」である。
確認しておけば、いわゆる「非モテ」は異性愛と男性それぞれの従来的で覇権的なモードとは別様のあり方だという共通了解の下に東の議論もあった。これは日本における50歳時点での未婚率の劇的上昇も背景にしている(男性の場合、雑に言えば1980年代から2010年代までのあいだで50人に1人から5人に1人程度にまで割合が増えている)。「非モテ」の論じ方という意味で様々な論者を整理できなくもない。例えば、小谷野敦『もてない男』1999は恋愛至上主義の批判を体現する主体として「非モテ」を打ち出したと述べうる。その方向で恋愛結婚市場の批判を体現するのがキモオタだと論じたのが本田透『電波男』2005だった。なお「批判を体現」というのは、理屈だって語られているわけではないが、振る舞いで示している(とその振る舞いを感知した誰かが認識する)程度の意味合いで私は使っている。モテないのではなくモテようとしないのだという意味合いの「草食系男子」に新たな男性像を託したのが森岡正博だ。『感じない男』2005の著者である森岡もゼロ年代男性性論の一角だった(だが同書の一部は内面化されたマスターベーション有害論の記述にも私の眼には映っていた)。また赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい」2007にも未婚率上昇(失われた30年)の渦中での激変の痕跡がある。こうしたロスジェネ論壇から出発した批評家のひとりが、『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』2021の著者、杉田俊介である。
以上に並べた様々な「非モテ」的男性論(網羅的ではないが)のなかで東浩紀「萌えの手前、不能性に止まること」を捉えることができる。キャラそしてプレイヤーが難病のヒロインを助けられず見守るしかないという事態を独特に工夫して提示した『AIR』は、物語のリアルに没入せず私的なファンタジーでリアルのクソさを贖うオタクしぐさ(二次創作づくりだ)自体に介入する。それでプレイヤーは、理想の相手との恋愛結婚はもちろん挫かれているとして(現実上またゲーム上)、もし難病が無かったら(治ったら)という反実仮想の方向でのカップル形成や家族形成へ耽溺するのでも、また難病などを棚上げにして性的な交歓の瞬間へと刹那的に耽溺するのでもない、オルタナティブな思考の余地を与えられてしまう。そこに踏みとどまって、現実上でのマチズモにも想像上でのマチズモにも乗らない「不能」な己のあり方を模索するのが、ここで美少女ゲームというジャンルが抱える一番尖ったところを体現するとされる『AIR』を一番尖った仕方で解釈することで学べる、批評的な振る舞いなのだ。――東の『AIR』論は、男性性論として見ればこんな感じだった(詳細に見ればもっと深く洞察が引き出せるだろう)。
男性学的な視座が『AIR』論を読んだ人々にどの程度把握されて共有されてきたのかはわからない。というか、自分の好きなコンテンツを語る建前はこれなのだ、これを楽しむことは恥ではないし、これを思想の言葉で論じてもいいのだ、といった気づき以上のものは、さほど共有されてこなかったのではないか、とも思う。けれども文芸であれエンタメであれサブカルであれオタクであれ、どんな文化であれ(話題や前提を共有する上での必要もあり)正典(カノン)が形成され、抑圧のためにも使われてしまうので、私は、ゼロ年代批評が美少女ゲームやライトノベルを文芸やSFやミステリと結ぼうとしたのは大変に有意義だったと思っている(というより、私は『ゲーム的リアリズムの誕生』がなければ、こういう話をする人間にはならなかったと思うくらいの、恩讐を覚える)。コンテンツ語りの共同体や思想語りの共同体が、相互に、また各々に、共同体の空気感が奨めるものとは別のものを見たり、別の仕方で話し始めたりすることを大いに活性化したと思っている。
そのようなゼロ年代批評の動きを下火にしたのは宇野常寛による「レイプ・ファンタジー」批判だと言われており、その概説は一般にひろく共有されている(なお、英語圏で用いられる強姦幻想rape fantasyは自分や他人が性的行為を強制したりされたりする幻想を指す語であって、俗に言われる「被害者が密かに加害を望んでいた」等のデマすなわちレイプ神話Rape mythとは異なる語である)。一般に共有されているのはゼロ年代批評が(男性の)「結論ありきの自己パフォーマンス」に過ぎないという話だ、と要約してよいだろう。宇野が『ゼロ年代の想像力』2008ほかで述べた内容にはもう少し複雑さがあると私は考えているが、ここでは措く。
先ほど冒頭で引いたブログ記事には、このような一節がある。「宇野の批判のポイントは、東の美少女ゲーム論の問題点を指摘するにとどまらず、それを「免罪符」として「ダメな僕ら」の自己正当化を図り、ポルノグラフィを「文学」とうそぶく東チルドレンを一掃することにあったわけだ」。宇野の議論がある面で発揮した効果を明快にまとめあげていると思う。しかし話はそれだけではなかったと思うので、以下、私がポイントだと考えている点を述べる。それは宇野の批判で、コンテンツの中身からその受け手の振る舞いへと、是非の焦点が移ったことだ。
東の論は、『AIR』をプレイした人物が抱きうる、内面のありように関する話だった。宇野の批判は、『AIR』をプレイした人物が、現にどう振る舞うのかを問題にしている。東の『AIR』論は己の「不能性」の自覚に留まっており、どのように振る舞いが相当するのかは書いていない(批評的に考えて批評を綴るようになるだろうとは考えうる)。対して宇野は、受け手たちが結局のところ現に何をしているのか、と問うている。どうだったのか。
私にはこう映っていた。多くの男性のオタクたちは、多くの非オタクの男性たちと同じように猥褻描写を含む作品のお喋りに興じ、そこで(非オタクどころか同じオタク相手であれ)女性や男性からその語りに批判や異論や非難を受けると、オタクではない男性たちが(問題のある)性風俗談義を咎められたときのように、その議論や相手を、無視したり拒絶したり、開き直ったり罵倒したりしがちだったのだ。もちろんそうではない男性も大勢いたが、そういう男性も大勢いたのだった(今もそうだ)。美少女ゲームの可能性の中心を体現するような生き様は、ポピュラーになったようには思われなかった(実のところ、それが誰が何をすることか解らないままでいるのだが)。
宇野の論によって、コンテンツから導き出しうる解釈の吟味と内省の記述から日々の人々の振る舞いのリアル(つまりパフォーマンス)の記述と評価へと少なからぬ読者の関心が移行した。そこで明らかになっていったのは、男性の趣味共同体の種々の悪弊であった。オンライン上の「祭り」でもリアルな集まりでも、そうした悪弊が見られたのだった(というより私は見た)。
これらはゼロ年代批評系論壇の関心が(例えばアイドルマスターとAKB48といった作品群を経て)アイドルに移行したと同時に、ファンダム研究や制度批判に議論の焦点が移っていったこととも対応する。なお、男性アイドルグループの女性ファン集団の迷惑行為が批判されたり、女性間での(女性ファンダム内での)様々な権力関係の問題が議論されたり、SNS上での文化政治は「男性」だけ「オタク」だけに関わらない形で個々人のパフォーマンスの道徳批評を広めていったはずだが現在進行形のため捉えきれていない。
宇野の議論の理論的なポイントは他にも「ひきこもり」批判にあった。この側面は同時代の「オタク」への嫌悪や、同時代の日本社会における社交不安症や鬱病などへの軽侮そして無理解が反映された形で受容されてしまったように思われるが(正直、宇野本を使ってある種の「オタク」をしばき倒し黙らせて楽しむのが多少流行ってしまったと思う)、「オタク」的主体におけるケアという発想の薄さへの批判として捉える方が有益であっただろう。これはセルフケアの欠如だけでなくシャドウワーク(家事労働や介助労働)、扶養-被扶養関係の周縁化、エッセンシャルワークの等閑視なども含む。
なお、東浩紀『セカイからもっと近くに』2013『ゲンロン0』2017などで提示される「不能の父」になること、「観光客」となること、などは宇野の批判に対する東側の理論的応答であると考えられる。ただし、何をするのか、という具体的方向ではなく、「萌えの手前、不能性に止まること」とはいかなることかを、さらに掘り下げて考察していく方向での応答だったのだと思う。現在、「悪の愚かさについて」などで打ち出される、加害側になることと親になることをクロスオーバーさせて深められていっている思考は、やはりここでなされていた批判に対する、応答という側面を持っていると思う。
自己実現と搾取や抑圧が同時に発生する産業構造への批判という意味ではゼロ年代批評はうまく活きなかった。集団の振る舞いを維持したり制御したりするノウハウやテクニックといったものは、インフラやプラットフォームに関する議論だけでは補いきれなかった(経営や行政やパフォーマンスに関する知の不足というより、ゼロ年代批評の志向や目的がそもそもそこに対応していなかった)。後に「失われた30年」と題されることになる経済状況や種々の災害またSNSを利用した社会運動や政治キャンペーンの浸透なども要因として挙げうるし、何が主要で何が副次的かといったことを私は把握しきれていないが、ともかく、何のコンテンツの話かより、何者(たち)の振る舞いの話か、に問いの立て方が変わっていったのだ。話をいったん結ぶ。
ゼロ年代批評は、1990年代以来広範に論じられていた脱男らしさ論の流れに応答していた面があった。今日の状況下では自他を傷つける負担でしかないと見込まれる「鎧」としての男らしさ規範を解消するという試みと並行して別の「らしさ」を考え形にする模索が種々あり、そのひとつが「オタク」であった。論壇のジェンダー・バランスが私語りや趣味語りと「男性性」の癒着を招いた点もあるが、単に(異性愛)男性が多いから(異性愛)男性のものと考えられていたわけでは、必ずしもなかった(そうした夜郎自大も間々見られたにせよ)。大きく問題視されたのは理論的言説の是非というより、それをつむぎ発する場や、ファンダムにおける嫌悪と差別であったと思う。自分を語っていいということと自分を押し付けて良いということが混同されていたのではないか(それ自体が長くセルフケア意識に疎かったメンタリティゆえの限界だったとすれば、そうなるのももっともではあったのだが)。
理論的な前提で検討すべきことは多々ある。が「男らしさ」「女らしさ」が専ら自然科学の知識で識別できるとされる諸々の傾向性を意味するものとして扱われがちな今日の日本では同時代的な空気感での理解は困難化したように思う(1998年には刊行されゼロ年代から紹介もあったはずのハルバースタム『女の男性性』がいまだに紹介にとどまっているのは大変残念なことだ。とはいえ松田康介2021年レビューのような紹介があることは、本当にありがたいことだ)。宇野の「レイプ・ファンタジー」論と同様「母性のディストピア」批判なども再考せねばなるまい。元橋利恵『母性の抑圧と抵抗――ケアの倫理を通して考える戦略的母性主義』などが読まれる今日では「母性のディストピア」なる表現は機能不全を起こしているように思われてならないからだ。とはいえ、この論点を展開していくのは、別の機会としたい。
小休止
冒頭の記事を読んで以来、私は、ゼロ年代批評を男性性をめぐる同時期の文脈から捉えた場合、このように映ることもありうるということを述べておきたかった。当然だがゼロ年代批評はこんなものに収まるものではなかった。
例えば『網状言論F改』や『思想地図 vol.5』の読者だったなら小谷真理や東園子の名を思い出すだろうし、村瀬ひろみ『サブカルチャー・フェミニズム宣言』2000や野火ノビタ『大人は判ってくれない』2003を読んでいたひともいるはずだ。この前、中島梓『タナトスの子供たち』1998をリー・エーデルマンと結び付けうると示唆している人がいて私は嬉しかったしそのひとが何か書いてくれるのを待っている。恣意的に数名ほど列挙したがほかの書き手もいたはずだった。男性学的な観点から捉えうる議論は多かったが、それは一側面に過ぎないはずだ。種々がディグられ再評価されねばならない。ただ冒頭のブログ記事のような議論が出る背景も、わかる。そしてそれはオタク批評と植民地主義、米軍に占領された敗戦国日本の国民性ないしはナショナル・アレゴリーと関わっていると私は見ている。それは稿を改めて述べる。
またセカイ系に関心がある者なら上述の書き手たちや前島賢『セカイ系とは何か』といった男性オタクだけではなく、『最終兵器彼女』での「純愛」的感傷性が大量死描写をただの風景に感じさせるほどの離人感と共にある点を批判的かつ共感的に論じた菅聡子(『女が国家を裏切るとき』所収)や、フロリダ『クリエイティブ資本論』やネグリ+ハートのマルチチュード論を下敷きにした「アイデンティティ労働」論という観点からセカイ系を英語圏のディザスター映画などにも広げて論じた三浦玲一(『村上春樹とポストモダン・ジャパン』など参照)といった文学研究者の著作も眼にしたことはあるだろう。オタクがオタクの推しまたはオタク自身のためにファンダムを統御したり知識を誇ったりする手段として連ねるお喋りだけがセカイ系論と呼ばれていたわけではなく、関連する人や作品の、唯一の語り方でもなかった。
予告:後半では、米軍占領期を経て誕生した植民地文学的な評価もある作品石原慎太郎『太陽の季節』と私小説の嚆矢たる問題作『蒲団』の作者で「男らしくない」作風と批判されてきた田山花袋の文学を確認してから7世紀に跳び、白村江戦の敗退以降に中央集権国家の体裁を整えた国号「日本」の地では、文学は起源から敗戦後のものだったとの論を検討するつもりである。それは占領期日本の指導者として人気を博したマッカーサー元帥の発言「近代文明の水準で測れば、我ら[アングロサクソン]の45歳の発達に対して日本人[の文化程度]は12歳の少年のようなものである」などに由来するとされる、「日本人12歳説」の参照から始められる。
[続]