メモ(おもい、からだ、おどり、はなし)
思考とは、身体を用いた運動である。
これを真に受けてみる。
全身を相応に用いて歩くように、全身を相応に用いて思考する、ということにしてみよう。頭が硬いだとか、柔らかいだとかの形容も、何かしら真に受けてみよう。関節の硬さ柔らかさ、動かなさと同じように、頭の硬さ柔らかさ、動かなさというものがあるのだ、ということにしてみよう。そうしたら、うまく歩けない人に対して、「どうして他の人のように歩かないのか、ふつうに歩きなさい」と言うことが、何ほどか徳を欠いているように、うまく思考できない人に対して、「どうして他の人のように思考しないのか、ふつうに思考しなさい」と言うことも、何ほどか徳を欠いている、ということに、あなたも同意してくれるのではないかと私は思う。期待する。
もしあなたが、あれらに同意してくれるなら、「人間には誰でも知性がある」と信じることと、「人間ならばふつうこの程度の判断はつく」という見込みを持つこととは、異なる、と私が主張することも、あなたはのみこんでくれるのではないかと私は思う。私はまた、「人間ならば誰でも関節がある」と信じることと、「人間ならばふつうこの程度の屈伸はできる」という見込みを持つこととは、異なるということにも、あなたは納得してくれる、と思っている。私はまた、「人は、ふつう、こんな風に歩けるし、そうできない人は、どこか、ふつうの人ではない」という物言いは、せいぜい口約束であって、しかも、どこか望ましくない口約束である、と私が主張することも、仔細はともかく、是非いずれを採るのかはまた措くにしても、わかってくれるだろうと、私は思っている。
先ほどから私は、どこか、まずい言い方をしている。そしてまた、ずるい言い方をしている。私は、動作に対応する特定の器官がある、というような話をしたいのではない。大野一雄は歩くことができなくなっても、椅子に座り、手を使って舞踏したという。きっと、そのような舞踏家は、手が使えなくとも、寝たきりになろうとも、息を吐き、目を瞬かせることで、舞踏するだろう。
では、そんな舞踏家は、たとえ意識が混濁しようとも、痙攣したり、呻いたりすることで、たとえ呼吸が止まろうとも、心臓を脈打たせることで、舞踏をするだろうか。そんな舞踏家は、身体が冷たくなっていくとき、腐っていくとき、燃え上がり灰と骨になっていくとき、舞踏をしていると言えるのだろうか。もしそうであるなら、誰もがいつでも、舞踏しているのだということに、なりはしまいか。存在することは舞踏だということになりはしまいか。
放屁や脱糞。
吐瀉や排尿。
恨みごと。
怒鳴り罵り暴れること。
それらも舞踏だろうか。
首なしの身体は思考するのだろうか。それは思考なのだろうか。それを思考と呼ぶとき、何が起きているのか。
「踊りとは命がけで突っ立った死体である」(土方巽)
真に受けられる?
真に受ける、それはどのようにすることか。
なぜ作文を続けているのか。
あちらからこちらへと、囲い込みを繰り返す、生と死がある、というゲームをやめるため?
身体もなく思考もなく、しかし私は語っていますか?
あなたに身体はありますか?
身体はありますか。
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