#交換日記の多発:返信 2[2021.02.19]

橋本さんによる企画「#交換日記の多発」に参加しました。本記事は以下の日記への公開返信です。

【いただいた質問とそれへの回答】

1.日常の面倒を軽減するためのテクニックをお持ちですか? それはなんですか?

サプリメントを飲んでいます。食生活の管理に労力を割くのが辛い場合などは有益だと思います。食事自体が面倒なわけではないので、完全栄養食には手を出していません。サプリを飲み、ラーメンを飲んで、活動しています。

2.自分をいたわるために何かしていることはありますか? 

青汁や野菜ジュースを飲んでいます。足していけばよいというものではないとよく指摘を受けるのですが、それは、本当にその通りだと思っています。ただ、私にとっての嗜好品ではあるので(私は野菜も好きです)、それなら摂れるときに摂ろうという心持で、青汁を牛乳で溶いて飲んだりもします。

【「異形コレクション」ほか、自分のホラー趣味】

ホラーは、かつて日本ホラー小説大賞受賞作と異形コレクションを中心に読んでいました。貴志祐介『天使の囀り』、小林泰三『玩具修理者』などが好きでしたが、とりわけ愛好していたのは牧野修の諸作品です。『だからドロシー帰っておいで』や『三人のゴーストハンター 国枝特殊警備ファイル』の牧野パートはずっと心に残っています。伊島りすとや沙藤一樹も不思議な味わいで好きでした。海外だと一時期の扶桑社文庫や、文春文庫のニューロティックでオフビートな作品が好きです。ジョー・ヒルの短編集『20世紀の幽霊たち』(小学館文庫)はかなり理想的でした。しかし、自分はホラー者というよりは幻想文学・SF者なのかもしれないと思うことが多々あります。映像作品は名作ですら全然観ていません。怖いので。『リング』と『女優霊』くらいしか履修していません。

私も井上雅彦監修「異形コレクション」は読んでいました。とりわけ30番台の諸巻を読んでいた記憶があります。SFやミステリも含む多様なジャンルで活躍する様々な書き手の名が並ぶアンソロジーで、ありがたく読んできました。翻訳ホラーだとトロワイヤやダンセイニなども読みましたが、雰囲気が好みなのはラヴクラフト「宇宙からの色」などだった気がします。ポップなものだと山田悠介『8.1』や乙一『ZOO』なども読んでいました。また小野不由美・原作のアニメ『ゴーストハント』なども観ていました。実話怪談やSCP財団なども嗜んでいるので、私は比較的ポップなホラー寄りでほかのジャンルも読むという趣味なのかなと思います。プロパーというほど網羅的ではないし名作を押さえているわけでもないのですが、あれこれの映像作品にも触れていました。また、橋本さんのあげてくださったラインナップだと遠藤徹『おがみむし/くくしがるば』とかも並べられそうですね(ちょっと毛色が違うかもしれませんが)。

【ナンセンスの御利益(+啓蒙もののハチャメチャさ)】

近年の悩みとしては、世間で物語/フィクションに効能が求められている気がしていて、もっと無益であってもよいと考えています。象が列車に体当たりするだけで構わないのです。効能が求められる切実さも理解できなくはないので、個人の嗜好と一般的な需要のギャップには困ってしまいますね。

コツウィンクル「象が列車に体当たり」は未読なのですが、異色作家短篇集のアンソロジーに名を連ねている作家だとジョン・スラデックとレイモン・クノーが個人的には印象深いです。『スラデック言語遊戯短編集』は一種の寄木細工を観賞しているような心地で読んだ気がします(例えば「人間関係ブリッジの図面」など)。またクノーの短編集『あなたまかせの話』の表題作を読みゲームブックみたいだと面白く感じたのを覚えています。もっとも1967年の小説なので、私の抱いたこの印象自体アナクロニックなのですが。スラデックやクノーは、いわゆる「ナンセンス」(この語ではその真髄に関する喧々諤々が喧しいので、より縛りの緩い俗語として「シュール」などを使ってもこの場合にはよい気もしています)を感じさせる気風と思います。ちなみに、「象」と「列車」の組合せにより私の脳内サジェストエンジンがムーンライダーズ「僕は走って灰になる」(『ANIMAL INDEX』)を再生し始めたので、その曲をリピート再生しながら以下を書いたりしていました。

ナンセンスは自分でも色々(ハルムス、バーセルミ、深堀骨など)かじったことがあり、各々どの気風も印象深いのですが、方法論として魅力を感じるのはシュルレアリスムで言う「優美な屍骸」に影響を受けた文学グループのウリポや、シュルレアリスムの先行者、ルーセルなどの諸々かもしれません(この作品が、というよりは、この方法が、みたいな言い方になってしまいますが)。特にウリポの〈S+7〉に関して言えば、以前、柄谷行人の文章のキレ味がその内容のみならず形式によっても醸しだされていると論じるために、著作の一段落に含まれる名詞全てに〈S+7〉を施し別の語に置換(文脈が切断されて内容空疎な記号になる)してみるという、けったいだが豪胆な操作を試みる評論を見た体験もあってか、かなり興味深く思っていました。この手のものへの私の愛好も、前回の日記で書いたような「からくり仕掛けというものへの憧憬」の延長にあるのではないかと自分では感じています。

またウリポの師範格と評されるクノーが言語遊戯的な文学の著者のみならず20世紀フランスでのヘーゲル紹介で知られる哲学者コジェーヴによる講義録の編纂者でもあった(クノーの小説『人生の日曜日』の題と銘句はヘーゲル由来です)などの挿話も個人的には面白いものですが(ピエール・マシュレ『文学生産の哲学』所収のクノー論がこの方向でたのしい文章でした)、話が元々言おうとしていた事柄から離れてしまったので、無理やりまとめると私は、いわゆる「無用の用」みたいな話なのでしょうか、「ナンセンス」な意味で「無益」である「物語/フィクション」にもある、いわば「御利益」のことを書きたい気持ちがあります。けれど、その「御利益」を語るのは、なかなかに難しくも感じます。少なくとも私にとって、誰かと、例えば大前粟生『私と鰐と妹の部屋』で元気になったとか真宮寺のぞみ『血まみれ学園とショートケーキ・プリンセス』が記憶に残ったなどと語らい、そこにあるものをナンセンスとして体験できる条件を考えてみるのは愉快な営為です。ただ、愉快なだけではなく、私はナンセンスと触れ合うことに「御利益」もあったような感じがしています(初めから意図して狙う「効用」と別に)。

ナンセンスは言語やイメージの異例な動かし方と関わりがちだと思う一方、いわゆる言語「遊戯」という物言いには、私は、若干の窮屈さも感じます。中原昌也の小説の一節が、言いたい話とつながりそうなので引いてみます。

 携帯で通話していると、その相手が実在しない人物なような気がしてきて、本気で会話している自分がなんだか愚かしく思えてくるときがある。おもちゃのリカちゃん電話を大人が本気で使うみたいに、一方的な会話に適した返答をしてみると、向こうからはおおよそ妥当な受け答えは返ってくる。しかし、相手からは生きた人間からの反応は感じられなくなり始めている。こちらの口調にも、どこか離人症を感じさせる空虚さが言葉の端々に散見された。
「というわけで一時間後に現地で」
 もはや会話とは言えぬ編集者との対話が、自分の中を内容を確認する余裕も与えず、滝の流れのように怒涛に過ぎ去っていった。
(中原昌也「次の政権も皆で見なかったことにした」『文藝』2021年春号)

どういう言動が「遊戯」で何がそうではないか、「遊戯」の地位が何であるべきか、どこに留まるべきかなどを自明で不動なものとみなしていると、現にいる人々を「生きた人間」か否かで選別するような「空虚さ」へとはまり込んでしまうことがあるように思います。ここでいう「会話とは言えぬ編集者との対話」もある観点で有意義なのと同様に「おもちゃのリカちゃん電話を大人が本気で使う」のもある観点でなら有意義だと捉えてもよいはずなのに。――こうした「空虚さ」に関する逡巡は私の自意識の話でもあります。

物言いと状況とがべったり糊付けされているような瞬間を私は感じることがあり、そういう瞬間には「自分の中を内容を確認する余裕」もなく、自分や他人の言動が「実在しない人物」のもの、というかbotめいた自動性の発揮に思えてしまいもします。要は自分や他人が手癖で生きているなと感じられてしまう瞬間があります。これのまずい(と私が思っている)ところは、気を抜くと、紋切型ではないはずの面や紋切型ではないはずの手つきまで類型へと落とし込んで処理してしまう癖がつくことで、そのうちに、他者がbotじみているのか、自分で他者をbot扱いしているのかが、そして何より自分で自分がbotじみているかどうかが、わからなくなってしまうかもしれない面です。振る舞いの自動化にもよしあしはありますが、自分自身の習慣から身を引き剥がせないのは悲しいことでしょうし(その引き剥がしが称賛されたり何かに有利になったりする機会では必ずしもないとしても)、型に振り回されるよりは型を乗りこなそうとする方がよりよい姿勢でしょう(むろん振る舞い方や感じ方など、習慣の着脱の容易でなさゆえに、手癖や悪癖などの表現があるとも言えそうですが)。身についてしまう型のうまい使い方と型の外し方とは、いつでも己の課題です。というわけで、ナンセンスです。

一括りにナンセンスといっても銘々の活きどころや都度都度の活かされ方があるはずですが、ざっと言えば、ふだん空気に寄せて枉げている規則を字義通りに用いたり、現に起きうるが無視しがちであるような事態を極大化したりして表現に落とし込むのが、いわゆる「奇想」関連のナンセンス、また、言語遊戯的なナンセンスにおおむね共有される姿勢だと思います。そして、そんなナンセンスに親しむうちに私は私と異なる距離感や目線でもって種々の「効用」を考えたりbotを判定したりするような別の型のことも多少なりと考えられるようになった面があるはずで、それがナンセンスの「御利益」と言えるのではないかという話を私はしてみたくなったのでした。もちろん変形するための型はどこから来たのか、なぜ特定の型を然々のやり方で変形できるのかといった問いの余地が残り、手癖なり紋切型なり記号なりに関連するこの手のアプローチにこだわるのがこの私というbotの悪癖ではないのかなど、この辺りには自問するところもあります。が、ひとまずはこれで。

それに加えて啓蒙もののハチャメチャさという話ももう少し。ヴォルテールの小説『カンディード』が18世紀のリスボン地震を背景に欺瞞的な宿命論としての俗流最善説を(例えばライプニッツなどの議論が元々そうであるかはともかく)懐疑するという切実さを備えた小説でありながら、ハチャメチャな風刺小説でもあることは知られるところだと思いますが、軽妙なコメディで知られる漫画家の手になる学習漫画などを読んで育ってもいた私は、この種のハチャメチャな啓蒙ものにかなり関心を抱いたりもします。……というのは、表向きの言い回しかもしれません。実際には、ト書き形式のアイドルマスターの二次創作で憲法学入門めいた対話が展開される作品や(作者の実体験を反映したらしい)労使交渉の手解きが示される作品などと巡り合ったことの方が、私がこの手の話に関心を持つようになる上で重要なイベントであったかもしれません。もちろん、実用的な知識と道徳的な教訓とを物語に混ぜ込んで教材として使えるような形にするというのは古来からあるやり方だと思います。実際、横田順彌『近代日本奇想小説史』や長山靖生『日本SF精神史』といった著作に触れて、近代日本のハチャメチャな作品への関心も私の中で膨らんでいきました。なかなか手が出せずにいるのですが、例えば井上泰至『近世刊行軍書論』みたいな本も読んでみたいと思ったりします。とはいえ、18世紀フランスの哲学コントにせよ、20世紀以前の日本の説話や小説にせよ、そして現代のネット小説にせよ、書かれた時期や地域さらには想定読者層などを反映した様々な紋切型が含まれており、強調点を変えての取り上げも結局は紋切型の焼き直しではないかとの問題に直面しもします。これもまた型の取り扱いの話に繋がるのだろうかと個人的には思っています
が、なんというか、かなり乱文になってしまいました。失礼いたしました。

【サイバースペース、円錐になる、カニになる】

この世のどこかに自分が好きなものを建てられる50MBがあるという考えは長い間、私を自由を与えました。私の空想が他人の領域の50MBを勝ち取ったことは自信になりました。50MBの中に家を建て、庭を作り、そこに立て籠もれる余地があったのは幸せでした。
3DCGもただいま追求中です。昔から絵画やプログラミングが好きな人間なので、いくらでも遊べそうです。近頃は作ったものを着て練り歩けるので、円錐やカニに成れるのも魅力です。今までの人間関係が希薄な場所というのも魅力のひとつです。

このふたつの箇所は、こういう言い回しをしてよければ、とても味わい深いものでした。「この世のどこかに自分が好きなものを建てられる50MBがあるという考えは長い間、私を自由を与えました」というのは、魅力的な記述です。私自身は、自分の場を勝ち取る経験よりは、他人の場に紛れ込む経験の方が、長らく自分にとって馴染み深いものであったような気持ちでいます(主観的には)。その辺りに関連して言うと、橋本さんの「分霊箱」という表現が興味深く感じられました。分け身でもあるし、何かに成るための空間にもなる「土地」としての「箱」、というか。もし、こうした志向に関連して何か、橋本さんのイメージの源になるような作品があったりしたら、お伺いしてみたいです。あと、特に円錐になるのは、私も何だか心惹かれます。

[了]

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