少女、ノーフューチャー:桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』論【補遺-前】2020.01.08

以下は、team:Rhetorica企画+編集『Rhetorica #04 特集:棲家 ver. 0.0』(2018.11.25発行)に寄稿した論考「少女、ノーフューチャー」に関連する記事です。論考の内容に関しては、許諾を得てnoteに分割し転載しました(一部ですが加筆や修正を施しました)。この論考以外でも幾つかの文章で桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』に触れていましたので、それらに関して現時点でまとめておこうという趣旨で、この記事を執筆しました。本論に関しては以下をご覧ください。【前編】【中編】【後編

それでは、記事のリンクとコメントを置いていきます。以下、言及する人名の敬称は省略した旨、ご寛恕ください。

さようなら、百合男子(前編)[2018.11.25]

論考「少女・ノーフューチャー」と同じく2018年11月に発表したものになります(こちらは1万字程度)。以下、記事から抜粋します。

 桜庭一樹の小説『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』には、忘れがたい場面がある。父親の雅愛に虐待を受けているとされる少女、海野藻屑と、この物語の語り手であり、ひきこもりの兄を破滅的な仕方で扶養し続けてきたように見える少女、山田なぎさとが、逃げ場のない抑圧にさらされる苦境からの逃避行を試み、そして失敗するにいたるまでの、その一連の場面である。――戸外で風雨の荒れ狂う、暗い教室の中。藻屑は言う。「こんな人生、ほんとじゃないんだ[……]きっと全部、誰かの嘘なんだ。だから平気。きっと全部、悪い嘘」(159頁)。藻屑のその言葉を耳にしているのは、なぎさだけだ。「窓の外が別世界みたいに荒れている。世界に二人きりになってしまったように、教室の中だけが静かで、安全で、薄暗くて……」(同)。
 そして二人は、逃避行の支度をする。「あたしと藻屑は手をつないで教室を出た」(161頁)。初めは二人でなぎさの家へ。一人部屋のないなぎさが自宅で荷物をまとめていると、いつも与えられた部屋に引きこもっている兄の友彦が襖を開けなぎさを見つめている。どこかへ行くのかと問う友彦に、なぎさは、「に、逃げる」(162頁)と告げる。「あたしが言うと、友彦はかすかに顔を歪めた。/「そっか。ふぅん……。ぼくも、どこかに行きたいなぁ」/それだけつぶやくと、友彦は乱暴に襖を閉めた。ぴしりと大きな音が響いて、あたしは心臓を掴まれたみたいに飛び上がった。それから鞄を掴むと転がるように家を出た。もう帰ってこない。もうご飯もつくんない。おかあさんの手伝いもしない」(同)。続けて二人は、藻屑の家へ向かう。――そこで二人は、今生の別れを迎える。
 藻屑は海野宅のドアを開け、中へと入っていく。「微笑が余韻を残すように少しずつ、閉まっていくドアによって遠ざかっていった。そのままあたしはそこに立って、藻屑と一緒に行くはずのどこか遠いところを夢見ていた。そこは、とにかく、ここじゃないのだ。あたしも藻屑も自由になるのだ。そうだ、そこにはあれがあるのだ。あたしも藻屑も知らないし、必要なのかどうかもわからないもの。あれ……。/安心がある」(164頁)。この後、藻屑は家から戻らず、なぎさは山の中腹で藻屑のバラバラ死体を見つけることになる(その後、雅愛が犯行を自供する)。二人の逃避行は、どこか、百合的である。――どこか、駆け落ちめいているようにも感じる。
 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の副題は「A Lollypop or A Bullet」であるが、それがすぐ連想させるのは、黒人解放運動の旗手であったマルコムXのスピーチ、「The Ballot or the Bullet」であるはずだ。マルコムXはこのスピーチの中で、分離と統合という問題に切り込んでいる。
[……]

主観的には2010年代中ごろから前景化してきたように感じられている「百合とSF」(これは「百合とポストアポカリプス」とか「百合とディストピア」などの方が妥当な表現かもしれません)という主題系を念頭に、ユートピアを志向して抑圧や搾取を強いる共同体を取り去る(または共同体から去る)という夢や願い、欲望を、物語と共に考えるというのが、この論考の狙いでした。ただし、こうした見方には批判が何重にか加えられるべきでしょう。

そもそも私が「少女・ノーフューチャー」で論じようとしていたのは、二元的性別観への適応を強いてくる「産業社会」を拒絶するためにエーデルマンの再生産的未来主義批判の議論を参照したとしても、それすら不十分な肯定に留まる危険がある(既成の秩序に基づく社会化を拒否する行為が既成秩序の準備した仕方での死を選ぶ行為と同一視されかねない余地が残る)ということでした(だから、ベルサーニを参照しつつ別様の読解を試みました)。その意味で同時期に発表した論からもこの「さようなら、百合男子」での論――「百合」に社会へのクリティカルな観点を有する「分離」主義の衝動を見出すこと――は、理論的に「後退」しているように映るかもしれません。とはいえ、「少女・ノーフューチャー」でも私は、富士見ミステリ文庫版の表紙に描かれていた二人のキャラクター(山田なぎさと海野藻屑)が見せる「双生児的、というよりむしろ、クローン的な同じさを感じさせる造形」を、「再生産的されるべき過去によく似た紋切り型の未来だけを正当化するような、陰惨なある種の発達史観に抵抗する、別の錯時法を予感させられる」と書いていたのだし、上で行った自己批判は、まるで不十分なものでしょう。

ジャンル論的に言えば、『「百合映画」完全ガイド』の共著者のひとりでもある中村香住による論考「誰が「百合」を書き、読むのか」(『海響 特集:大恋愛』第1号,2020年)や、『SFマガジン』百合特集(2019年2月、第2回百合特集は2021年2月)などの文献が参照できなかったのは、執筆年的に不可避であったにせよ、『ユリイカ 特集:百合文化の現在』 (2014年12月)であったり、牧村朝子『百合のリアル』(2013年11月)などにも触れられなかった点は先行する言説を踏まえるという観点で見て、不出来なところでした。無論、私自身が読了している「百合」作品の量も、ジャンルを俯瞰的に語るために十分とは自分でもとても思えず(とはいえ、私にとって切実な思考や情緒を身体に走らせた作品のいくつかが「百合」と呼ばれるジャンルに含まれがちであることは確かなのですが)、それで勇み足な記述になった箇所もあったと感じています。いずれにせよ、論考「さようなら、百合男子」は、翌年時の中編ですでに方針変更する事態となり、さらに近年の状況に合わせて筆の運びを考えていたら後編が書き上がらず2021年になっていました。

物語の読解としても、山田なぎさと海野藻屑という二者の関係性にこだわるだけでは不十分でしょう。例えば、なぎさが一時、思いを寄せ、当人は藻屑に関心を持ち、二人と深く関わったクラスメイトである、花名島正太のことを語り落としていては見えなくなるポイントも物語にはあるでしょう(このことを指摘できた点では、「少女・ノーフューチャー」より「さようなら、百合男子」の方が、理論的に「前進」していたと言えるかもしれません)。もちろん『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』に登場する人物はこの三名だけではありません(この点は【補遺-後】の記事で詳しく触れます)。

こうした反省点を踏まえた上で、なぜ、富士見ミステリ文庫版の表紙が惹起するような「百合」的イメージを前景化させる読みに私自身がこだわるかというと、幾つかの記憶が浮かびます。――ゼロ年代の半ば頃、学校の図書室で、アニメ・まんが的な絵柄のついた表紙を持つ「ライトノベル」を眺める二人の女子学生が、こういう本を読むやつって気持ち悪いよねと言いあっていたのを目撃した日のこと(付言しますが、私が出会わなかっただけで同じように「ライトノベル」読者を気持ち悪いと言っていた男子学生たちも当時はいたのでしょう)。――あるいは2010年代の初頭に連載されていた超大作やる夫スレで、ある女性キャラクターが、別の女性キャラと男性キャラの、どちらとカップルになるのかという展開を読者アンケートで決めるところで「百合」を否定する書き込みがひとつならずあって(単に別キャラクターとのカップリングを推すというだけではない嫌悪感を伴っているように私には思われてならなかった)、とても苦しい気持ちになったこと(思い返せば、そもそもこのやる夫スレが、例えば競馬ゲームなどのように交配と世代交代を重ねながら、競技に出場するモンスターを育成するゲームのフォーマットを踏襲していたことが、話をさらに紛糾させていたようにも思えます。問題となっていたのは「モンスター」たちのカップリングでした)。――これらの記憶に固執するのは、今や時代遅れなのだ、という言い方もできてしまうのかもしれません(少なくとも、今では小説に「アニメ・まんが的な絵柄」がついていることがどうしても受け付けない、と表明するひとの方が肩身が狭くなっている空間や組織も少なくないのは確かだと思っています)。ただこうしたことがあったと言わないと、私の体験は本当に「なかったこと」になってしまうのだなと感じたりもして、どう語るのか注意深く選ばなければならないと思いつつも、そうした記憶に強いられて私のうちで駆動する思考を、こうして書き記すことを、試みておきたくもなるのです。――私の記憶がたしかならば、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の富士見ミステリ版の表紙イラストは、ゼロ年代には作品に似つかわしくないと批判されてもいたので、私は、約10年越しに、そのイラストにこそ力を見出す読みもあるのだと証し立てるつもりで、その当時の批判に応答するような心積もりで、そのような論考を書いた、つもりでいたのでした(今や異なる文脈で読まれるであろうことへの注意が不十分だった点で私は視野狭窄だったと思います)。

縷々、自分で気づく範疇で、論考の難点をあげ直しましたが、とはいえ小泉義之によるある種の政治的レズビアニズム(分離主義)の理論的再検討を下敷きに、副題「A Lollypop or A Bullet」が想起させるマルコムXが(少なくとも一時は)述べた分離主義や、二元論的性別観から解放されたカテゴリーとして「レズビアン」を打ち出そうとしたモニック・ウィティッグのことにも触れつつ、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が描きもする「百合」的な夢と、駆け落ち的な仕方での悪しき共同体からの離脱(Exit)の試みの、意義と限界を探ろうとした点で、「さようなら、百合男子」での物語の読解も、「少女・ノーフューチャー」と強調点は異なるが同じ主題系を扱ったものであるのは、私にとっては、確かなことでした。

(思ったより長くなったので、一旦ここで切ります)

[補遺-後へ続く]

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