自動で働くアンデッド:あるゼロ年代ケータイホラー小説における"記号的"身体の一側面について(前編)

1.死者の"記号的"身体

早速だがSaori(佐藤えり)『呪い遊び』(2006)のある場面を見てみたい。主人公が目撃する最初の「惨劇」の場面だ。なお、本記事では以下を始め、暴力的描写を引用する旨を申し添えておく。ここではある男性が鉄パイプを手にした「香奈」と呼ばれる女性に襲撃されている。なお読者は本作の冒頭で「香奈」が別の男性に襲われて脇腹を刺されていた場面を目撃済である。

ドスッッッ…
一発目は脳天を直撃し、男の頭蓋骨は陥没した。
そして…
さらに思い切り振りかぶられた鉄パイプ…
ドカッ…
二発目は背後から腰あたりに入り、男はくの字に折れ曲がり、飛ばされる。
…バリィィィンッ!!
そのまま男は数メートル先の硝子張りの壁にぶつかった。
ありえない。
60キロ以上はあるだろう男が…
トラックに跳ねられたかと思われるくらいの勢いで吹っ飛んだ。
「イテーよ…」
床の上に落ちた男は割れた硝子が体中に刺さって、血まみれになりながらも…
まだ意識があった。
バリリッ…バリリッッ…
必死に身体を動かすたびに、硝子の擦れる音がする。
体は床を、顔は天井を向いていた。
「キャーッ!!」
Saori『呪い遊び』21頁 (空行は適宜詰めた)
https://maho.jp/works/16743963567764105379#16743963567764119505

この後、実は「香奈」は既に死亡が確認されていた人物だったと判明する。――別の男に刺殺されていたのだ。――本作は、死者が生者へと襲いかかり死に至らしめるという「惨劇」の連鎖を生みだすようなある呪いの発現と、その解消とをめぐり人間模様が描かれる、ケータイホラー小説なのである。

が、私がここで記すのは、おそらく本作の「まっとうな」読み方ではない。

私が先ほどの場面で注目してしまうのは、「男」があまりにも頑丈なことである。「頭蓋骨が陥没」し「トラックに跳ねられたかと思われるくらいの勢いで吹っ飛んだ」上に「割れた硝子が体中に刺さって、血まみれになり」、首がほぼねじ切れて「体は床を、顔は天井を向いていた」状態でつぶやいたであろうセリフ、「イテーよ…」。――意識を失ってもなお絶命するできず痛苦に苛まれ続けるという恐怖を描くことが主眼であろうこの一幕は、意地悪く見ればもはや滑稽にすら映る。同時代の読者たちの(ゼロ年代日本の)日常と地続きかに思えていた世界で唐突に発生する人体の現実離れした運動は、さながら実写ドラマ作品がいきなり『ボボボーボ・ボーボボ』のごときギャグ作品になったかのような感触を私にもたらしもする。そのぶち壊し感は例えば、こんな小説の一場面に通じてさえもいると感じる。孫娘に戦時中の記憶を語っていた老爺が突如ヤギのように鳴きだし話が終わってしまう。

 爺さんは目を細めて、パイプを軽く吸った
「その時、太陽はまだ上がったばかりでな、樫の林のまわりにはまだ霞がかかっていた。わしらの馬はそれこそひどい痩せ馬で、あばら骨が透けて見えるほどじゃった。荷車の車輪にはぼろ切れを巻きつけて、音が出ないようにしておった。つまり、そんな具合に進んでいったんじゃよ。ワーシカが馬を引き、セリョーシカ・オサージーが後ろにつき、ペーチカ・ビリューレノクとジェシカは荷車の上に、で、わしはこうして右側に……」爺さんは立ち上がり、パイプを歯にくわえたまま背伸びした。「胸にはドイツ製の機関銃、腰に手榴弾二発、そして将校から奪った詰襟の軍服という出で立ちじゃった。そしてとうとうこの峡谷に入ると、つまり、……」
 彼はぎくりと身じろぎをし、煙を吐いているパイプを口から抜き取ると、甲高い弱弱しい声で鳴きだした。
「メエエエエ」
 落ちくぼんだ口は大きく開かれ、すり減ったまばらな歯がむき出しになり、両目は閉じられて、白髪頭が後ろに反り返った。
「メエエエエ」
 サーシカはきょとんとして彼に目を凝らした。
 爺さんはパイプをもった片方の手を前に差しだし、ぐらりと体を揺らすと、山羊のような鳴き声をあげ、よろよろしながらシダの茂みに分け入っていった。
「お爺ちゃん……お爺ちゃんてば……」サーシカは立ち上がりながら、青ざめた顔でつぶやくように言った。
 爺さんは高く膝を上げながら樫の林のほうに歩いていった。
 彼の震え声が樫の実峡谷にこだましながら響いていった。
ウラジミール・ソローキン「樫の実峡谷」(『愛』1999亀山郁夫 訳)74-75頁

この小説はほんとうに伏線とかどんでん返しとかそういう類ではなく「彼の震え声が樫の実峡谷にこだましながら響いていった」で唐突に閉じられる。もしかすると、中原昌也や木下古栗や大前粟生などの任意の作品を想起したひともいるかもしれない。付言すると、ケータイ小説にはときおりそうした作家の作品に近いテイストが感じられる場面がある(作者の意に沿った読解にはなりがたいので感想を書く際その点は念頭に置いた方がよいだろう)。

もちろんロシアのポストモダン文学者として知られるソローキンの(訳者が評するに)「超グロテスク」で破壊的で「独自のモンタージュ」により特徴づけられるような作品と、ゼロ年代の携帯電話(いわゆるガラケーが中心であり、画面上に一度に表示できる文字量の少なさなど今日の状況に比べれば制約が多い)という環境を念頭に制作された作品とに同じさを見い出す読解は、少なくとも作者の意図に即した姿勢とは言えないだろうし、その見方によって取りこぼされる文脈も少なくはない。とはいえ、突如ヤギになる老爺の暴挙は「甲高い弱弱しい声」にもかかわらず、やはり何か異様な現実離れした躍動感を示すように思われもする。――頭蓋骨が陥没し頭と胴が180度ねじれたまま「イテーよ…」とつぶやき硝子片が刺さった身体をじたばたとさせる、『呪い遊び』の「男」の姿にも見出されるように思える躍動感を。

『呪い遊び』の死者たちは、(生前の人格がどの程度反映されているのかは措くとして)楽しげに生者を襲うが、その際に超能力さえ使う。――以下は死者と化した男(義成)が満潮時に頭が水没し溺死する算段で生者を砂浜に生き埋めにしていると主人公らが助けに駆けつけてきたという場面である。

「はい、二人とも…ストーップ!!」
人間だったものが…
義成がこちらを向く。
義成の顔だけが、体は背を向けたままで。
「邪魔されるとマズいんだよね…終わるまで、ちょこっとそこで待っててよ」
そう言われた瞬間だった。
急に足が動かなくなってしまった。
「満潮まで待とうと思ったのに、面倒臭いなぁ…」
義成はバキバキに折れた指を空にかざす。
「引けっ」
こんなこと、ありえるのだろうか…
波は一気に引いて、砂浜が広がって行った。
「引いたあとは…どうなるかわかるよね」
義成はニコニコ笑う。
Saori『呪い遊び』78頁 (空行は適宜詰めた)
https://maho.jp/works/16743963567764105379#16743963567764119562

この、潮の満ち引きの操作の荒唐無稽さ。超自然的と形容するにはあまりに軽やかで問答無用の「引けっ」。あたかも綾辻行人『Another』(2012年にTVアニメ化)の世界に『X-MEN』のミュータントが入り込んだかのようですらある(もっとも『Another』の連載開始は2006年8月だから、2005年11月から連載されていた『呪い遊び』の方が時系列上は先行しているのだが)。

『呪い遊び』の登場人物たちが体現するような、 "現実離れした" 身体のことを、私は、 "記号的" 身体と形容したくなる。大塚英志『キャラクター小説の作り方』第五講のある一節を、私は思い出す。

まんがのキャラクターというのはミッキーマウスが崖から落ちても次のシーンでは包帯を巻いて出てきてもその次のシーンでは何事もなかったかのように動き回ることができます。[手塚治虫の習作漫画のひとつである]『勝利の日まで』でも爆弾が落ちてもキャラクターは顔が煤けるだけです。
「記号的」というのは[デフォルメされた紋切型から構成されていることを意味するだけではなく]こういうキャラクターのありようを同時に意味するのです。彼らは生身の身体と違って心も身体も傷つかず、傷ついても「包帯」や「煤けた顔」や「タンコブ」という形で記号的に傷つくだけです。
大塚英志『キャラクター小説のつくり方』2003 新書版127頁[ ]は引用者注

大塚の提示したキャラクター論はその後、伊藤剛ほか様々な研究者、批評家によって検討され、更改が重ねられている(例えば、三輪健太朗「落下する身体のリアリズムーー初期ディズニーからピクサーへ」を参照)。なので、この一節を無邪気に援用するのはいささか周回遅れの感のある挙措かもしれない。とはいえ「生身の身体」と「記号的」な「まんがのキャラクター」という対比の眼目のひとつであると思われる、物理法則への従属度合いという観点から捉えるに、不条理なまでに唐突に "現実" と異なる法則を持ち込んでくる『呪い遊び』の死者を形容する際に記号的という語を使うのは――その後の研究史に即した十分な検討を経ていないかもしれないが――便益はあるように思える。義成の「バキバキに折れた指」は『勝利の日まで』のキャラクターたちの「煤けた顔」や「タンコブ」のような記号的な傷ではないか。

とすれば、オノマトペ(ドスッッッ…、バリリッ…バリリッッ…、バキバキ、ニコニコなど)やおそろしく簡潔な描写、理不尽なまでの展開、そして”記号的”身体をもって、このケータイホラー小説もまた大塚英志のいうキャラクター小説であり、同時代のミステリやホラー、またはライトノベルなどと関連付けた読解がなされるべきだという話になるだろうか。だが、私はおそらく大塚が批判するところの「映画の中の死体や血を安心して受け止め、時として「ギャグ」として受け流す」(『キャラクター小説のつくり方』137頁)観客のごとき目線でこの小説を眺めてしまってもおり、さらにソローキンのようなポストモダン文学あるいは日本の現代小説に関連付けてしまってもいた。「超グロテスク」で破壊的で「独自のモンタージュ」を観賞するようにして一連の作品群を俯瞰するとき、私はそれらを嘲弄するような視座、しかも、そうした創作を辱めて抑圧してしまう視座に嵌り込んでいるのではないか。

それを望まないならば、どのような読解を施すべきか。どうすれば私のような仕方の享受を善く語ることができるか。この"記号的"身体の力強さを、期せずしてスラップスティック化したホラーという以上に、どう評価するか。

2.人間を降りる

2011年1-4月に渡り初放映されたアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(TV版)を視聴していて、私が気になったのは、どうして作中の"魔女"たちだけは疲れ知らずに映るのかということだった。奇跡的な願いを先に叶えて、代わりに魔女を討伐する必要を負い(魔力を使うだけでなく生きて感情を動かすだけでも消耗する、というより負のゲージが溜まるため、魔女の討伐で得られる回復アイテムを魔法少女は必要とする)魔法少女の感情が擦り切れると願いの重さに応じて(集まった悪感情、呪いの分)凶悪な魔女になるという物語上の設定には、感情を正負に割り振るという視聴者(私)側の思いなしゆえの納得感と共に、釈然としない感触を覚えてもいた(マスコットキャラクターであるQべえたちのやり方が、フランチャイズモデルとドミナント戦略を組み合わせて、自営業志望者への独立支援の体裁を装いつつ、参加者側から場所代を奪いながら生存競争を強いるプラットフォームを運営するという、その当時からしばしばビジネスでなされていた悪しき策略を純化させたものに映ったというだけではなかった)。――「呪い」が、正の感情の欠如以上の何かであるならば、なぜそれはうまく利用することができないのか。または、「呪い」もまた人間の生産する感情の一種に過ぎないならば、なぜそれはQべえたちにとって使えないものなのか。何より、なぜ希望と同じ程度のたかだか人間の感情としての絶望が、希望より無尽蔵な力として溢れているのか(本当に感情が尽きたらひとは怒ることも嘆くこともなくなるものではないか)。――淡々と、己の権能の限り、倦むことなく、願いに囚われて、同じような作業をし続ける、その魔女はおそろしく勤勉なのではないか。

いわば「舞台装置」的なキャラクター。「NPC」(ノンプレイヤー・キャラクター)や「bot」(一種の自動化プログラム)の理念を体現する姿。――私がナンセンスやホラーの"記号的"なキャラクターの大袈裟で紋切型の振る舞いに見出したものは、そうした姿であり、それはどこか、思うように勤勉には振る舞えない、現にある自らの心身とは対照的に、どこか理想の姿であるとさえ私には思われた。――どうしてロボットのように無心で勤勉に働けないのだろう、どうして、ていねいに生活し、コツコツと頑張れないのだろう、と罪悪感に苛まれるとき私の脳裏を跋扈するのは人間の顔をした"魔女"だ。――私にとって、この種の”記号的”身体は、労働の観念と結びついている。

SNS上でなされたある(笑えない)小咄。上司と部下がこんな会話をする。

「退職したい?」
「はい」
「次は決まってるのか?」
「決まってないです」
「そらみろ、お前みたいなのは余所でも通用しないんだよ。退職してどうするんだ。フリーターでもするつもりなのか?」
「死にます」
「えっ」
「退職したら死ぬつもりです」
「い、いや、それだったら辞めちゃだめだろう」
(megamouthの葬列2020年8月24日のツイート 2020年1月13日最終閲覧
https://twitter.com/megamouth_blog/status/1297557236646948864 )

二人の対話はさらに続くが、ここで確認したいのは、まるで職を失うことと命を失うことが同じ程度の重みであるかのように語る、この部下の姿勢は、狂気の沙汰であるどころか、この上司の物言いを、文字通りに真に受けたに過ぎないものだ、ということだ(付言すれば、引用したツイートに引き続くやり取りがそれをはっきりさせている)。ここでは、労働と生の観念とが、癒着してしまっている。ここに浮かび上がっているのは、死ぬまで働くことを過労死と呼んでよいとすれば、過労死するか、さもなくば退職=死に至るかという、グロテスクな光景である。

なぜ、ひとは死ぬまで働いてしまうのか。そのような問いを立てたある哲学者は、労働をやめると生命を失うかのごとき認識が瀰漫している状況があると指摘し、次のように批判していた。

時代の潮流から「過労死」問題を読み解こうとしている論者たちは、しばしば最も単純な見解を正当化する努力を怠るばかりか、それを顧みさえしない。すなわち、死ぬまで働かされるのが嫌なら労働をやめてしまえばよい、ということを殆ど念頭におかない。念頭におかないのは、当の論者たちが「人を労働させること」を目的とする社会の論理につき従っているからであろうか。いや、おそらくそうではなく、労働をやめてしまえば生きることができない、という半ば自明の事実を受け入れているだけなのだろう。しかし、その事実もまた社会の論理の産物である、と疑ってみるべきではないだろうか。
(濱本真男『「労動」の哲学』2011年、河出書房新社、127頁)

この批判が、個々の「過労死」に見出されるはずの諸問題――制度上や運用上の不備、ひとの道徳心が機能しなくなる雇用の構造、過労による判断力の低下、死に至る労働へとひとを従事させるために行使される恫喝といった諸技法など――を度外視しているようにも映ることは確かだ。しかし、ここで言われるところの「社会の論理の産物」すなわち、「労働をやめてしまえば生きることができない」という認識の蔓延が、列挙した諸問題を下支えしていると解することはできるだろう。死に至るような労働が廃絶される瞬間はついに訪れず、よりマシな過労死しか、考えることができないかのようだ。

もし、そのような指摘が有害で厭世的な空論に過ぎないと感じるひとでも、労働する人間、その一部のみを"まともな社会人"とみなすような認識、また無職者は"社会"に居場所がないという認識が、人々の行動を急き立てているのではないかという指摘には一考の余地を感じるはずだ。――そして、ここまでの記述を大いに首肯するかもしれない就労者のほとんどが、働かない生を目指して退職するような出来事がそう起きないであろうということ、それ自体が、この身も蓋もない問題の解決しがたさを証しだてているはずだ。

SNS上では、こんな一幕もあった。あるひとが書物からこんな一節を引いてくる。「働きたくないひとへ:働くことで人間でいられる。現在、仕事は人間という存在の前提なのだ」。それに対して、こんな声が上がる。「俺は人間をやめるぞ」。(栗宮丼子「哲学書がなんか尖った事言っていじめてくる『働きたくないひとへ』」2011年11月11日 2020年1月13日最終閲覧
https://togetter.com/li/1621418 )

ここでもまた、労働とほかの観念の癒着が問題となっている。――人間だ。かように根深く労働の観念が"人間らしい生"の観念と癒着してしまっているならば、それを批判する一方策として、人間でなくなることすら辞さないような姿勢が要求されるのも、もっともなことだろう。

先の"哲学書”の一節がその典型であるような、人間の本性ないし本質を探究し、定義するような学知を、すなわち"人間学"を批判するある哲学者は、次のように述べていた。「人間一般の概念が獲得され、そこから人間の目的が設定されると、個人の目標は、ほぼその一般的な目的のもとに従属し支配されてしまいます」(江川隆男『超人の哲学:〈哲学すること〉入門』河出書房新社、2013年、8頁)。そして、このような呼びかけがそれに引き続いてなされる。「人間のふりをして、人間のように、人間的に生きるのではなく、超人の振る舞いを身につけようではありませんか」(15頁)。――人間の超越である。

ここで話は加速主義に接続する。その淵源のひとつとして挙げられる書『リビドー経済』において、「リオタールは、労働者が彼らのコミュニティや身体から疎外されることで苦しんでいるといったヒューマニズム的な立場を採らない。むしろ反対に、工場労働における有機的身体の気違いじみた破壊、その狂乱的な解体の只中で彼らは疎外を「享楽(jouissance)」しているのだと」(木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』2019年、星海社、168頁)語っていた。労働の只中で人間を脱し、超人的な怪物となること。加速主義とは、そのような事態の両義性を見据えようとする思想でもあったのではないか。――ここで私たちは、一方でクトゥルフ神話の怪物、特に課せられた労役の役目から外れ反乱を起こしたとされる不定形の怪物ショゴスを言祝ぐニック・ランドを思い出してもよいし、他方で今日勃興しつつある薬物の服用や磁気刺激によるニューロ・エンハンスメントに関する脳神経倫理学上の議論を思い出してもよい。

ただし、このような呼びかけもすぐ、労働のために「人間をやめる」運動へと回収されてしまう危険がある。労働者は人間でなくなることを強いられてもいるからだ。いみじくも、「むろんわれわれが知っている一番性能が高くて安上がりな自動機械は、人間、自然人そのもの」(稲葉振一郎『銀河帝国は必要か?』47頁)なのであり、「人権のない身体」は邪悪なひとつの夢でもあるからだ(例えばチャペックの「ロボット」……)。

いずれにせよ、労働で身体は壊れてしまうだろう。「仮に、一般的な労働者の「生そのもの」が完全に生産的労働にみあった、サイボーグのような身体のことであるならば、「過労死」など起こり得ないのだから」(濱本前掲書51頁)。とすれば問うべきは、いかにして、強いられるのとは別の、おそらくはクリエイティヴな仕方で、「人間をやめる」か、ということになる。それが何であるかは、まだわからない。しかし、それはサイボーグのふりをして、サイボーグのように、サイボーグ的に生きることではなさそうだ。――サイボーグが「一般的な労働者の「生そのもの」が完全に生産的労働にみあった」身体として、一般的に定義される限りにおいては。ここでは、〈サイボーグ〉を、あの魔女やbotやロボットのごときものとして用いているが、それだけが〈サイボーグ〉というコンセプトの可能な使用法だというわけではない。もちろん、問題はこの〈 〉の中に何を入れるか、ではなくて――「超人」さえこの山括弧に入れた瞬間にその批判力を失うかもしれない――この山括弧をいかにして外すか、である。一般に何者かとして認定されるための条件を設定するに過ぎない「~とは何か」という問いではなく、特異なものとして一般の要請に先んじてその場で「いかにして~となるか」という問いへ移行すること。それを考えねばならない。

[後編へ続く]

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