少女、ノーフューチャー:桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』論【中編】2018.11.25

以下は、team:Rhetorica企画+編集『Rhetorica #04 特集:棲家 ver. 0.0』(2018.11.25発行)に寄稿した論考「少女、ノーフューチャー」を、許諾を得て再掲したものです。字数が3万字弱あるため、前中後の三編に分けて掲載します。誤字・脱字や数字表記など、表現を一部改めました。

前編は以下。

4、マゾヒズムの教え:「生き残りゲーム」と成熟

 しかしながら、こうして見出された〈同じさ〉は、――マゾヒズムであれ、「ある種の "ストックホルム症候群" 」であれ――当座は必要でも、いずれは解消されるべき、病的な状態――「まちがった脳の作用」――という含みを免れえず、それゆえ、先に見た成熟の教えの陰惨さを、いっそう引き立てるだけのようにも思われる。この〈同じさ〉に固執することは致命的であるかのようだ。「あたしは両手で顔を覆ったまま、洗濯機に頭を突っ込んで、声を殺して泣いた。藻屑。藻屑。もうずっと、藻屑は砂糖菓子の弾丸を、あたしは実弾を、心許ない、威力の少ない銃に詰めてぽこぽこ撃ち続けているけれど、まったくなんにも倒せそうにない。/子供はみんな兵士で、この世は生き残りゲームで。そして。/藻屑はどうなってしまうんだろう……?」(『弾丸』150頁)。もちろん、藻屑は殺されてしまうのである。以下に見る愁嘆の場面は、あたかも、虐待の末に殺された藻屑の事例を、いわば教材として、担任教師がなぎさにこの「まちがった脳の作用」に固執することの致命的な害を教示している一節であるかのようにも映る。「「噂もあったし、近所の人の通報もあった。児童相談所のほうとも相談してたんだ。ただ、海野本人と話すと、父親のことを庇うもんだから、話が進まなくて」/ストックホルム症候群だ、まちがった脳の作用だ、とあたしは思った」(『弾丸』198-199頁)。この〈同じさ〉を肯定するためには、まだ、対峙せねばならない何かがあるようだ。

 この小説では、言葉を弾丸に擬する比喩が、少女たちを兵士に擬する比喩と結びついており、それゆえ成熟すなわち「大人になる」ことは――先に見たベルサーニのマゾヒズム論もそうだったが――「生き残ること」と同一視されている。しかし、「大人になる」こと、また「生き残ること」は、本当に、「生き残りゲーム」での勝利を意味するのか。その勝利には本当に「自由」が伴うのか。なぎさと藻屑の担任教師は、自らの無力感をこう告白している。「だけど保護する方向で動いてたんだ。俺は大人になって、教師になって、スーパーマンになったつもりだったから。山田のことでも、おまえに嫌われてもいいから、高校行けるようになんとかしてやろうって張り切ってたし。海野の家だってなんとかするつもりだった。ヒーローは必ず危機に間に合う。そういうふうになってる。だけどちがった。生徒が死ぬなんて」(『弾丸』199頁)。「未成年」の「サバイバー」であり、「生き残りゲーム」を勝ち抜いたはずの担任教師は、それにもかかわらず、「自分で運命を切り開く力」のなさに、打ちのめされているようなのだ。これでは、「大人になって」も「自由にな」れない、と考えざるをえないのではないか。

 とすれば、「大人になる」とは一体どういうことなのか。いっそう陰惨とした気分になるが、次の担任教師の嘆きが、それを示唆しているように思われる。「「あぁ、海野、生き抜けば大人になれたのに……」/絞り出すような声。/「だけどなぁ、海野。おまえには生き抜く気、あったのか……?」」。ここで担任教師は何をしているのか。藻屑は自分から「大人になる」ことの拒否によって死を選んだのではないか、と仄めかしているのである――なお、この担任教師の心情を忖度したり、それに共感したりすることもできるだろうが、それは度外視する。――おそらく、この担任教師は、自分の無力を否認するために、藻屑の死は藻屑の自己責任だとみなそうとしている。ここでは、藻屑の「ある種の "ストックホルム症候群" 」すなわちある種のマゾヒズムが、「生き残る」ための方策であったことが忘れ去られ、ただの「まちがった脳の作用」に貶められている。藻屑は、あたかも、治療拒否の末に死んだ病人のように扱われており、「大人」が感じていたはずの無力感は、免責の論理によって無化されようとしている――「大人」は藻屑を「生き残」らせるために努力したが、当人に「生き抜く気」がなかったので、致し方なかった、と。

 「大人になる」とは、「生き残って大人になった」はずの現在もなお自らが「自分で運命を切り開く力」を持たないことの、否認に過ぎないのではないか。あの担任教師も、いうなれば、担任教師の中だけでつじつまのあっている "大人教" を頼りに「生き残る」努力を続けており、その意味では、「大人になったふりをして[……]心の中でだけもうダメだよ、と弱音を吐いてる」なぎさと同じなのではないか。では、「大人」と「未成年」は何が違うのか。おそらく、次の点である。――「大人」とは自らが「未成年」であること――つまり、自らが「ある種の "ストックホルム症候群" 」であることを――を、認めようとしない「未成年」なのだ。

 汎少女論の見方からの、この小説の読解は、かくして、次のような問いに行き着く。――この社会の中に生まれ落ちた私たちは、いわば、社会に虐待されることで、「この世は生き残りゲーム」だから生き抜かねばならない、生き抜けば「自由」を勝ち取ることができる、と不可避に思い込んでしまっているのではないか。いわば、治療不可能なマゾヒズム――否認することはできるが、その否認が、避けようとする結果をいっそう悪い仕方でもたらしてしまうだけであるような、ある種のマゾヒズム――が、私たちの、「〈少女〉」の生に、深く根付いているのではないか。しかし、成熟を断念すること――この意味でのマゾヒズムを是認し、「運命を切り開けない無力さ」を甘受すること――こそが、最も賢明な態度だ、などと結論するのは、やはりひとつの――ひょっとすると最悪の―― "大人教" であるようにも思われる。――先見の明を誇る啓蒙家たちは、「無能な者たちを治療するために、無能な者たちを際限なく生み出し続ける必要があるのだ。ところで、この 産出を確実なものとするには、周期的に健康を病気に、病気を健康にころころ変える芸当[ルビ:トゥール]があればよい」(ジャック・ランシエール「批判的思想の災難」『解放された観客』梶田裕訳2013年11月、法政大学出版局、61頁)。――では、どうすればよいのか。

5、「生き残りゲーム」と「ビバ変人!」:エーデルマンの再生産的未来主義批判から

 上野千鶴子は大塚英志の『少女民俗論』に寄せた文章で次のように述べていた。「橋本治は成熟を拒否する女を〝スカートをはいた少年〟と呼んだ。/大塚英志は成熟を拒否する男を〝ズボンをはいた少女〟と呼ぶのだろうか――成熟とはここでは産業社会の中に、つまらないオジサンとして組み込まれることだ」(上野千鶴子「オジサンになりたくない男のための必読書」大塚英志『少女民俗学』カバーそで)。成熟の教えおよびマゾヒズムの教えが提起する問いの困難は、この上野の小文に凝縮されている。

 もし、成熟することが「産業社会」の中で「生き残る」ための適応なのだとすれば、成熟そのものを拒否するのであれ、別の仕方での成熟を探究するのであれ、今ここでの成熟を拒否するという試みは、「産業社会」の中で生き抜けなくなる――それが自ら緩慢な死を選ぶことだとしても――ことを選ぶのか、それとも、「産業社会」の外部で生き抜いていこうとする――それが異なる「産業社会」を新たに建設することに過ぎないとしても――ことを選ぶのか、という絶望的な二者択一に落着するように映ってしまう。そしておそらく、そんな絶望的な二者択一の果てにあるのが、その選択を生き抜いたものたちと(元からある、あるいは、新たに生じた)「産業社会」との、もはや妥協とも感じられなくなった妥協であり、その妥協がいわば、"新しい調和" のようなものとして、しぶしぶ――あるいは、疲弊とともに――是認されることになるであろうことは、おそらく誰もが予感しうるところであるはずだ。

 だから、私たちが試みるべきことは、きっと、「生き残る」とはどういうことかと問いに付すこともなしに、「生き残る」のは「産業社会」に適応することであると自明視する価値観、また、そもそも「生き残る」のはよいことだと自明視する価値観、それらを批判的に検討することである。藻屑は、成熟を拒否したから「産業社会」から退場して――殺されてしまい――死んだので「生き残りゲーム」に負けた。――このような解釈は、そこに至る筋道には、そもそも、どこかおかしなところがあるのではないか。

 ここで、もうひとつ、クィア理論家の著作を参照しよう。アメリカ出身でイギリス文学研究者でもある批評家、リー・エーデルマンは、『ノーフューチャー クィア理論と死の欲動』(2004年、デューク大学出版)の中で、たとえ、いかなる(政治的な)立場を選択するとしても、その選択の幅は、将来「生き残る」ことができるはずの範疇に留めなければならないという考えを再生産的未来主義と呼んで批判している。エーデルマンがそれに対置するのは、あらゆる立場を解体せしめんとするような外部、死の欲動と等置される限りでの、クィアで、自壊的な立場(外)である。精神分析家のジャック・ラカンによる、ソポクレスの戯曲『アンティゴネ』の読解に言及しながら、エーデルマンはこう述べている。「政治的な自己破壊は、ある行為がそれとして認められるとき、その行為に本来的に備わっているものだ。すなわち、命脈を保つという名目でなされる未来への隷属に抵抗する行為には」(『ノーフューチャー』30頁)。エーデルマンにとって、クィア性とは、このような「政治的な自己破壊」と切り離しえないものである。

 乱暴にまとめれば、再生産的未来主義とは次のようなものだと思われる。――再生産可能な範疇でのみ、未来を残せるような範疇でのみ、政治性を認めること、つまり、見込みのない政治的立場、建設的でない政治的主張は、いうまでもなく問題外とすること。――個人として「生き残る」ことの至上命題化は、社会の一員として「生き残る」ことの至上命題化へと容易に横滑りしてしまうように見える。そして社会の一員として「生き残る」ことの至上命題化は――少なくとも、現状では――次世代育成力の、有無を言わさぬ是認へと結びつき、また現行の異性愛規範を否定しがたくしてしまうのである。だから、エーデルマンは自壊的立場、否定性に留まる何かを、クィアという語と、精神分析に由来する死の欲動という語とに託して、それを言祝ぐのである。

 エーデルマンの顰に倣えば、桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を、汎少女論の見方から読解する私たちの試みの、差し当たりの目標はこうなるだろう。すなわち、人魚として生き抜こうとした藻屑の生を、再生産未来主義に抗するようにして――「生き抜けば大人になれたのに……」という「生き抜いて大人になった」担任教師の嘆きにも、「砂糖でできた弾丸[ルビ:ロリポップ]では子供は世界と戦えない」という、大人になりつつあるなぎさの総括にも同意することなく、――つまりノー、と口にしながら――肯定することである。藻屑は、人魚として――そして〈少女〉として――「生き抜く気」があったと認めうるのではないか。――いや、そうではない。ノー。――そうではなくて、このように問うべきだ。――「生き抜く気」の有無など詮議せずとも、人魚としての生、〈少女〉としての生を、藻屑は、現にその姿でもって、示しているのではないか。――これこそが、汎少女論的な見方から、この小説に向き合う読解の、切り開くべき地平なのではないか。

 だが、そうであるとするならば、実のところ、ここでの肯定は不十分なものに留まるように映る。誰が「生き残るのか」という問題設定そのものを「再生産的未来主義」の仕掛けた「生き残りゲーム」として否定しようとするように思われるエーデルマンの理論を、このまま適用したとしても、藻屑のような生は、いまだなお、「いつまでこれを飲んでものどの渇きは止まらない気が」するようなミネラルウォーターのごときものとして、つまりは、何らかの否定性を帯びた無のようなものとしてのみ、肯定されるにとどまるのではないか【※注1】。とすれば、私たちは、藻屑と、無において同じであり――それは、言ってしまえば、どこも同じではないということではないのか。

※注1】エーデルマンは『ノーフューチャ』の第二章以降で、自らがクィア性に見出した、再生産的未来主義に抵抗する特質を、サントーモセクシュアルと呼びなおしており(sinthomosexual。エーデルマンによる造語で、ラカンに由来するサントームsinthomeという精神分析用語と同性愛homosexualの合成語である。羽生有希は「クィア・ネガティヴィティの不可能な肯定――固有/適切でない主体の脱構築的批評」〔『Gender and sexuality』第11号、2016年、国際基督教大学ジェンダー研究センター〕の中で、「症性愛」と訳している。羽生論文注3を参照)、『ノーフューチャー』の第二章以降ではむしろ、この〈サントーモセクシュアル〉が、クィア性という語よりも適切なものとして用いられているように見えるのだが、ここでは詳論できない。ここで確認しておきたいのは、エーデルマンにとってサントーモセクシュアルとは、「いかなる性別ともいかなるセクシュアリティとも――それどころか、実は、第四章で明らかにするように、いかなる生物種とも、特権的な関係を持たない」(『ノーフューチャー』165頁、注10)ことである。

 そのとき、結局、藻屑の生は、「誰もが、かわいくてかわいそうである」という汎少女論的な見方からというよりは、むしろ、「滅びるだけ」の「〈少女〉」を見送る側から、要するに、「〈大人〉」であると自認している何者かの側、また「〈大人〉」になる見込みがあると自ら認めたり周囲に認められたりしている「未成年」の側から、自分たちとは異なる何か(否定性や無のようなもの)として、肯定されるに過ぎないのではないか。藻屑は、「生き残って大人になった」――あるいは、そう信じ込むことができるようになった――人々に、例えば、あの担任教師や、なぎさのような人々に、自分と違って死んでいく敗者、死んでしまった敗者として、「生き残りゲーム」の中に、排除という仕方で包摂されるにとどまるのではないか。ここには、あの〈同じさ〉が、その肯定が、欠けているのではないか。

 乱暴な読みではあるが、エーデルマンの理論は、社会には必ず余計者がついて回る、といった物言いに、のみこまれてしまう恐れが、たしかにある。エーデルマンの理論は、結局のところ、社会の主流派との関連において、余計者に意義を認めているだけだと解されてしまうかもしれないのだ。

 桜庭一樹は、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』文庫版のあとがきにおいて、「海野藻屑ちゃんをつくったきっかけ」(『弾丸』205頁)を次のように紹介している。「中一のときにわたしのクラスにここには書けないけどすっごいへんな名前の女の子がいて、そいつはわたしが "小説家志望の女の子" なのを知ると「となりの島根県に女流作家がいるよ」と教えてくれて、その女流作家と交換日記できるように計らってくれました。それでくる日もくる日も交換日記を続けたのですが、ある日わたしは放課後の教室に忘れ物を取りに行って、見てしまいました。そいつが……ものすごい一生懸命、自分とは別の筆跡で、別の人格になりきって、長い長い日記を書いているところを……っておまえだったのかい!?/わたしにばれたのを察すると彼女の日記は、自分と仮想人格の女流作家が入り混じってどんどんオカシクなり、なぜか命がけの勢いで嘘を貫こうとし、気圧されたわたしは「もう知ってるから、いいよ」の一言が言えないまま奇妙な交換日記をその後もずっと続けました。/その後、高校でも、大学でも、わたしはときどき、顔がすごくかわいくてものすごい嘘つきだけどぜったいにほっとけない、みたいなおかしな女の子と繰返し出会いました。それで思ったのは「壊れるにもセンスって大事だよなぁ」みたいなことでした。ビバ変人!」(『弾丸』205-206頁)。ここに引いた桜庭のあとがきの一節は――この小説の内容とは裏腹に、いっそ不穏さを感じるほどに陽気なのだが――エーデルマンの理論を気軽に援用することの陥穽を考える上で示唆的である。

 つまり、こういうことだ。――どこかから「政治的な自己破壊」を見出して言祝ぐのは、「ビバ変人!」の大合唱を行うために、「センス」のある「壊れ」方をした人々を――「生き抜く」つもりの自分たちとは違い、もう社会から退場して――沈黙して――いるか、やがて退場する――沈黙する――とこちら側で見切りをつけている人々を利用することに過ぎないのではないか。――それは、沈黙する「変人」を代弁したり、我もまた「変人」(の同盟者)なりと自ら(僭)称したりすることに過ぎないのではないか。

 私たちは、再生産的未来主義に抗って、藻屑を肯定したかったはずだ。私たちが試みようとしていたのは、社会――私たちが、その一部でもあるような――に対して、藻屑が無を体現しているだとか、否定性を体現しているだとか、そのような、私たち自身がそうであるところとは異なる何かとして、特徴付けることではなかったはずだ。――では、どうすればよいのか。――しかし、この、どうすればよいのか、という問いも、教えてもらった通りにすればうまく切り抜けていくことができるはずだから、生き残らねば、という強迫的な思いから出てくる問いなのだろうか。――そして私たちは、ついに、どん詰まりに突き当たる。

6、「トリック」――ターニング・ポイント

 この小説、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は、どこか、ミステリの雰囲気を醸しだしている。それは、人間や犬やウサギの惨殺事件を扱っているから、というだけではない。実際、物語の中で、「心理的トリック」という言葉が口にされもするのである。人魚は自由自在に泡に変身できるので、密室からの脱出も容易いと語る藻屑は、自宅の玄関の前で、「家に入ってきっかり一分後。泡に姿を変えます。そして消えます。ぼくがまごうことなき人魚だという証拠です」(『弾丸』74頁)と宣言して玄関のドアを開け、その後に藻屑家を捜索したなぎさたちは、ついに室内に藻屑の姿を見つけ出すことができない。この「藻屑のイリュージョン」(『弾丸』178頁)のタネは、友彦によって「サイコロジカル・ミスディレクション。いわゆる "心理的トリック" 」(『弾丸』109頁)であると指摘されていた。なぎさから友彦の指摘を聞いた藻屑は、友彦がインターネットで「きっと、ぼくと同じサイトを見てる」(『弾丸』123頁)と語る。なぎさの語る物語には、トリックの主題が散りばめられている。

 内容だけではない。――実のところ、なぎさの語り口自体に、ある「トリック」のように思われるのである。この小説の主要な語り手、なぎさは、錯時法を際立った仕方で用いている。例えば、次の一節は、典型的な錯時法の語り口である。「――もちろんそのときは、知らなかった。/あれが、自分をバラバラ死体にするためのでかい鉈を自ら背負って歩いている、かわいそうな女の子の後ろ姿だったなんて」(『弾丸』65頁)。こうしたなぎさの述懐だけではない。――目次の直後、物語が第一章から始まる直前に、「中学二年生、海野藻屑さん(一三)」の「バラバラ遺体」が「十月四日の早朝」に「同じ中学に通う友人、A子さん(一三)」に発見されたと報告する「新聞記事より抜粋」の文章を掲示して始まるこの小説は(『弾丸』5頁)、それのみならず、なぎさと友彦が藻屑の遺体を捜して山に向かうまでの会話を、それ以前の出来事の語りに繰り返し挿入してもいる。「あれは――/九月のことだ。そしていまは、いまは、十月四日の早朝――」(『弾丸』17頁)。この語りが序盤から挿入されることで、順に頁をめくっていく読者は、ついに十月四日の早朝からその先を描く終章(191頁以降)までの描写を――しばしば挿入される「十月四日」の場面を除けば――もう取り返しのつかない過去の出来事として、読み進めることになるのである。この小説が示す出来事は、時系列に沿って提示されておらず、むしろ、藻屑という登場人物が殺されてしまう「かわいそうな女の子」であることを決定事項のように先説するある観点から、錯時法的に編集されているといってよい。それは、ある可能性から目を逸らさせるための、「ミスディレクション」なのではないか。――実のところ、なぎさには、藻屑を助けるチャンスがあったのではないか。

 藻屑が殺されるのは、なぎさと一緒にまだ見ぬ理想郷へと逃げる支度するために、自宅へと戻った、そのときである。しかし、その直前、これから山田家を出ると宣言するなぎさに対して、友彦は、異例なほど攻撃的な反応を見せていた(『弾丸』177頁参照)。とすれば、藻屑と自身の〈同じさ〉を知るはずのなぎさには、藻屑と雅愛のあいだでも同じような衝突が、――しかも、いっそう激しい衝突が――生じても不思議ではないと、予測することもできたはずではなかったのか。ところが、描かれているのは、そのような危惧を感じることもなく、玄関を開ける藻屑を見送っていた、なぎさの姿である。藻屑が雅愛に虐待されていることはその時点ですでに認識していたはずなのに、また、雅愛が「まるでバラバラ殺人みたいな歌詞。人魚をぶったぎってお刺身にして食べちゃう歌」(『弾丸』100頁)で有名であることも知っており、藻屑の案内で、惨殺された海野家の愛犬の死体を山で目撃したことさえあったにもかかわらず、――その下手人が雅愛か藻屑かはこの時点のなぎさにとっては判然としていなかったにしても――雅愛が中にいるかもしれない海野家に、藻屑が入っていくのを、なぎさは、ただ見送ってしまっていたのである。「微笑が余韻を残すように少しずつ、閉まっていくドアによって遠ざかっていった。そのままあたしはそこに立って、藻屑と一緒に行くはずのどこか遠いところを夢見ていた」(『弾丸』178頁)。

 たしかに、藻屑を殺したのは雅愛であろう。だが、「どこか遠いところを夢見」るばかりで、雅愛と藻屑が遭遇する、その事態を考慮しなかったかのようななぎさは、予測できたはずの事態を忘れ藻屑を茫然と見送ったなぎさは、それを自らの過りとは感じなかったのだろうか。自らの過失を、苦には思わなかったのだろうか。これは本末転倒の問責であり、悪しき弾劾に過ぎないだろうか。もちろん私は罪責性を詮議したいのではない。ただ、あの瞬間に、藻屑が殺されるのを止められたかもしれないのは、なぎさだけであったように描かれているのは、たしかだ。――冒頭から藻屑が殺されることを決定済みの事柄として扱い――あたかも「ゼロ地点に注目させる」ことで「本当にトリックを使う場面」から注意を逸らさせるかのように(『弾丸』112頁)――あの瞬間のなぎさの無力に意識を向けさせないこの物語、そして――「〈少女〉」と「〈大人〉」、「砂糖菓子の弾丸」と「実弾」の二分法を再導入するかのようにして――「砂糖でできた弾丸[ルビ:ロリポップ]では子供は世界と戦えない」と一連の出来事の総括を試みる、なぎさの語り口には、「だけどなぁ、海野。おまえには生き抜く気、あったのか……?」という担任教師と同様に、藻屑を引き留められなかったなぎさの無力への注意を回避するような、「心理的トリック」が見出されてしまうのである。結局のところ、なぎさの語り口は、「生き残る」見込みを得られた終章以降のなぎさの立場から、いわば藻屑の死を "ダシ" にして、成熟の教えを説くような方向へと、まとめ上げられてしまっているのではないか。――それだけではない。そもそも、桜庭一樹による「あとがき」を見る限り、作者自身が、そのような立場から、「おかしな女の子」たちを "ダシ" にして、成熟の教えを説いているようにさえ映る余地が残されてもいる。――あの、おそろしく明るげな、「壊れるにもセンスって大事だよなぁ」の声。――ある悪夢めいたオブセッション。犠牲者・藻屑のような "人魚" の残骸(バラバラになってしまった)を後に見据えつつ、殺人鬼・雅愛のような "悪魔" を裁きながら「ビバ、変人!」と叫んで前へ前へと吹き流されていく羽の生えた御使いは、もはやそれ自らが、どこか悪魔めいた相貌をたたえていはしまいか?――ベンヤミンの "歴史の天使" は時折私にそんな歪像を思い描かせる。

 それだけではない。――やはり私は私にも、こう問わざるをえない。――私の偏頗で執拗な読解は、陰惨な気分になることを回避できない、私の無力から目をそらすための、犯人探しに過ぎないのではないか、と。――私は、結果的に、いかに成熟の教えが「生き残る」上で不可避なのかと、繰り返し確認しているだけではないか、と。――私は、私たちの〈同じさ〉を肯定するという試みから、ただ遠ざかっているだけなのではないか、と。――どん詰まりの、閉塞。――しかし、まさに、ここでこそ、転回が始まる。――全ての出来事を再生産的未来主義に適合するように編集する錯時法の語り口は、成熟の教えの深淵へと沈降する契機であるとともに、また、別の教えの契機を――そして、〈同じさ〉の肯定の契機をも――告げ知らせる、ひとつのターニング・ポイントとなるかもしれない。

[後編に続く]


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