ニック・ランドNick Land「加速主義の拙速な紹介」(2017)の紹介(導入と日訳)

■はじめに

 本記事では、ニック・ランドの2017年のエッセイ「加速主義の拙速な紹介(A Quick-and-Dirty Introduction to Accelerationism)」の日訳を掲載する。原文はWEBマガジン『Jacobite』に2017年5月25日付で掲載された記事に拠る。本記事は、400字程度の「導入」と、5000字程度の「日訳」からなる。「導入」では翻訳者が原文の導入的な内容を記述した(私の読解に即してまとめているので、一つの解釈として批判的な参照をお願い申し上げる)。「日訳」では原文を翻訳した。

 ニック・ランドに関する日語文献としては、例えば以下の書籍などを参照のこと。
・木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』2019年1月
・木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』2019年5月
・『現代思想2019年1月号 特集=現代思想の総展望2019 ポスト・ヒューマニティーズ』(ランド「死と遣る」(原著1993)の日訳所収)
・『現代思想2019年6月号 特集=加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉』(ランド「暗黒啓蒙」やマッカイ/アヴァネシアン編著『加速主義読本』の抄訳、解説などが所収)

 メールにて翻訳掲載の旨を御快諾いただいたニック・ランド氏に、心より御礼申し上げます。本記事が、皆様による、より厳密な訳読と強度ある読解とに資することを願って。Thank you for prompt reply from nickland333... .

※翻訳に関して何かございましたら下記アカウントまでお知らせください。

■「加速主義の拙速な紹介」導入

 ランドは、恒常性を保つための負のフィードッバック機構(「領土化」)と、現状を逸していく正のフィードバック機構(「脱領土化」)を対置し、その後者を称揚する(「脱領土化こそ加速主義がそれについて語ってきたようなただ一つの事柄だ」)。ランドによれば、修正なき資本主義に「脱領土化」の方途は見出されるという。ただし、ランドはそうした資本主義が人間(の資本家)のためにあるとは主張していない(「人類はその主人ではなく、当座の宿主である」)。例えば、マーク・フィッシャーによるブログ記事への批判記事の中で(※2007年1月15日付)、ランドは資本主義が「人間の予期を大きく超えて、新たな生と知性の新たな地平とのために、生と生物の知性とを消費してきた」と述べている。ランドによれば「従前のどんな人間が想像していたことも超える新規性をもすでに現実化してきたのに、資本主義はいまだに加速し続けている」という。おそらく、あなた=人類は、道具、目的、創造、そして資本主義とは何であるか、捉えなおさねばならない。それがランドの提示するスタンスであるように思われる。

※ランド「超越論的厭世主義の批判(Critique of Transcendental Miserablism)」

■「加速主義の拙速な紹介」日訳

著 Nick Land (江永泉 訳)
題名 A Quick-and-Dirty Introduction to Accelerationism
初出 『JACOBITE』2017年5月25日

https://jacobitemag.com/2017/05/25/a-quick-and-dirty-introduction-to-accelerationism/
本文強調は原文斜体。[ ]内は訳者。

加速主義だと考えているものについて理解しようと試みる者は誰であれ素早くそうする。それが事の本性だ。数十年前、自覚的になり始めたときには既に、後追いするには余りにも速いものに映る潮流にそれはすでに追いつかれていた。そのとき以来、それは大変に速度を増している。

加速主義は時流に乗ってきたといえる程度には十分に古く、つまり執拗く、また再発を繰り返すがごとく到来しており、そしてその度ごとに課題はより差し迫ったものになっている。そこでの見込みの中には、加速主義を理路整然と扱うにはあなたがたは余りに鈍重だという予期がある。しかし、あなたがたがこの問いを扱い損ねるとすればそれが示すのは――畳みかけられるがゆえの――あなたがたの負けであり、それはとても残念なことだ。ハードである(ここでは我々の狙いから、「あなた」を「人類の意見」の持ち主として擁立させている)。

時の圧力は、そのもののまさに本性によって、思考しようとすることが困難である。通常、熟慮する機会は必ずしも当て込まれない一方で、少なくとも――圧倒的な公算として――変数ではなくて、歴史的な定数であると誤解されている。もし考える時間がこれまでにあったならば、我々はこう考える、つまり、考える時間はいまなおあり、また常にあり続けることだろう、と。意思決定するための時間の割り当てがシステマチックな圧縮を受けているということに関する明白な蓋然性は、変化の急速さの増大へと例外的で明確な注意を払っている人々の間でさえも、ないがしろにされたままの考察であり続けている。

哲学用語で言えば、加速の深刻な問題は超越論的である。それは絶対的な地平を描いている――そして締めくくられつつある。思考には時間がかかり、加速主義が示唆するのは、我々がすでにそうしてしまっているのではないとしてだが、それを通して考えるところの時間というものを我々が使い果たしつつあるということだ。そのようにするための機会が急速に崩壊しているということも認められるまでは、いかなる現代のジレンマも現実的に考慮されていはしないのだ。

加速に関する公な会話が始まっているならば、見事に遅きに失してしまったのではないかという疑いがやってくるはずである。話題を「ホット」にする深刻な制度上の危機は、その中核において社会的な意思決定能力の爆縮を抱えている。何をするにせよ、この点では、あまりに長くかかってしまうだろう。だからその代わり、出来事は増々ただ起こるだけになる。トラウマにさえなる程度に、出来事はつねに制御を外れているように映る。基本的な現象がブレーキ故障であるようにみなされているから、加速主義がもう一度取り上げられるのだ。

加速主義は、決定空間の爆縮を世界の爆発と、つまり近代性と結び付ける。爆縮と爆発の概念的な対照性は、それらのリアルな(機械的な)結合を妨げるものではないと注記することが、それゆえ、重要である。熱核兵器が最も鮮烈で啓発的な例を提供してくれる。水爆は[核融合反応の]引き金として原爆[による核分裂反応]を採用している。核分裂反応は核融合反応を引き起こす。核融合した塊は爆発のプロセスによって[核爆発の]火種に砕かれる(近代性とは爆発である)。

これはすでにサイバネティクスについての話をしていることでもある。サイバネティクスは唸りを増幅させ、そして意味のない泡のひろがりへと散逸させていくが、それは次の爆風が当たるまでのことだ。

加速主義にとっての重大な教訓はこれだ。すなわち、負のフィードバック回路――蒸気機関の「調速機」やサーモスタットのような――は、同じ場所でシステムをある状態で保つように機能する。その働きの所産とは、フランスの哲学系サイバネティクス実践者であるジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリにより定式化された言語における、領土化のことである。負のフィードバックは、逸れを修正し、そのようにして限定された範囲を超えるような離脱を抑制することにより、過程の運びを安定させる。力学は固定に用立てられる――より高い水準での均衡、またはその状態に。複雑なシステムや諸過程のすべての平衡モデルはこのようなものだ。自己増強された誤用、逃走、そして回避によって特徴づけられるような逆の傾きを捉えるために、ドゥルーズ&ガタリは洗練されていないが影響力のある用語、脱領土化を新造している。脱領土化こそ加速主義がそれについて語ってきたようなただ一つの事柄だ。

社会的歴史的用語においては、脱領土化の線は修正なき資本主義に照応する。基礎的な――そして、もちろん、相応にその帰結たるリアルな程度にまで現に実装されている――図式は、正のフィードバック回路であり、そこでは商業化と産業化が暴走する過程の中で相互に激化させあっており、近代性はその勾配をそこから引き出している。カール・マルクスとフリードリヒ・ニーチェは、この潮流の重要な諸相を捉えている面々に入っている。回路が漸進的に閉じられていくか、強度を増していくにつれ、以前より大きな自律、自動化が示される。それはより緊密に自動生産的になる(それはただ「正のフィードバック」がすでに示していたことだが)。それがそれ自身を超える何ものにも訴えないため、それは内在的にニヒリスティックである。それは自己増幅以外に考えうる意味を持たない。それは成長のために成長する。人類はその主人ではなく、当座の宿主である。それのただひとつの目的はそれ自体なのだ。

「過程[プロセス]を加速すること」。マルクスを再び活きたものにするために、ニーチェを引用しながら、1972年の『アンチ・オイディプス』でドゥルーズ&ガタリはそう提言した。確かに「加速主義」が、ベンジャミン・ノイズによって、批判を込めて、そう命名されるまでにはさらに40年を要したはずだが、そのまるごとが、すでにそこにはあった。関連のあるくだりはその総体を繰り返す価値がある(それに引き続くすべての加速主義者の議論も、繰り返し、そうであるはずのように)。

どのような革命の道があるというのか。それはひとつでも存在するのか。それは、サミール・アミンが第三世界の国々にすすめているように、世界市場から退いて、ファシスト的な「経済的解決」を奇妙にも復活させることなのか。そうではなく逆の方向に進むことなのか。すなわち市場の、脱コード化の、脱領土化の運動の方向にさらに遠くまで進むことなのか。というのも、おそらく、高度に分裂症的な流れの理論や実践の観点からすれば、もろもろの流れはまだ十分には脱領土化してもいないし、脱コード化してもいないからである。過程から身を引くことではなくて、もっと先に進むこと。ニーチェがいっていたように、「過程を加速すること」。ほんとうは、このことについて私たちはまだ何も理解してはいないのだ。[ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』第3章第9節「文明資本主義機械」の結び]

資本主義に関する分析のポイント、あるいはニヒリズムに関するそれは、それをもっとやることである。プロセス[過程]は批判されるべきではない。そのプロセスこそが批判であり、それ自らへとフィードバックを返しており、それにつれてそれはエスカレートする。前に進むための唯一の方途は通り抜けることであり、その中でさらに進めんとすることだ。

マルクスには彼自らの「加速主義者的な断章」があって、それは注目すべきことに『アンチ・オイディプス』からの一節を先取りしている。彼は1848年の「自由貿易問題についての演説」でこう述べている。

一般的には、今日では保護貿易制度は保守的である。これに対して自由貿易制度は破壊的である。それは古い民族性を解消し、ブルジョアジーとプロレタリアートとの間の敵対関係を極限にまでおしすすめる。一言でいえば、自由貿易制度は社会革命を促進する。この革命的な意義においてのみ、諸君、私は自由貿易に賛成するのである。[マルクス「自由貿易問題についての演説」『マルクス=エンゲルス全集』[日訳底本は『Marx-Engels-Werke』]の第4巻などに所収]

このような加速主義者の胚芽層の中では、資本主義の破壊とその激化との間に設けられるべき区別は全くない。資本主義の自動的破壊が資本主義なるものである。「創造的破壊」がその総体であり、その遅滞、部分的な補償、あるいは抑制はただ脇に置かれるのみだ。資本は、いかなる外在的な「革命」がそうしうるはずのものよりも徹底的に、それ自体を革命する。もしそれに引き続く歴史上ではすべての問いが棚上げになりこのポイントが擁護されてこなかったとしても、それは少なくとも、おかしくなるほど猛烈な程度には、そのような擁護のふりをしてきたのである。

2013年、ニック・スルニチェクとアレックス・ウィリアムズは、言語道断たる資本主義賛同者の「右派加速主義」の影に対して明確に一線を画する、具体的な反資本主義者の「左派加速主義」を析出することを狙いとする「加速主義者の政治のためのマニフェスト[日訳では加速派政治宣言]」の中で、先に述べた堪えがたい――「スキゾ的」でさえある――両義性を解消しようと努めた。この試みは――案の定――いかなる持続可能なやり方で加速主義者の問いをイデオロギー的に浄化することよりも、それに息を吹き返させる点においてより功を奏した。彼らのいう境界線を引くことができたのは全くのところ、ただ資本主義と近代的技術的な加速にまるきり人為的な区別を導入することによってのみだった。それが暗に要請するのは、NEPのない(そして例証として引かれたチリの共産主義者によるユートピア的なテクノ-マネジメント的な実験を伴う)新しいレーニン主義であった。

資本は、その究極的な自己定義においては、抽象的加速的な社会的要因以外のなにものでもない。その肯定的なサイバネティクスの図式はそれを使い果たす。暴走はそのアイデンティティを消費する。あらゆる他の決定は、その激化のプロセスのある段階で、事故として打ち捨てられる。社会的歴史的加速を一貫して培うことのできるものは必然的に、あるいは本質的に、資本であろうから、「左派加速主義」が真剣に勢いをえるといういかなる明白な見込みも堂々と却下しうる。加速主義は単に資本主義の自己認識であり、ほとんど始まっていない(「私たちはまだ何も理解してはいないのだ」)。

これを書いている時点では、左加速主義は自らを脱構築して伝統的な社会主義政治へと後退しているように映り、加速主義者の燈火は「無条件加速主義」(R右派加速でもなくL左派加速でもなく、U無条件加速)を進めていく目覚ましい若き新世代の思想家に引き渡されている。彼らのオンライン上のアイデンティティは――たとえいかなる容易な解放の方途が彼らの考えにはないにせよ――特有のソーシャルメディアのハッシュタグ#Rhetttwitterを通して検索することができる。

ブロックチェーン、ドローンロジスティクス、ナノテクノロジー、量子コンピューティング、計算ゲノミクス、そしてバーチャルリアリティが氾濫し、人工知能がこれまで以上の密度で供給される中で、それ自体により深化していくのでない限り、加速主義はどこにも行けないだろう。制度が最終的な麻痺に至るところまで、現象が殺到すること、これが現象である。自然なことに――つまり完璧に不可避に――人類はこの究極的な地上の出来事を問題として定義するだろう。それを見ることはすでに言うことだ。我々は何かをしなければならない、と。加速主義が応じることしかできないもの。あなたはついにそれを今言っているのか? おそらく我々は始めることを強いられている? より酷冷な異本の中で、それが勝ち抜くものたちであるのだが、それは笑いがちだ。

***

原著者注:

Urbanomicの『#Accelerate:Accelerationist Reader』は、加速主義を最も包括的に紹介したものとして未だ群を抜いている。しかし、その本が出版されたのは2014年で、多くのことがそれ以降に起こった。

Wikipediaの「Accelerationism」に関する記事は短いが、非常に質が高い。

SrnicekとWilliamsの「加速主義者の政治のためのマニフェスト」についてはこれ(http://criticallegalthinking.com/2013/05/14/accelerate-manifesto-for-an-accelerationist-politics/)を参照のこと。[日訳「加速派政治宣言」は、『現代思想2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018』に所収]

訳者注:

#Rhetttwitterに関しては 、以下などを参照のこと。

ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』とマルクス「自由貿易問題についての演説」の訳文に関しては既訳の引用(木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』第4章より孫引き)に従った。

以上.

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