書きかけ:ハリーポッター二次創作やる夫スレと江川隆男『残酷と無能力』(2021,月曜社)
この世界にはハリー・ポッター二次創作というものがあり、やる夫スレというものがあり、ハリポタ二次創作やる夫スレというものも、いくつかある。2010年代以降のやる夫スレ二次創作界では(おそらく)ニコニコ動画内での疑似TRPGリプレイ動画などの流行と並行する形でTRPGの形式を模した集団創作ムーブメントが発生していた。意見を書き込みするレスアンカー機能や(安価)、書き込みの秒数を用いた疑似乱数発生機能(コンマ、後に独立した疑似乱数発生機能=ダイスが導入される)などが用いられ、2010年代中ごろには「あんこスレ」と呼ばれるサブジャンルが成立する。ここでとりあげるハリポタ二次創作やる夫スレは、広義の「あんこスレ」に属する。
安価やコンマの使用が物語の制作過程にどのような影響を及ぼすのか、そもそもなぜハリーポッター二次創作が盛んなのか、といったことについては、ここでは詳述できない。ただ、以下の記事はそうした点を考える参考になると思う。あるかたが私が紹介したハリポタ二次創作やる夫スレを実際に読み実際に感想を書いてくださった。その記事だ。以下にリンクを貼る。
下で取り上げるのは、別のハリポタ二次創作やる夫スレだ。でも広義の「あんこスレ」である点は一緒である。
やる夫スレ『純狐は魔術学園を卒業したいようです』はハリー・ポッターのような魔術学園を主な舞台にして、復讐者である純狐が暴れ回る物語だが、そこではクリエイティブで前例のない魔法(作中では一般的な魔術とは別格の呼称が魔法)を制作するための心構えとして魔法使いグレイにより次のような精神論が語られていた。「心の底から欲するような、どす黒い欲望が無ければ魔法は出来ません。強い意志こそが、イメージとなって魔法に繋がるのです」(2021/06/26投稿)。
しかし純狐への好感度が最大値である(この作中での好感度最大値とは、純狐への無際限な隷従を意味する)はずの明石は、魔法を創ることができない(以下、引用は2021/09/18投稿)。純狐からの「強くなれ」という指令を受けて「死ぬ気で強くなりたいのに、どれだけイメージしても全然駄目」なのだという。そんな明石を見たグレイはこう評していた。「洗脳した相手に命じたから魔法が出来るのなら、教師なんていりませんし。植え付けられた命令では、魔法に至れません」。純狐もこう納得する。「私がやれと言ったから、強くなりましたとか。そんなのがまかり通る世界じゃないか」。
この一幕はスピノザの一節を私に思い起こさせる。「たとえば、私がこの机をどうにでも好きなようにする権利を持つという場合、それは私がこの机に草を食うようにさせる権利を持つという意味では断じてない」(スピノザ『国家論』4章4節,畠中尚志訳)。いかなる命令権が私にあろうと、机に命じて実現できるのは、机ができることだけであるのだ。
しかし、こんな一幕もある。『純狐は魔術学園を卒業したいようです』では学生時代に自らの才覚ゆえ驕っていたグレイが、椅子にした同級生に話しかける過去が想起される(2021/05/04投稿)。ここでは、椅子が人間の言葉を話しているのではないか。
もちろん人間が人間に強いられて話す椅子を演ずる一幕と理解できるし、その観点から批判することもできる。またハリー・ポッターばりに血筋と種族と階級といったモチーフが物語に絡み合うこの作品は当然ながらポッター作品同様に支配隷従をめぐる暗黒面を描いてもいるのだが、ここでは措く。
例えば、こんな場景は想像しうるし、現にできるのではないか。あるひとつの身体(例えば一体のエナガイズミ)が四つ這いになり、背には食器が置かれている。口には草が詰め込まれ、草は咀嚼させられている。こんな風にして、机が草を食べることもできるのではないか。そんなわけあるか、と一蹴するのではなくて(常識に従うモードのときは私でも一蹴する)、逆にそのまま、話を進める。
現に机が草を食べるとき、それを否定する所作として次の二つが思いつかれる。ひとつは、草を食べるならばもはや机ではないのだろう、とみなすことであり、認定だ。この場合、エナガが机扱いされていたのは変えようのない事実だが、草を食べたことで自身が机ではなく人間だと立証したゆえ、以降は机である可能性を抹消する、といった具合になろう。机から人間へ。エナガは成り上がりを体験する。
もうひとつは、草を食べているならそもそも机ではなかった、とみなすことであり、抹消だ。草を食べる動作主の、机扱いという過去は誤りだったとして遡行的に抹消される。この場合、草を食べた拍子にエナガは、それまで誤って机扱いされていた人間だと承認される。ステータスの書き換えだ。魔法が解けたかのように人々はエナガが過去も人間であったし現在も人間であり将来も人間であることを確信し始める。
これらがどう江川隆男の著作と関わるかというと、つまり私は、強いられて机が草を食べる事態のようにして「人間本性の変形あるいは変容」(江川隆男『残酷と無能力』22頁)を把握したいのだ。
そもそもからして机でしかないがもはや机ではいられない、草を食べてしまった机-人間(存在しないはずの)を体現するという無理があり、現に強いられ、できることがある。それは江川が「死の経験」と呼ぶものに通じているはずだ。「机」を「子供」に、「人間」を「大人」に置き換えよう。ことは成熟の問題となる(「草を食べる」とは通過儀礼、もう子供ではなく大人なのだと示す、イニシエーションのことだ)。子供に通過儀礼などできるはずもないのだがやりとげてしまう。その理由は、すでにそこにいたのが大人だったからだ。あるいは、通過儀礼ができている以上そこにはもう子供はいないだろう。こうして成熟があるとされ、子供と大人との、連続と断絶が形成される。
(途中)
メモをあさっていたら、上記のような文章を発掘した。冒頭のハリポタ二次創作やる夫スレの説明の辺りは新しく書き足した。5日後、10月21日に「光の曠達」という名前のYouTube配信で、江川隆男『アンチ・モラリア 〈器官なき身体〉の哲学』(2014,河出書房新社)で話をするので、いろいろ読み返していた。せっかくだから、書きかけで筆を止めたものだが、アップロードしてみた。