掌編:池、虫

 おばけを見つけたときは、じゅうぶんに気をつけて。

 誰かにそんなことを言われたのをおもいだした。けれど、遅かった。彼女はおばけにつかまってしまった。もうしばらくしたら幼稚園というところに通うことになっていた彼女は、すこしばかり油断していたのかもしれない。もう私だってじゅうぶんに世のなかのことがわかっているのだ、そう思っていたのかもしれない。
 おばけの白くて何もないかおが近づいてくる。それは彼女のあたまの左右のこめかみを、ひらいた手のひらで、おさえつけてくる。

 まだおとうさんがいた頃。彼女が通っていた公園にはちいさな池があって、石畳のあいだからわずかに露出したパイプを通り、露天風呂みたいな岩で組まれた出水口から勢いよく流れだした水が、池を縁どる水路をとおって深くなっている中央へとゆるやかな渦を巻いていた。水路から中央へ向かうあいだにある溜まりでは、青灰色の泥から伸びた水草が太陽の白い輝きの裏でゆらめいて、アメンボがメガネからちぎりとった細い黒いフレームみたいな脚をなんぼんも動かしてできるちいさな波紋が、水底の見えない井戸めいたものが沈んでいる池の中央まで、覆っていた初夏。

 いつもいけのそばでみずの流れる音をきいていたんだけど、ときどき男の子たちがやってきて、いきものをいけにしずめて遊んでいた。彼女は男の子たちに加わったりはしなかったけど、ひとしきり、すげー、うごいてる、などともりあがっていたけれど、いまではそんなこともなくなって、もうなんとなく、あさ起きてかおをあらうみたいになんとなく男の子たちがいけになげすてて去っていく。みんながどこかいってから、いけをのぞいてみたら、あしをばたつかせてもがくクロアリがみなもにいくつもうかんでいて、その水底をダンゴムシがゆっくりとはっていたけど、そのうちみんなうごかなくなった。

 そのときなんでそんなことしたのか彼女にはいまでもわからない。でも、ふと、池のそばにはえていた木の枝に、何かの繭みたいなものがついていた。茶色い枝に付いた青灰色の塊を、彼女は枝からもぎ取って、水路に浮かべた。繭は、少しのあいだ水に浮かんで流れたけれど、そのまましずんだ。彼女はいけのなかにしずんだ繭をのぞきこんでいた。

 おい。

 と、こえをかけられて、ふりかえると、もうすぐ卒業するだろうか。彼女より年長の男の子がこちらを睨んでいた。彼女はそのときの男の子の目付きがどこかで見たものに似ているような気がしたけれど、それが何かは、よくわからなくて、とにかくこわかった。

 おまえ。なんでそんなことするんだよ。

 男の子は彼女に詰め寄ってそう言った。彼女は彼女と同じ子どものはずの小学生に怒られていることが衝撃だった。彼女は男の子から、からかいでもやつあたりでもなくて、ただこんなふうに怒りを向けられたことがはじめてだった。

 おまえ、もしそんなふうに、しずめられてながされても、それでへらへらわらってられるのかよ。いのちをおもちゃにするんじゃねぇよ。

 男は去る。彼女は怯える。

 とりかえしのつかないことをしてしまったのだ。と、彼女は思った。人をプールに沈めてへらへら笑っていた人たちと一緒なんだ。あの人たちと同じたぐいのいきものなんだ。彼女はいやなきたないものたちが彼女になって、みもだえしてくるしんだ。男の子はいつのまにかいなくなっていた。彼女は道徳的に自分が潔癖であるとおもいこんでいたのだが、それが妄念に過ぎなかったと気づかされてしまった。彼女自身が一番嫌いなきたないものが彼女の中に入り込んで、彼女の記憶に、血肉になっているんだ。彼女を食い破って彼女の一番嫌いなきたないものに彼女がなる。体中をひっかき始める。虫が湧く。

 彼女は彼女の遊びを思い出した。蟻の胴体をねじ切ってもがく姿を眺めていたこと。皮膚を噛まれて苛立ちのあまり蟻の集まっていたコンクリートの敷石を何度もゴム靴で踏みつけてふみにじりしたこと。胴体の潰れたミミズを枝でつついて、のたうつさまを観察していたこと。りゆうもわからず。ひとをつきおとしたかいだんのこと。

 その日。
 彼女は思いだす。

 そう、ここは保健室で、しろいかおがわたしをみつめているのではなくてわたしがしろいシーツにかおをおしつけながらねむっていて、ゆめなのかおきているのかもよくわからないまま、さけんで、ないて、おさえつけられて、わたしがだれだかわからなくなって、小学生じゃなくて、ようちえんじゃなくて、もっとちいさいころのこと、白いおばけのこと、虫をしずめたこと、プールのこと、みんな、みんなごちゃまぜになっておもいだしておもいだして、でもなんでここにいるのかわたしにはまだおもいだせない

 けどそれでいい。

 水の中に沈んでいきたい。
 彼女は眼をつぶる。

 それからしばらくして彼女は転校した。いつだったっけ、それ。

 ひどい頭のいたみで起きて、彼女は。

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