愛を問い直す術はまだあるか? ベルサーニ+フィリップス『親密性』読書会【闇の自己啓発会】

■はじめに

画像2020082301

闇の自己啓発会は6月6日、ベルサーニ+フィリップス『親密性』読書会を行いました。今回は洋菓子を食べて親密性を高めながら、さまざまな親密性のあり方について話しました。

※課題本は大手通販サイトでは品薄となっていますが、版元( http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27163.html )から購入してます。

■参加者一覧

役所【暁】
洋菓子を買った人。最近プレイしているゲームは「アークナイツ」。
【江永】泉
洋菓子ありがとうございました。最近トレイラー等を視聴していたゲームは「Atomic Heart」。
【木澤】佐登志
洋菓子ありがとうございました。最近視聴していたVtuberのゲーム配信は天宮こころの「ぼくなつ」。
【ひで】シス
暁さんが持っていらっしゃったケーキ美味しかったです。マスクをしたまま喋り狂っていたら熱中症になってしまって、今回は自分の発言のメモがあまり取れていませんでした。

画像2020082302

洋菓子は、特にシュークリームが好評でした。江永さんが「ピスタチオ大好きです!」と喜んでくださったり、木澤さんが「シュークリームの概念が“転回”しました」と言ってくださったりしたので、選んだ甲斐がありました。

■著者・ベルサーニと「アンチソーシャル的転回」について

【江永】 ベルサーニはいわゆるLGBTやクィアのなかでも、ひとによっては距離を取られているらしいんですよね。
【木澤】 ベルサー二はクィア理論家というイメージがあったのですが、クィアの方々からも避けられているんですか?
【江永】 クィア理論やクィア研究自体が文化研究の一環か社会運動の一環か(またその双方か、それ以外やそれ以上か)という話も絡みますが、少なくともクィア研究というのは、実生活とかとちゃんと結びつく議論をするか(例えば同性婚などの権利やパートナーシップなどの制度の検討、文化によるエンパワメントの推進など)、また芸術作品などの読解により焦点化する場合でも、多様なアイデンティティの差異というのが色んな力関係を発揮している(ので、自分たちがマジョリティになる瞬間に気をつけて、マイノリティになる側への配慮を細やかにしましょう)という方向で論を進めることが多い。だから現在では、ベルサーニみたいな議論は(「直腸は墓場か?」(『批評空間』第2期1996年1月号所収、酒井隆史訳)とか「恥を知れ」(『親密性』所収)とかの挑発的タイトルも相まって)、言ってしまえば相対的にマジョリティというか、ものすごく礼を欠いた刺々しい言い回しをすれば白人エリートによる〈観念世界のお遊び〉みたいなところもあるのでは、と訝しがられもするのだと思います。ベルサーニの文章を読んでも不正義や不平等の解決には役立たないだろうと。
 ベルサーニ自身も、例えばただゲイであるというだけで一様にマイノリティ、あるいは現行社会のノーマルな規範に対抗する立場とは限らないはずだ、という主旨の指摘をしばしば行っており(特に『ホモズ[Homos]』(1995)の序文「WE」は冒頭から強烈にケンカ腰に映ります。ちなみに、この本の日訳はあるのですが、訳文や後書きに問題があって、ちょっと悪名高くなってしまっています)、近年のインタビューで同性婚とかの話を聞かれたときも、下の世代のひとほど私はそれに対する関心がない、みたいな応答をしてたりするんですよね(『Leo Bersani: Queer Theory and Beyond』2015所収のインタビューを参照)。元々はプルーストはじめフランス文学研究者として出発して、ドゥルーズ+ガタリといった20世紀フランスの哲学・思想にも影響を受けた人物。文学や映画などを取り上げ、現代思想を絡めてヤバくてガバい議論をしている論者という感じです。
【木澤】 なるほど。ベルサーニの議論はともすれば観念的/高踏的に過ぎるとされ、実践や運動を通じて社会を改良していくというアクティビズム的側面から乖離していると見なされているということですね。この辺り、ベルサーニやエーデルマンとセットで言及されることの多い「アンチソーシャル的転回」とも深く関わってきそうですが、この点についても少し説明していただけると助かります。
【江永】 アマチュアなので十分な理解かは保証できませんが、どういう流れでそれが出てきたのかを含め、自分なりに認識していることを述べてみます。
 「アンチソーシャル的転回」はクィア理論、クィア研究における探求の一断面であると言えるはずなので、まずその流れを確認します。

 クィア理論、クィア研究というのは1990年ごろに形を持ちはじめた学際的な知の領域です。クィアという語は、元は「奇妙な」や「風変わりな」という意味でしたが同性愛者に対する蔑称としても流通してしまった言葉で、日本語では「変態」や「おかま」に相当する意味合いだと紹介されることもあります。その語をあえて使いなおすところには、その侮蔑を覆し理非を問いただそうという含意が込められていたのだと思います。アメリカではとりわけ1980年代から社会問題として議論されていたHIV感染症や、エイズ患者をめぐる行政府や大衆の姿勢、報道やフィクションにおけるそれらの表象のありかたや物語られかた、さらに各地域、各コミュニティなどでの状況そして社会運動のひろがりといった事柄を踏まえつつ、セックスやジェンダーそしてセクシュアリティに関連する議論を練りあげなおすということが、クィア理論勃興期にあった、大きな企図のひとつだったとまとめうるように思われます。
 この時期の雰囲気をつかむうえでは、まず『Differences:フェミニスト文化研究ジャーナル』(1989-)の特集「クィア理論:レズビアン・アンド・ゲイ・セクシュアリティズ」(1991年)が挙げられるべきでしょう(『ユリイカ 特集=クィア・リーディング』1996年11月号に序文の日訳あり。大脇美智子訳)。上記ジャーナルの題名「諸差異[Differences]」が示唆的ですが、クィア理論には、人々の連帯や分断を可視化し、それを変更可能にしていくために、アイデンティティやポジションの差異に着目して文化事象や社会現象を解釈していくという傾向性が見られます。大まかに言えば、社会構築主義的な観点で問題を提起し、多文化主義的な姿勢で解決を試みるスタンスがひとつの柱になっているように思えます。
 ひとは女に生まれるのではなく女になるのだという指摘をしたボーヴォワールから二元論的な性差自体を抑圧的な枠組みとして拒否したモニック・ウィティッグまでの、いわば〈女性とは何者か〉という問題設定に回収されがちだった議論を批判的に捉えなおし、〈女性として振る舞うところでどのような規範への抵抗が生ずるか〉という観点を打ち出した『ジェンダー・トラブル』(原著1990)の著者で哲学者のジュディス・バトラーや、「ホモソーシャルな欲望」という観点を導入して男性間での友情と性愛の分断を捉えなおし、異性愛男性間の結束を維持していくために女性(ジェンダー)と同性愛(セクシュアリティ)の各々への抑圧や排除が相互に結び付いた仕方で作動する構図を示した『男同士の絆』(原著1985)の著者で文学研究者のイヴ・セジウィックなどが、クィア理論の代表的な著作として参照されるのは、まさしく従来の分断を批判的に捉えなおし、新たな連帯を可能にする分析を行っていたからだと思えます。
 そのはじまりから社会状況を念頭に案出された分野であったこともあり、今日までの30年ほどのあいだにも、クィア理論、クィア研究では同時代的な出来事への応答と理論的な問題提起とが絡み合ってなされてきました。例えばジャーナル『Social Text』では、2005年に特集「今のクィア研究の何がクィアであるか?[What's Queer about Queer Studies Now?]」が組まれており、ここでは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件とその後のイラク戦争の状況を念頭に置きつつ、今日でいうピンク・キャピタリズムやホモナショナリズムに相当する問題意識が提出されています(というか、ホモナショナリズム批判で知られる『テロリスト・アッサンブラージュ』(2007)の著者ジャスビル・プアがこの特集に寄稿しています)。なおピンク・キャピタリズムとは、ざっくり言えば現行社会がLGBTをビジネスの意匠として許容可能な範囲で取り込む動きのことで、主に購買力のあるゲイを念頭に置いたビジネス風潮が挙げられることが多く、文化批評で知られるリサ・ドゥガンは2003年の著作『平等の黄昏?』のなかでそうした風潮を「新しいホモノーマティヴィティ」の一環として批判しています。ホモナショナリズムは、ざっくり言えば現行社会が親LGBTを口実にナショナリズムを伸張させる動きのことです。ちなみにドゥガンはゲイが軍隊に参加することを求める風潮も新しいホモノーマティヴィティの中に含め、批判していたようです(新しいホモノーマティヴィティの解説としては『現代思想』2019年5月臨時増刊号の森山至貴「新しいホモノーマティヴィティ」を参照のこと)。

 ということでゼロ年代半ばの「アンチソーシャル的転回」に入ります。

 上述した、ゼロ年代半ばのアメリカにおける「クィア」(とりわけゲイ)のマジョリティへの包摂とでも呼びうる情勢の中で、レオ・ベルサーニ(1931-)やリー・エーデルマン(1953-)といった、「クィア理論」が形になる以前から著述を行っていた文学研究者が展開してきた議論の「アンチソーシャル」性に注目が集まることになります。ベルサーニは1987年の論考「直腸は墓場か?」の時点から相当に挑発的な議論を展開していたのですが、著作『ホモズ』(1996)に所収された論考「ゲイ・アウトロー」では「Should a homosexual be a good citizen?[ホモセクシュアルはよい市民であるべきか?]」と、そのままズバリ「アンチソーシャル」な一文で議論を始めていました。またエーデルマンも論考「未来は子ども騙し」(1998年初版。日訳は『思想』2019年5月号所収、藤高和輝訳)で、一種の逆張りとも映るような議論――私なりにまとめれば、望ましい未来のためにという名目での挙国一致的な協働の圧に対する〈ノー〉を体現するのがクィアさの核心だというような――を展開しており、両者はそれぞれの仕方で、1990年代のバトラーやセジウィックの理論そして『Differences』特集「クィア理論」が志向していたはずの、様々なアイデンティティの差異込みでの共同作業を試みる姿勢、いうなれば反抑圧ないしは反マジョリティに向けた連帯の姿勢というものを危うくするようにも映りかねない立場を打ち出していたんですね。ここには例えばフェミニズム運動とゲイ解放運動のあいだにしばしば生じてきたような懸隔の構図が、再演されてしまうような危険性もうかがえます(二元論的な性差の観念に基づく臆見――例えば〈男女は分かり合えない〉のような通俗的風説――が、現行社会における様々な抑圧や排除を批判するという点での各コミュニティや主体間での連帯を困難にしてしまう場合は歴史上しばしば見られた。この例に限らず、様々なセクシュアリティやジェンダーに関する諸学知、また諸運動や文化共同体などとクィア理論、クィア研究との距離感という難問は、今日まで伏流しているように思われる)。
 ベルサーニやエーデルマンはアメリカの文学研究者のなかでも、いわゆるフランス現代思想の影響を受けた書き手であり、体制側が設定してくるような合法性を批判的に検討し、アイデンティティや連帯といったものそれ自体の解体をも視野に入れるような思弁を、文学作品や視覚芸術、または時事問題などの解釈と合わせて文人的なスタイルで展開する書き手でした(なおベルサーニは近代フランス文学、エーデルマンはアメリカモダニズム詩の研究から出発しており、相対的な印象としては、前者がデリダやドゥルーズなどの原典を直接参照する一方、後者はポール・ド・マンやスラヴォイ・ジジェクなど英語圏の書き手をより多く参照するように感じられます)。ふたりの議論に対しては、ともに、産む性に対する抑圧や人種による差別などへの関心の不十分、トランスジェンダーをはじめとする様々なセクシュアリティへの理解の不十分といった観点からの批判があり、もう少し悪く言えば、いわば旧態依然とした知的なエリートに属する白人系のゲイ男性たちによる人文談義というスタイルへの固執と、議論の中身が切り離せないなのではないか、といった穿鑿までなされていたように思われます。他方で、その固執にも映る譲らなさゆえに、現行のクィア理論やクィア研究が共有しがちな前提を批判的に捉えなおそうとする際に、繰り返し参照されてきたようにも思われます。
 「未来は子ども騙し」などを所収した著作『ノー・フューチャー:クィア理論と死の欲動』(2004)が刊行されたのが大きな契機だったのでしょう、翌2005年には、米国現代語学文学協会(MLA)で「クィア理論におけるアンチソーシャル的テーゼ」という討論会が開かれます。そして2008年には同討論会の出席者、ジャック・ハルバースタム(当時の名義はジュディス・ハルバースタム)が、エーデルマンやベルサーニの立場を批判的に検討した論考「クィア研究におけるアンチソーシャル的転回」を発表しています(論考の名義はジュディス・ハルバースタム)。なお、ハルバースタムは、『Social Text』誌の2005年の特集「今のクィア研究の何がクィアであるか?」導入部の共著者三名のうちの一人であり(主筆はデイヴィッド・L・オン)、もう一人の共著者は、エーデルマンの議論を批判的に引き受けてクィア性の〈ノー〉を、未来そしてユートピアに向けた〈ノット・イェット・ヒア(未だここにない)〉と捉えなおして論じた『クルージング・ユートピア』(2009)の著者ホセ・エステバン・ムニョスでした。ハルバースタムが「クィア理論におけるアンチソーシャル的転回」で、どんな評価をしていたかを以下でちょっと紹介します。
 自身も愚かさ、忘却、失敗、読めなさといったある種の否定性をクィアさと関連付けて論じてもいたハルバースタムは(『In a Queer Time and Place』2005年)、必ずしも「アンチソーシャル」を否定する立場ではありませんが、上記論文でベルサーニとエーデルマンの思想を批判的に検討しています。ハルバースタムは両者が単に1960年代のゲイ解放運動のラディカルさといったものへの固執と関連付けられるべきではないとしており、エーデルマンの著作をセックス・ピストルズ「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」(1977)の歌詞と関連付けて評したり、ベルサーニやエーデルマンの議論を1920年代から30年代にかけてのドイツにおけるセクシュアリティ(男性同盟に関連するもの)と関連付けて評したりしています。そして「アンチソーシャル」の別様な系譜を描くことを志向して、フェミニズムやポストコロニアリズムの文脈で「アンチソーシャル」な表現を行っている事例、ジャメイカ・キンケイド(小説家)、ヴァレリー・ソラナス(「男性きり刻み協会」やウォーホル銃撃で知られる)、マリーナ・アブラモヴィッチとオノ・ヨーコ(パフォーマンス「リズム0」と「カットピース」)などの試みを次々挙げ、ベルサーニやエーデルマンが参照する、ある種の定番であるようなゲイカルチャーの読み取りに由来するのとは別のスタンスを引き出そうとしていきます。
 こんな感じで、ゼロ年代半ばには、ベルサーニやエーデルマンをその代表的論者とする「アンチソーシャル」理論がそのよしあし込みで検討されていました。図式的に言えば、様々な仕方でマイナーな立場や集団の分断を超えた連帯志向と、メジャーな立場や集団による取り込みや切り崩しの志向とが混濁してしまうように映るという問題意識のなかで、反動的な分離主義のようにも捉えられてきた「アンチソーシャル」な立場が再注目されるという「転回」が起こった、とまとめられるように思われます。ちなみに、議論はさらに重ねられており、2015年の『Differences』では特集「反ノーマティヴィティ抜きのクィア理論[Queer Theory without Antinormativity]」が組まれ、今日のクィア研究では、規範性への反抗というものがいわば問答無用の大義名分になっていはしまいかという疑義も提起されています。

 さっきから理論[theory]と研究[studies]を分けたり並べたり書き方がややこしくなってしまったので補足します。おそらく、両者には完全には同一視できないところがあります。ちょっと誇張した言い方をすれば、芸術作品の解釈や哲学文献の読解を念頭に置きがちの批評理論的スタイルと、生活世界や社会運動の考察を念頭に置きがちの文化研究的スタイルとの懸隔が、そこにしばしば投影されているように思えます。学術的に厳密な区別が定まっているのか把握できていませんが、クィア理論というときは文学や哲学との親和性が高く、クィア研究というときは人類学や社会学との親和性が高い印象があります。それ以前からあったLGBTに関する学知(この〈LGBT〉という現状で通俗的に流布しているに過ぎないカテゴリを普遍的な枠組みのように無批判に適用すべきではないですが)に対する批評的な視座を持つ批判理論としてクィア理論が始まり、後にLGBTに関する従来的学知やクィア理論を含めて言及できるような形でクィア研究という用語が流布した、と概観できるのかなと思います。

 もう少しベルサーニの話をさせてください。ベルサーニは『ホモズ』序文(「WE」)の冒頭から、従来の市民社会(が理想とするところ)に適合するような人物像、ある種ご都合主義的な文化的共同体(あしきノーマルに異を唱え、よりよきノーマルの再考に寄与するような、都合のよい存在)として「クィア」というアイデンティティ(を備えたコミュニティのメンバー)を打ち出すタイプの語り口に対する、強烈な批判を展開しています。――もしクィア理論が、色々な立ち位置や帰属認識の違いをアイデンティティの諸差異としてひとまとめに分析してしまうとすれば、現に存在する人々の具体的な生き様は捨て置かれてしまうのではないか、そしてそのとき、ただ文化的多様性と社会正義に関する〈意識が高い〉(いまの日本でいえば「アライ(支援者)」等と自称しそうなタイプということになるでしょうか)「マジョリティ」にとって都合のいい限りで認知される「マイノリティ」として「私たち」を認定したり扱ったりしようとしてくるような、現行社会の狡知への同調、従属の危険が見過ごされてしまうのではないか。――私の言葉でまとめたので粗い言い方になってしまったきらいもありますが、こうした手厳しい――反動とさえ映りかねない――懐疑を同時代へと向けているかのようなスタンスが、ベルサーニにはあったように思えます(少なくとも『ホモズ』時点では。そしておそらく今日までも)。おそらくベルサーニが『親密性』でベアバッキングという、かなり問題含みにも感じられるある種のゲイ・サブカルチャーに言及するのも、まさにそれが現に(全体からすればごく一部であれ)人々のなしている実践であるのに、ある種の逸脱者たちの愚行として、(批判すらおざなりに)ないがしろにされかねない、という雰囲気を感じ取ったからなのではないかと思ったりします(とはいえ、ベルサーニも言及するティム・ディーン『Unlimited Intimacy』2009のような研究書は出ているので、あまり孤軍奮闘であるように語るべきでもないですが)。
 また、ベルサーニは反共同体や反アイデンティティを志向しているので、関係性というものを断ち、孤絶することを志向しているのだ、というまとめられ方がしばしばなされがちですが、その割に『親密性』では共同体や人間関係の話をあれこれ取り上げているので、矛盾して映る点もあると思います。当人も、かつての心理化されたマゾヒズムから自分の議論の枠組みが変わってきたみたいな話を1997年時点でしていました(「インタヴュー レオ・ベルサーニとの対話」『批評空間』第3期2002年1月号、村山敏勝訳)。ただ、実際にはそれ以前から芸術と鑑賞者の関係性などを、従来主流な友敵関係と異なる交流のモデルとして繰り返し論じており、事実上は、通例の関係性を組み換えなおすという点ではいわゆる「ソーシャル」な議論とも志向を同じくしてきたという見方をするべきなのかなと思います。とはいえ、通例のオルタナティブな「ソーシャル」を考える議論にあきたらないところがあり、それゆえに「アンチソーシャル」な関係性、自己と他者という通例は崩せない基盤扱いされる枠組みの解体と再構成すら辞さないような、関係ならざる関係性(例えば、社会性ではなく社交性など)の記述を志向しているのだと見ると、ベルサーニにおける独我論と共同体論の妙な混合にも、筋が通るのかなと思っています。
 なお今日では、とりわけベルサーニの紹介者としてミッコ・トゥーカネン(『本質主義者のヴィラン:レオ・ベルサーニについて[The Essentialist Villain: On Leo Bersani]』2018や『レオ・ベルサーニ:思弁的な紹介[Leo Bersani: A Speculative Introduction]』2020近刊の著者) を挙げることができますし、より広いまとめとしてはロレンツォ・ベルニーニによる「反社会理論」のまとめと批判的継承を試みた著作『クィアな諸アポカリプス:アンチソーシャル理論の手解き[Queer Apocalypses: Elements of Antisocial Theory]』(元はイタリア語、2016年英訳)も挙げることができます。トゥーカネンは、ベルサーニのことを「本質主義」者という「ヴィラン(悪役)」だ、とキャラクタライズしているわけですが、この見立てはある程度は妥当していて、文化相対主義に対抗する戦略的本質主義としてベルサーニを考えるのはひとつの見通しがつくやり方だなと思います。とはいえ、ベルサーニはゲイ文化的な表象を、女性/男性や、同性愛/異性愛の分断を無効化するような独特のナルシシズム(『親密性』でいう「非人称的なナルシシズム」)というありかたのモデルとみなすような書き方をしているので、特定の(文化的)アイデンティティを「本質」化しているという立場にはならないだろうというのも付言しておきます(トゥーカネン自身は、ベルサーニの諸著作を検討し、例えばライプニッツに影響を受けた(「バロック的独我論」といった文言も残しているそうですね)ベケットなどを参照しつつ、ベルサーニが自らの議論を展開することに着目して、その立場を一種のモナド論的なものとみなし、「ホモモナドロジー」と形容したりしています)。ただ繰り返しになりますがベルサーニは新たな関係性を素描するためにある種の同性愛イメージ(とりわけゲイ文化に関連付けられるもの)を参照しがちなので、ベルサーニ自身はその関係性が普遍的に適用されうると論じているはずだとしても(むしろ、それだからこそ?)、恣意的に列挙するだけでも、フェミニティ、エスニシティ、クラス、あるいはトランスジェンダーやアセクシュアルなど、様々な観点への無配慮があると批判も受けている旨も付言しておきます(アセクシュアルの観点から主にバトラーを検討しまたベルサーニへ言及した近年の日語論文として松浦優「メランコリー的ジェンダーと強制的性愛 —―アセクシュアルの「抹消」に関する理論的考察」(2020)を挙げておきます)。

 すみません、ひとりで語りすぎました。日本語圏でのクィア理論、クィア研究の受容の流れも話すと、ちょっとこの場では収拾がつかなくなりそうので、いったん結びます(学術情報データベースのCinii Articleなどで「クィア」など検索して調べると専門家の議論が確認できて勉強になります。例えば2007-2015年まで活動していたクィア学会の刊行物『論叢クィア』の記事が検索で探せたり、2016年12月の『立命館言語文化研究』の「クィア・リーディング」特集の内容が閲覧できたりします)。まさに近年、研究者や活動家が啓蒙的な活動をなさっているところなので、そうした方々の紹介や入門をまず推奨することを改めて繰り返したうえで、とっつきやすいクィア関連の本として、取り急ぎ、以下の二冊だけあげさせてください。森山至貴『LGBTを読みとく:クィア・スタディーズ入門』(2017)と二村ヒトシ・千葉雅也・柴田英里『欲望会議:「超」ポリコレ宣言』(2018)。横着な物言いかもしれませんが、例えば、今あげた二冊を読んで、一方の本に出てくる物の見方や語り口やキーワードにしか関心がなさそうなひとに、もう一方の本で出てくる物の見方や語り口やキーワードをぶつけてしまわないように気をつけていれば、望まない衝突、いたずらに関係がギスったり糾弾が始まったり、いきなりハブられたり陰口の踏み台にされたり辻説教をくらったりするようなトラブルは、とりあえず避けやすくなると思います(もちろん、誰かと踏み込んだやり取りがしたいとか、誰かの意見を変えさせたいとかなら、また話は変わってきますが)。
【暁】説明ありがとうございます。めちゃめちゃ詳しい上に色々ぶっちゃけていただいてわかりやすかったです。
【江永】 すみません、バランスのかたよった情報の寄せ集めみたいになってしまいました。さっき語ったのはWikiで「独自見解」とそこかしこに付されそうな内容であることは付言させてください(このあたり、紹介は始まっているのですが、まだ日訳されてない文献も少なくなく、自分の理解が浅いところも多いと思います)。ベルサーニに絞って言いなおすと、日本で特にベルサーニをプッシュしているのは、2010年代以降は千葉雅也が中心で、それ以前は田崎英明や村山敏勝でした(ベルサーニを援用・紹介している日本の研究者はもちろん今昔にわたり多々いらっしゃいます)。また『親密性』日訳はふたりの訳者(檜垣立哉・宮澤由歌)それぞれによる長めの紹介や解説、論評を含むものになっており、充実しています。また雑誌『ユリイカ 特集=男の娘』(2015年9月号)の巻末に寄せられた宮澤由歌のコラム「子産み、苦痛と快楽」が自身の妊娠体験とベルサーニの議論を組み合わせたもので、読んでいて、とても興味深かったです。――ここまで色々と話をしましたが、アカデミックなクィア研究のメインストリームから見て、ベルサーニを推すひとはそれほどいないのではないかと思います。知らないとアウトだが素で引用してもアウトみたいな立ち位置の書き手というか。いつ受容されていたのかわからない内に、言及すると今更ベルサーニ?と言われるというか。
【木澤】 ありがとうございます。いちおう自分の問題意識に引きつけて少し補足しておくと、「アンチソーシャル的転回」の核心にあるのは「(再)生産性」に対する異議申し立てではないかと思っています。たとえばリー・エーデルマンは主著『ノー・フューチャー』や論考「未来は子ども騙し」の中で、現行社会に瀰漫している「(再)生産性の信仰」を「再生産未来主義」と呼んで痛烈に批判してみせています。折しも、日本においても杉田水脈議員によるLGBT差別的な「生産性」発言にはじまり、相模原障害者施設殺傷事件の犯人、植松聖死刑囚の「生産性のない人間は生きる価値がない」という思想、そして直近の事例ではALS女性の殺害事件など、「(再)生産性の信仰」は不可視の空気のように現代社会に深く根ざしています。
 しかしエーデルマンの批判の矛先は、右派によるあからさまな優生思想だけでなく、「明るい未来」を志す改良主義的なリベラルの戦略に対しても向けられます。たとえば、リベラル左派がしばしば用いる「未来の子ども達のための連帯」といったクリシェ。エーデルマンは、こうした「未来=子ども」のクリシェの中に、社会秩序の絶えざる再生産を必然的に肯定する根源的に「保守的」な身振りを剔抉してみせるのです。ここに至って、彼らの「アンチソーシャル的転回」の意味、すなわち、なぜ反社会的なのか、なぜ社会に対して不可避的に背を向けざるを得ないのか、ということが見えてくる。彼らは右派だけでなく左派に対しても背を向ける。彼らからすれば、右派も左派も無批判的に「(再)生産性」を受け入れているという点で同じカテゴリーなのです。エーデルマンは「未来は子ども騙し」の中で次のように述べています。「実際、いったい誰が中絶を肯定し、再生産に反対し、未来に反対し、したがって生に反対するというのだろうか」(藤高和輝訳)。中絶を肯定し、再生産に反対し、未来に反対し、したがって生に反対する者、それはクィア、それこそがクィアだ、というわけです。異性愛規範にもとづく現行社会秩序が暗黙のうちに強要する規範(ノルム)としての「再生産」に抗い、「死の欲動」を積極的に担う者たち。「クィア理論がクィアである由縁はまさに、未来の再生産への基盤的な信仰を破裂させることによって国家秩序を再定義することにあるのだ」(藤高和輝訳)。
 社会規範が要請する「生きるに値する生」の選別を拒否し、「命の選別」に「否」を突きつける者たち。つまりエーデルマンに従えば、彼らクィアには「未来がない(ノー・フューチャー)」のです。そう、未来はここで終わる……。
 以上に見てきたように、クィア理論における「アンチソーシャル的転回」は、同性婚などの権利やパートナーシップ制度といった社会改良主義的=再生産未来主義的な戦略=連帯に対しても真っ向から背を向けるという点で、ただしく「反社会的」かつ本来的な意味における「ラディカル」と言えるでしょう。あえて乱暴にまとめるならば、90年代のバトラー的なクィア理論が、アイデンティティの内部における「差異」を重視し、アイデンティティを不断に撹乱させながらもその内部にあくまで留まること、諸差異の衝突と交差が引き起こす「トラブル」をあえて積極的に引き受けることを通じて連帯への可能性を開こうと試みていたのに対し、エーデルマンらアンチソーシャル派は、アイデンティティに対して断固として背を向け連帯からイグジットすることでその「外部」に賭け金を置こうとしていたのではないか。「生き残りの戦略」をあえて自ら放棄してみせることを通じて、「死の欲動」に対して、絶対外部における全的解体のプロセスに対して身体を押し開くこと。
 そういう意味では(?)、闇の自己啓発会で採り上げる本としてはベルサーニはこれ以上ない選択ですね。社会秩序の構造に根ざした規範を拒否し、「再生産」の系譜から不断にイグジットせんとする、脱連帯化への志向。そういえばニック・ランドも社会の脱連帯化を『暗黒啓蒙』の中でしきりに寿いでいたのを思い出しました。
 それに、本のタイトルもいいですね。『親密性』。なにせ「密」という字が入っていますからね。「密」がここまで排除されている状況下において逆に「密」についての本の読書会を行うという逆張りムーブ(?)も、ある意味では「アンチ・ソーシャル」と言えなくもないのかもしれません。

【暁】確かに、かつてないくらい闇の自己啓発に相応しい本でしたね(笑)。加えて課題本には、新たな関係性とライフスタイルというフレーズが出ていて、今読むと「新しい生活様式」を想起してしまうなぁと感じました。
【ひで】コロナ禍での新しい関係性と言うと、斎藤環の記事「人は人と出会うべきなのか」が良かったです。

【暁】その記事めちゃ良いですよね。コロナ以後は人と会うことの暴力性が一層可視化されたけど、元々対人恐怖症や発達障害の人は「会うことの暴力性」をずっと感じ取っていたんだぞ、という話で、その通りやぞ!という感じでした。唐突に挟み込まれる鬼滅の刃ネタなどもちょっと面白かったです。

■第1章「わたしのなかのIt」

【江永】 共著ではあるけれど、ここらへんは全部ベルサーニの文章ですね。この本自体は、方向性としては文学研究者から見た精神分析の捉え直しみたいなノリですよね。それに分析家のアダム・フィリップスがコメントしているという。批評理論とかで精神分析とか哲学とかを取り入れることをしているけども、なぜそんなことをするんだろうというのをベルサーニはけっこう問いに付すんですよね。概ね以下のような感じの問題意識だったと思います。――ある芸術を取り上げて、この部分を見ると精神分析のこの理論がわかりますとか、この部分からは哲学的な教訓が引き出せますとか、倫理学的な議論の例題になりますとか、そういうことをするだけであるなら文学研究者は必要ないのではないか(哲学や精神分析学、倫理学の専門家がやればよい)。とすれば、文学研究者って何をすればいいのか。他の専門知を物語付きで解説する下請け業者でもなければ、また他の専門知を文学作品にも見出せると語る認定業者や、資格商法の使い手などでもないならば。――ベルサーニはこうした事柄を、『親密性』含む諸著作で繰り返し考えているように思われます。
【暁】 冒頭で、“精神分析は過去の話をしがちだけど、オレらは未来の話をするぜ”的なことが書かれていてカッコよかったです。ただ、ここの章で紹介された映画の登場人物が、サクッと精神分析のカウンセリングを受けにいく、というシーンがありましたが、恐らく日本では精神分析によるカウンセリングは一般的なものではないですよね。その辺は文化の違いを感じていました。
【江永】フランスだと精神分析家の普及度が歴史的に見て日本とは全然違った経過を辿ってきたとは聞いたことがあります。もっとカジュアルな選択肢になっていたらしい。 日本の現行の臨床心理学の資格と精神分析は制度上あまり関係がなかったと思います。批評の分野で言っても、従来的には、精神分析を引用する書き手が実際には分析を一度も受けたことがない、ないしはちょっと受けてすぐ止めた、といった事態すらザラだったのではないかと思われます。もっとも、そうした事例は日本のみに特有ではないようにも思われますが(そして、分析体験の有無と独立に、諸著作を適当に引用するひとから時間や労力をかけて学ぼうとするひと、または独自の確信を抱いたり〈真実〉に目覚めてしまった(と自称する)ひとまで、精神分析の知へのコミットメントには様々な度合が考えられます)。もちろん精神分析的なやり方を臨床心理学や精神医学に援用している人は日本にも多く、第二次世界大戦後に創設された日本精神分析学会などもあり、これは現在まで続いています。それこそ、フロイトと文通をして自前で精神分析を実践していた大槻憲二のような人物もいました。それだけでなく、実践として精神分析が普及している地域(フランスなど)または既に国内にいる分析家のところで分析を受けたり、精神分析を学んだりした上で、日本で分析家をなさってる方々もいます。
【木澤】 「精神分析は互いにセックスしないと決めた二人が、互いに何を話すことが可能なのかを問うものである」ってパワーワードで始まるのヤバいですね。
【江永】まあ私たちの読書会もある面では似たようなものだと言えてしまえるかも、とか思いますが……。
【暁】 (笑)。以前、アイドルが精神科医と付き合い始めたっていうニュースが出たとき、ネットで「転移(分析者に対して被分析者が特別な感情を抱くこと)してない?」って言われてたことがありましたね。本人たちは否定されていましたが。そういう精神分析のワードだけは、日本でも結構認知されてる気がしました。

【木澤】 読んでいて、ベルサーニは無意識という概念をかなり自由に解釈している印象を受けました。普通の精神分析では絶対にこんな解釈をしないだろう、というような使い方をしていますよね。教条主義的な精神分析では近親姦の禁止という「法」に象徴されるように、無意識は主体に対して「否=禁止」を言い渡す審級として機能するという物語を多かれ少なかれ前提としています。すなわち、規律の装置としての精神分析というものが一方にある(言うまでもなく、権力装置としての精神分析の機能がそうした「禁止」や「抑圧」に還元されないことを指摘してみせたのはフーコーですが、ここではひとまず措かせてください)。でもここでのベルサーニにおける無意識というのは、どちらかというとアガンベン的な「潜勢力(potenza)」のようなものとして捉えられているように見えます。たとえば、本書52頁〜53頁にかけての記述。「Itは抑圧されたものの隠れ家であるがゆえに(もしくは、ただそうであるがゆえに)無意識なのではない。むしろ、無意識のItは、主体の内部に、つまり無意識がそれをはるかに越えてしまうものの内部にとどまるものであり、可能的なものの、つまり現前するかもしれないが、いまはそうではないものすべての貯蔵庫なのである」。ここでは、明らかにアイデンティティとは異なる何か、アイデンティティから常に既に逃されってしまうような何かが語られています。つまり、「純粋な可能性としての、規定不可能なIt」(55頁)。ここでの無意識は、未来に向けた変容のためのポテンシャル、といった肯定的な意味合いで満たされている。
【江永】 そうですね。一般的なイメージを逸脱した構図、個人的な過去の探求ではない精神分析理論とでもいえそうな何かを描こうとしている。その尖った姿勢にガバさも混ざって、よくもわるくも野蛮な思弁の試みという感じにもなっていますが。あるラカニアンがベルサーニの文章を読んで、ラカン要約の雑さにブチ切れていたのが記憶に残っています。ベルサーニはプルーストとフロイトを並行して読むようなひとなので、ただのお気持ちエッセイを書く専門性を欠いたインテリ文人と片づけてしまえるかもしれない。もっとも、これが出版された時点で80歳過ぎなので、古典だけでなく様々な作品(本章だとルコントの映画『親密すぎる打ち明け話』2004)に具体的に向き合いつつ、理論を大胆(あるいは雑)に解釈して独自見解を打ち出す書きぶりは、スゴイともズルイとも言えそうです。(現行の最新作は『Receptive Bodies』2018で、それを出した時点でたしか87歳)。
【暁】クィア界のイーストウッドっぽい。
【木澤】 でも、こういうポジティブな無意識の解釈の仕方がクィア理論と相性がいいのではないかと思います。クィア理論というのは自己存在(=アイデンティティ)の変容への可能性を肯定する理論という側面があるので。
【江永】 クィア理論においてそういう姿勢を打ち出す中でも一番エッジの利いた書き手のひとりという感じですよね。自己変容の旗印としてのクィアには両義的な側面があって、今回、木澤さんが会場にもってきてくださったD・ハルプリン『聖フーコー』(1997)にもそういう記述があったと思いますが、クィアであるというのが固定したアイデンティティになってしまうと、常に変容を目指すという志向とは相性は悪くなりますよね。我々こそが真のクィアだ、みたいなマウント合戦になっちゃうとまずいわけで。
【木澤】「規定不可能なIt」としてのクィア。絶えざる自己変容のプロセスとしてのクィア。そういう意味では、クィア理論はアイデンティティ政治とは真逆の方向を向いていると言えそうですね。その点、フーコーは『性の歴史Ⅰ 知への意志』の頃から一貫してセクシャルマイノリティによるアイデンティティ政治から一定の距離を取っているという意味でまさしくクィア的です。たとえばフーコーは、アメリカ西海岸におけるゲイカルチャーに見られるSMの実践を、セクシャリティによって規定されない「快楽」を発明するプロセスとして称揚してみせる(このあたりの理路についてはハルプリン『聖フーコー』に詳しいです)。「SMは、身体と快楽の新たな関係を可能にするのであり、SMの実践を続けることの一つの効果は、自分の身体との関係を変えることなのだ」(『聖フーコー』127頁、村山敏勝訳)。ちなみに、アガンベンにおいて「潜勢力」とは純然たる受動性=受け入れる力であり、また「受苦(passio)」の別名でもありましたが、ある意味ではSM(とりわけマゾヒズム)の実践とも通じるものがあるのではないかと思ったりもしました(もちろんアガンベン本人は意識してないと思いますが……)。

【暁】なるほど。お二人ともありがとうございます。とても勉強になりました。『聖フーコー』が個人的にめっちゃ気になってきました。
 課題本に戻りますと、この章では分析者と被分析者の関係の曖昧さや親密性が提示されたわけですが、章のラストで「もっと幅広い関係性の領域におよぶ、ほかの親密性のあり方はないのだろうか」って書かれていたから、次の章でより広い関係が描かれるのを自分は想定していたんですよね。でも、まさかベアバッキング(コンドームを付けないアナルセックス)乱交と、カトリック神秘主義に共通する自我剥奪の愛、というクレイジーな文章が来るとは…と呆然としていました。
【江永】 1章「わたしのなかのIt」では二者間の関係だったから、2章「恥を知れ」では複数でのセッションになるわけですね。
【暁】そういう広がり方かい!?ってなりましたね。

■第2章「恥を知れ」

※木澤さんの書かれた記事( http://s-scrap.com/3628  )を振り返りつつ、引き続きベルサーニとフーコーの比較、本の内容などについて話しました。

【江永】 ベルサーニの論はただの性癖談義になっていないのがすごいですよね。正直、ベアバッキングに関しては、ベルサーニ自身も手放しでよいとは言えないし言いたくない的な話をしていましたけども。
【木澤】 先日、海外の報道記事で、お互いにコロナを移し合うコロナパーティーなる若者の集まりが開かれているというのを見かけましたが、あれなどもベアバッキング的といえるのでしょうかね。
【暁】反ワクチン派のおたふくパーティーを想像しながら読んでいましたが、コロナパーティーのがホットでしたね。
【江永】 ベアバッキングでは受け側こそが頂点の栄光を得ているみたいな話もありましたね。ベアバッキングの当事者たちがどういう理解で活動をしているのかはまちまちだろうし、ベルサーニの解釈がコミュニティ内での共通理解とどのくらい適合的なのかはわかりませんが(ティム・ディーン『Unlimited intimacy』2009というベアバッキング文化を論じた著作をベルサーニは参照しているようです)。
【暁】 受けが「キング」になるというポジティブな発想はいいなと思いました。僕はベアバッキングの受けに感情移入しながら読んでいたので、ここ凄く楽しかったです。ゲイ向けの創作でも、男性が妊娠する、あるいは種付けをするといったような描写の作品はありますよね。
【ひで】 ゲイの男性が妊娠するのって、それはオメガバースとは別物ですか?
【暁】 ええ。オメガバースはどちらかというと女性書き手によるBLジャンルで多いイメージがあります。ゲイ向けの場合、オメガバースというより孕ませものとかで見かける感じですね(あくまで個人の印象ですが…)。
 余談ですが、オメガバースは恐らくその世界観を見るに、オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』の流れをくむものだと思うんですよね。ただ、ハクスリーが描いたような遺伝子操作による身分社会という前提がなくなっているので、「何故アルファは優秀なんだ?それはアルファに生まれたから?」という自己矛盾的なものに陥っている感じもあります。ロマンチックなお話などもありますが、やはりハクスリーの小説における社会の歪さ、残虐性がオメガバースの中にも受け継がれているように思いました。ちなみにこの章のp.72の引用にも「あらゆる人がすべての人と寝てきたすばらしい世界に私は住んでいる」という一文が出てきており、『すばらしい新世界』でもフリーセックスが当たり前のものとして描かれているので、意識してこういう表現を選んだのかな、と思いながら読んでいました。
【ひで】 残虐性……セックスをするとメスがオスを食べてしまうカマキリみたいな。
【木澤】 でもそれは異性愛の話ですよね。
【ひで】 あ、たしかにそうか。
【江永】 ちょうどそんな設定のSF小説がこの前に発表されていましたね(小野美由紀『ピュア』)。
【暁】それ僕も気になってる作品です!ちらっと見た感じ中々面白そうでしたよ。
【江永】 ベルサーニの取り上げるベアバッキング関連の作品のタイトルが『私を妊娠させて』なのがなかなかすごいですね。
【ひで】 精液は外に出ていってしまうけども、ヒト免疫不全ウイルスは血液の中に入り込んで増殖する点に意味を見出しているんですよね。自分の血潮に流れるウイルスを辿ると、自分にHIVを感染させた人間に感染させた人間に感染させた……と、ヘテロカップルの先祖を辿ることと相似形になっている。ここで扱われているベアバッキングはアメリカの話ですけども、日本でも「ポジ種」(HIV陽性の精子)って概念がありますよね。
【木澤】 日本でもポジ種専門(?)のベアバッキングを実践している会員制サウナが大阪の某地区に存在しています。ただ、先日そのサウナのサイト兼掲示板を覗いてみたところ、ここ最近はコロナの影響で営業を自粛しているようでした。
【ひで】 コロナもHIVも命に関わる感染症なのに、基準がガバガバでウケますね。

【江永】 ベルサーニによると、2003年のシンポジウム「ゲイの恥ずかしさ」では、「反規範的/反ノーマルなセックスの実践が持つ正統な価値」(63頁)に関する言及がほぼなかったという。ベルサーニはそういうことにこだわってますね。フーコーは、ゲイ・アイデンティティの議論の中で、セックスがどうというよりも、むしろ新たな関係性とライフスタイルをつくろうとしていくことがそこにあるラディカルさの核なんだ、という主旨のことを言っていたと思いますが、ベルサーニは、「反規範的/反ノーマルなセックスの実践が持つ正統な価値」にこだわるがゆえにだと思いますが、フーコーに対して批判的な姿勢も見せてました。
【木澤】 でもフーコーもSMやフィストファックの話をしてましたよね。たとえばフーコーにおいてSMやフィストファックとは、性的快楽を性器という特定の器官から切り離す、言い換えれば「快楽の脱性器化=脱中心化=分散化」を促す実践としてあった。まさしく、「私たちは身体が何をなしうるのかまだ知らない」(スピノザ)というわけです。わけてもフィストファックは明らかに「性交=生殖」の定義から逸脱するものを孕んでいる。前掲書『聖フーコー』によれば、フィストファックは(通常の性行為のような)オーガズムを目指す目的論的行為ではなく、時間をかけて続くプロセスであり、そこに一定のクライマックスはなく、感情の強度と持続こそがなによりの価値を持つ。このしばしば数時間にも及ぶプロセスの実践者たちは、それをセックスではなく「肛門ヨガ」(!)と呼ぶそうです。
【江永】 あ、そうか。 そうでした。何かしらか批判していたはずなんですが。……関連があったはずなので、いったん章の内容に話を戻します。同シンポジウムで、とりわけHIVポジティブの性の話をしないという点に関して、(当時のアメリカでの文脈や状況が私には十分には理解できていないから面食らうという点を省みても)かなりどぎつい議論を展開しています。いわば〈受け〉になることが〈女性化〉のようにみなされるという社会通念と、同性愛を抑圧するようなイデオロギーとの絡み合いがあり、そこがHIVポジティブの公認を何かスキャンダラスなものとして回避する傾向にも影響を及ぼしているのではないか、という。で、フーコーのSM論とも関連付けて意地の悪い分析をしている。例えば、以下はかなり意地悪い記述に映ります。シンポジウム「ゲイの恥ずかしさ」(2003年)のような「アカデミックな学会に参加するゲイ男性は、よきフェミニストたる政治信条をそなえているので、まずはHIV陽性であることに関連した同性愛嫌悪という恥ずかしさをあけすけに問いただすことに居心地の悪さを感じ、ついで彼らは、性的に「伝統的に女性のセクシュアリティにむすびついた立場」に従属したり、あるいは積極的にそうなろうとしたりもした者であるから、他人(ゲイ男性や、より悪いことには同性愛者でない人)に晒し者にされるという、無意識的に女性嫌悪的な側面をそなえた恥ずかしさをあけすけに問いただすことに、居心地の悪さを感じていたのだろう」(66頁)、という。ここは、さすがに暴論としてキレられても致し方ない記述かなと思いました(これに関連して、ベルサーニが問題にするシンポジウムから10年ほど経った2015年に、ラッパーのミッキー・ブランコが、4年ほど前からHIVポジティブだったと公表した際のインタビュー記事を思い出しました。音楽業界にいられなくなる事態も想像していたが、実際には公表後に支持や応援を受けたという。ベルサーニの見ていた光景とは異なる状況を感じさせる内容です)。 

【暁】 なるほど。よしながふみの『きのう何食べた?』って漫画でゲイカップルの片割れが「あなたは女性側なの?」と聞かれて苛立ちを覚える描写があったり(そもそも聞く人間の無神経さがヤバすぎるんですが)、パートナーに自分がネコなのをバラされて怒るシーンもあったので、非常にセンシティブなテーマだし、話したくないのはわかるなと思っていました。
【ひで】 ヘテロカップルには人はセックスの話を聞かないのに、なんでゲイカップルにはタチかネコかみたなセックスのことを人は聞くんですかね、みたいなイラつきも一方でありますね。
【暁】その通りです。本当にこういうマジョリティの無自覚な暴力性ってムカつくんですよね。他者そのものを理解できないから、単純なレッテルを貼らないとコミュニケーションを取れない、自分の異常性を自覚してほしいです。
【木澤】 ベルサーニのベアバッキングの議論とフーコーのフィストファックの議論には重なり合う部分が少なからずあるように思えました。(繰り返しになってしまいますが)フィストファックとは快楽の「脱中心化」の実践であると同時に、ゲイのサブカルチャーを担う集団的行為としても新たなコミュニティ創造の契機として働く。少なくとも70年代アメリカ西海岸におけるゲイカルチャーの立ち上がりをフーコーはそのようなものとして見ていた。
【江永】 ありがとうございます。ちょっと整理がつきました、ベルサーニとフーコーの違いは以下のように言えるかもしれません。フーコーの場合は、主にストア派的な禁欲ないし苦行、トレーニングという文脈で扱っていたと思います。他方で、ベルサーニは主に関係性を構築する文脈に寄せている。フーコーにおける関係性構築、コミューンのつくり方の打ち出しに対してベルサーニは満足していないのではないか。非人称的な親密性というコミューンモデルがほしいという方向で議論を進めていたと思います。
【木澤】 フーコーがギリシア・ローマ文化における快楽に対する取り組みから、自己変革のための、生の様式を絶えず美的に創造していくアートとしての実践を見て取ったのに対して、ベルサーニはあくまで他者との関係性に重点を置きたい、と。
【江永】 そうですね。ベルサーニはジンメルの社交性を取り扱った議論ほかで、フーコーの話を批判的に継承した関係性への志向を打ち出していたはずです(これも日訳がまだありませんが……)。また「直腸は墓場か?」という論考では、フーコーが暴力性と快楽のつながりを真正面からじゅうぶんには取り上げていないのではないかとベルサーニは疑念を呈していたと思います(逢瀬ではなく、その後、恋人がタクシーで去るところの情緒をロマンティックに言挙げしてしまうときのフーコーは、ちょっと日和ってるのでは、みたいなスタンスだったはず)。
【木澤】 ベルサーニのベアバッキング的コミュニティは、自己を感染させ殉死してみせることで、カトリック神秘主義に見られた神への自己犠牲的な愛の倫理に近接していく。たしかにこうした理路はフーコーには見られません。とはいえ、フーコーのテクストの中にも主体だけでない、関係性についての発言がいくつも見受けられるということを補足ついでに。
 たとえば1981年のインタビュー「生の様式としての友愛について」(『ミシェル・フーコー思考集成8』所収)では、フーコーなりの連帯ならぬ「友愛」の可能性についての考えが開陳されています。その中で、フーコーは「[生存の問いとして]関係は私にとってつねに重要だった」と前置きしながら、同性愛的な生の様式を創造することを通じて、異なった年齢、身分、職業をもった個人のあいだで共有される、制度化されたいかなる関係にも似ていない関係を、そして文化と倫理をもたらすことができるのではないかと述べています。「ゲイであるとは、私が思うに、同性愛者の心理的特徴や、目につく外見に自己同一化することではなく、ある生の様式を定義し、展開しようという追求をおこなうことなのです」(増田一夫訳)。
 もうひとつ、1979年に書かれた「かくも単純な悦び」(前掲書所収)というとても甘美なテクストがあります。「ある精神医学概論によるならば、同性愛者はしばしば自殺するということである」(増田一夫訳)という戸惑うような一文とともにはじまるこのテクストは、人々が死ぬことを求めて訪れる、東京のラブホテルを思わせる幻想的な迷宮のヴィジョンの描写を以て閉じます。その東京のフランス式シャトー、すなわち「ありうべきもっとも不条理なインテリアに囲まれて、名前のない相手とともに、いっさいの身分(アイデンティティ)から自由になって死ぬ機会を求めて入るような、地理も日付もない場所、そうした場所の可能性が予感されるのだ」(増田一夫訳)。そこは、「死」という「絶対的に単純な悦び」を名前のない相手と共有する、フーコーなりのユートピア(あるいはヘテロトピア?)なのでしょうか(ちなみにフーコーは別のインタビュー記事「無限の需要に直面する有限の制度」の中で、私が宝くじで一等を当てたら私営の安楽死施設、死にたい人が麻薬漬けで一ヶ月を快楽のうちに過ごしたあと、まるで消え去るように他界する施設を建てるでしょう、といった発言も残しています)。しかしわけても注目すべきは、そこにあっては人びとは一切のアイデンティティから離脱しているという点です。言ってみれば、そこは社会の絶対的な「外部」であり、あまねくアイデンティティが蒸発してしまうような非―場所なのです。逆に言えば、ここにはもはやアイデンティティを拠点とした抵抗の可能性(たとえば逆転した言説でもって抑圧を抵抗の場に転換せしめる戦略)すら存在しない。彼らは抑圧されたり禁止されたりしているのではなく、端的に社会から「抹消」されているのです。彼らは社会に対立しているパブリック・エネミーですらなく、むしろ社会にとって不可視の存在であり、「なんの役にも立たない生」、「いてもいなくても変わらない生」なのです(僕はここに至ってマーク・フィッシャーが自身の鬱病について書いたテクスト「何の役にも立たない」(Good For Nothing)を想起するのですが、ここでは措きます)。「生産性」からもっとも遠く離れた、何の役にも立たない「生」……。僕はこのあたりにフーコーの共同体=ユー(ヘテロ)トピア論の可能性の中心を見てみたい気もするのですが、すいません、ベルサーニの話でしたね。とはいえ、ベルサーニはフーコーとはまったく異なる関係性を志向している、というのは恐らくその通りでしょうね。

【江永】 たしかに。いま話を伺って、自分の理解にはかなりバイアスが混じっていたなと気づかされました。ベルサーニ自身、フーコーの議論から関係性への志向を引き出してもいましたね(『親密性』においてベルサーニがフーコーのスタイルに関連付けているように思われる、ギヨーム・デュスタンの作品に関する議論を、私は十分には飲み込めていなかったようです)。あと、私はフーコーの「生存の美学( l'esthétique de l'existence )」というものを、「生存」の字面に引きずられて、何か生き延びのための養生術のようなものと混同しがちであったようです。『親密性』に戻ると、92頁では「ベアバッキングは他人に侵食され、住み着かれるのに不可欠な、禁欲的訓練なのである」と書いてますね。こちらでは快楽を受容する拠点としての自己の練り上げに向かうのではなく、身体感覚を通して自己のようなものが解体されていくという事態が着目されているようです。
【木澤】 ベルサーニはどちらかというとバタイユのアセファル的なコミューンをイメージしていたのかもしれないと思いました。殉教者の「死」という零点に支えられた否定神学的な共同体。
【江永】 ただ、この否定性ないし無には、かたちがあります。ウィルスが顔の見えない日付もわからない遠くの相手と何かをリアルに分かち持つという想像のよすがになっている。その非人称なコミューンに参与する衝動が、カトリック神秘主義の形式に似通った(とベルサーニは主張している)自己抹消的な愛とその倫理らしいですね。ベアバッキングコミュニティに見出しうるものも、そうしたものだという。どちらも当人の意識の彼岸にある愛だと。少なくとも、ベルサーニはそんなことを言わんとしている感じがする。
【ひで】 本のこの辺に論理の飛躍を感じるところではあります。
【暁】自己を贄として、連面と連なる乱交者たちの系譜を過去と未来に繋ぐのが「キング」であるとすると、彼に巫性を見ることができるわけで、そこで自己を失い神と繋がるカトリック神秘主義との重なりが見えてくるのかなと思いました。僕も自我喪失に関して憧れがありますが、本文では両者とも広がりのあるタイプの自我喪失=自我拡散であるという主張がされていて興味深いです。
 僕はマゾヒスティックな面もあるので、あらゆる受け側の生命・非生命に感情移入しがちなんですが、ポジ種ベアバッキング的な不可逆の改変をさせられることを考えると、めちゃめちゃ脳汁が出るんですよね。それもあってか、この章の話は突飛だなと思いつつも、「わかる」感じがしました。でもこの章でぶち上がってるのは多分僕だけなので、嗜好の差異が浮かび上がってきたのも面白いですね。
 すみません、本の話に戻りましょうか。

【江永】 まあ、ライフスタイルのあれこれがミクロな権力関係であって広い意味での政治と切り結ぶんだ、的な話を本気でするならば、ここまで言わないとフェイクだよね、みたいな圧がありますね。ベルサーニの話。このまとめ方だと、どうしても煽りというかチキンレース的な雰囲気になってしまうのが難点ですが。別の語り方が要る。セクシュアリティの事柄をこうした観点で理論的に捉えようとすると、おそらく他害性、侵襲性のようなものを取り扱わざるをえなくなるところがあり、まずい(使い勝手のわるい、雑な)紋切り型に陥りがちの、欲望や暴力をめぐる語彙でしかうまく考察ないし分析できないような局面がきてしまうけれど、ベルサーニはその難所にこそこだわっているように感じられます。そういう話題に取り組むという点から見て面白いと思うのは、例えば98頁の記述です。ベルサーニ自身もぶっちゃけ引いているという、ベアバッキングの暴力性の話から、突然ジョージ・W・ブッシュ(ブッシュ・ジュニア)政権の政策がそなえる殺人的な無責任さ、っていうのに話が移る。その殺人的な無責任さに比べたら、ベアバッキングに見出されるものは(相対的に見て)よほど罪深くないものだ、という。
【ひで】 ウケる(笑)
【暁】ここの「もちろん、そうした(ゲイたちのベアバッキングという)無責任ささえ、わたしたちの現在の政府(ブッシュJr.)の国内政策や対外政策がそなえる殺人的な無責任さという、より大きな社会文脈に比べれば、罪の少ないものであるようにみえる」という部分、めっちゃ江永さんが言いそうって思いながら読んでました(笑)。
【江永】 この本は2010年代に何度か読んでいたので、じっさい、影響を受けてきたと感じている(つもりの)面もあります。ともあれまとめると、ベアバッキングは、攻撃性と表裏一体で自己保存欲動に駆動される親密性(何らかの全体なるものへの同一化志向)そのものであるようにも、その批判である(既成の同一性を偽の全体性として批判しうる拡張志向)ようにも捉えうる両義性があって、アンチ共同体主義者であるベルサーニは、アイデンティティなるものを批判する立場から後者の面のポテンシャルに賭けていますが、でもこの実践、無になるぞという意志に基づく自滅以上の何かに本当になりうるのだろうか、と懐疑的でもある。ただ、ここに見出される愛の理論が、諸論考を通して練り上げようとしているコンセプト、非人称的ナルシズムの話に繋がっていくようです。という感じで次章に続きます。

■第3章「悪の力と愛の力」

【江永】 冒頭。「想像してみよう」。
【ひで】 パンチライン強いですね。
【木澤】 良い「イマジン」ですね。
【ひで】 「想像してみよう。30代の、かなり魅力的な男性が、ショッピングモールで出会った若い男性を、一緒に家に来るよう口説いている。家につくやいなや、彼は少年を写真に撮り、薬漬けにして首を絞め、のこぎりでからだを切断する。」
【暁】 ベルサーニはこういう悪ノリが好きなんだなとわかってきましたね。訳者も書いてましたけど、この章の殺人鬼→サダム・フセイン→ギリシアのゲイ文化の話って流れは、ちょっととっちらかってますよね。
【江永】 例えばフーコーも同時代のSM文化から古代ギリシア・ローマ文化まで語ってたと言えば語ってたわけですが、とはいえ、ひとつの章の中でジェフリー・ダーマー(アメリカの有名なシリアル・キラー)からプラトンの『饗宴』や『パイドロス』(に登場するソクラテス)まで話が進むのは、ぶっとび感ありますよね。
【暁】 サドの登場人物が、サドの思想を代弁してA、B、Cと一つずつ話していくのと構造が似ているなと思いました。
【江永】 そういえば、幾つかの著作で折に触れてパゾリーニの1975年の映画『ソドムの市』(と原作のサドの小説『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』)の話もするんですよね、ベルサーニ。日訳あるものだと『フロイト的身体』(1999年)とか。これもパンチラインが多い著作でした。話を戻すと、この章ではフロイト『文化への不満』などを読み直していると思うんですけども、ベルサーニは、フロイトの攻撃性や集団心理学の議論を何度も取り上げています(さっき挙げた『フロイト的身体』など)。その意味ではある種、ベルサーニにとって、十八番の話をしている。
【暁】 うーん、しかしこの章が一番ガバい感じがしたんですが…。
【江永】 歴史的事項や時事問題、社会的文化的政治経済的な事象を、精神分析の語句や発想と突き合わせつつ考察するみたいな、現在とりわけ評判のよろしくなさそうな論じ方をしていますからね。主にラカン(派)が取り上げなおしているフロイトのテクストに言及して、悪と攻撃性の話をしている。「享楽は、他人のわたしへの愛とわたしの他人への愛の双方の核心部に存在する「はかり知れない攻撃性」をともなっている」(107頁)。ここがコアのテーゼになっているようですね。ここでさらにラプランシュっていう人――ラカン派から袂をわかった分析家のひとりなんですけども(そういう分析家はたくさんいるし、分派はたくさんある)――の議論を援用している。「わたしたちが生きている時代を、ラプランシュは、善と悪の精神病理的文化圏と名ざしている」(107頁)。ブッシュ政権の打ち出した構図、イラクが悪の枢軸でアメリカが絶対正義になるという構図が、善と悪の精神病理的文化圏なんだということで、ヤバイ連続殺人鬼だけが邪悪で市民はまともという構図と対応させられている。国家間の話と人間間の話が重ね合わされているわけですよね。で、こういう構図におさまっちゃうような主体や自己のありようとは別のものを探るために、ベルサーニは非人称的なナルシシズムというのに着目しているらしい。

【木澤】 僕が非人称的ナルシシズムという概念に興味を持ったひとつのきっかけというのが、『若おかみは小学生!』という劇場用アニメ作品を見たことなんです。主人公はオッコという名前の小学生なんですけど、母を交通事故で亡くしていて、親戚の旅館で居候する代わりに若女将として旅館の手伝いをしているわけです。【以下ネタバレ注意】ですが、あるとき旅館に来た客が母を死なせた交通事故を起こした犯人であることが判明する。観客はここでオッコが復讐のために犯人をナイフで刺しまくるといったヴィジランテ・ムービー的な(?)カタルシスを思わず期待してしまうわけなんですが、当然そうはならない。あくまで責任ある女将として客を「おもてなし」することをオッコは選択する。このあたり、カントの定言命法が労働規範とカップリングしたような感じで最悪なんですが、ともあれ、僕はこの映画は一人の少女に対してあまりにも多くのことを要求しているように思えました(監督の高坂希太郎は公式サイトにおいて、「この映画の要諦は「自分探し」という、自我が肥大化した挙句の迷妄期の話では無く、その先にある「滅私」或いは仏教の「人の形成は五蘊の関係性に依る」、マルクスの言う「上部構造は(人の意識)は下部構造(その時の社会)が創る」を如何に描くかにある」云々といった、なんだかよくわからないコメントを寄せていますが、ここではすべて無視します)。
 それはそれとして、他者をそれ自体目的として(カント)、他者のために自己犠牲の精神で働くオッコのようなタイプも、他者を利用して搾取しまくるホリエモン的な資本家タイプも畢竟、他者を「目的」として扱うか「手段」として扱うかの差でしかなく、この二つの態度はコインの裏表のように簡単に反転しうるのではないか(そしてそれは必然的に「暴力」と結びつきうるのではないか)、というのが僕の問題意識です。
【江永】 穏健というか大勢に従順な小市民の精神性と、エゴイスティックかつ無情な利害判断しかない(通俗的な用法で言う)サイコパスの精神性が、労働者オッコの振る舞いにおいて表裏一体のものとして体現される、というような感じでしょうか。
【木澤】 そうですね。どちらも近代的な規律化された個人が出発点となっていて、そこから自分とは絶対的に異なる存在としての他者が定立される。つまり自己―他者という二項対立が形成される。それに対してベルサーニの非人称的なナルシシズムには、そのような私―汝という非対称的な二者関係の土台をじわじわ突き崩させるような契機が含まれているのではないか。僕は非人称的ナルシシズムという語感から、自己への配慮(ナルシシズム)と他者への配慮が根源の部分において区別不可能になるような関係性へのヒントが含まれているのを感じ取って読み始めてみたのですが。とはいえ、まだ消化不良な部分があるのでまだ何とも言えない、というのが正直なところですが……。
【江永】 ベルサーニの話も、ある種の良心、というか超自我を設定する考え方への批判ではあるみたいですね。そういう意味では、社会道徳の内面化と個の確立が連動するはずだと考える姿勢への批判ではある。第三章で書かれている話だと、世界を支配しようという衝動と、自我を守ろうという衝動が、超自我が命じるとか抑圧するという契機において、すごくねじれた仕方で一体化しているのだ、という話になっていますね。外敵を滅ぼそうとする衝動が、いわばアレルギーのように、自己を滅ぼす衝動にも転化しているという感じ。社会レベルで言えば、「専制勢力によって意図的にはぐくまれた大衆ヒステリーとして頻繁に語られてきたことは、誇大化した自我のこうした自殺的な狂乱のことである」(118頁)という話になる。また個人レベルで言えば、「自我は、差異としての世界を支配し抹消するという狂った試みのなかで、自己を崩壊させる衝動を権威化する声として、つまりこうしなければならない声として、自分自身を鮮明に再発明しもする」(121頁)。だけど、その衝動の根にあるのは自己保存の衝動、自己を侵襲して苛んでくるものへの耐えがたさなのだ、と。
【暁】そこちょっとセカイ系っぽいですよね。ここで少し、『若おかみは小学生!』について言及しますと、僕は原作を少し読んでいたんですが、木澤さんの話を聞いてそんなショッキングなシーンがあったかな…?となっていました。朝ドラヒロイン的なイメージで受容していたのですが、話題性もありましたし、映画も見ておけば良かったです。
 …調べてみましたが、やっぱり事故の当事者って映画オリジナルキャラだったんですね。原作とは違う形で、おっこを過去と向き合わせたようです。

【江永】非人称的ナルシシズムっていう話は、アイデンティティ政治みたいなものに対する、(野蛮かもしれませんが)強烈な批判意識に裏打ちされてますね。「国民的、民族的、人種的アイデンティティは、人格的な自我に類似している。そこにおいてアイデンティティは、歴史的に区分され、本質的に対立的なものとして規定されてしまう[……]自我は自身を規定し、かくして、彼らのアイデンティティの境界の外側にある差異に対して攻撃的な防御姿勢を取るべく、自身の存在の統一性をつくりだそうとする」(142頁)。これはいうなれば、(文化的)アイデンティティという概念自体がいわば「文明の衝突」(ハンティントン)的な世界観と同根であるという批判ですよね。そうした世界観が前提である限り、どんな連帯も、根本的には、より耐えがたい差異を持つ敵を攻撃するために、相対的に我慢しうる差異を持つ敵との間で停戦することだ、という構図になってしまうというか。根源的な敵対性、差異を根っこから解消することの実現は、まずもって他者の殲滅、そして究極的には、外界と対立する自己という図式を廃棄するような出来事、つまり自らを含めた消滅、絶滅というものとしてしか夢想できないという話にもなってしまうでしょう。
 もちろん、こんな見方は幼稚な極論で、ゼロサム思考の産物であって、認知バイアスに過ぎないとは言えるかもしれません。しかし、このような見方を表明するのを禁止したり、表明したものを罰したり辱めたりすれば万事解決かと言えば、そんなことはないでしょう。ベルサーニとしては、従来の(文化的)アイデンティティ概念に根差した議論は、どれほど精緻でも上記の構図を脱しえず問題含みだという評価になるのでしょう。だから別のありかたを打ち出すのだという話になっている。例えば、以下の文でベルサーニは、言ってみれば、どんなに同じに見えても違うのを事実として認めることから考えを始めるのではなく、どれほど隔たって見えても同じだということへの信から、考えを始めるべきだと言っているように見えます。
 「もしわたしたちが、この非人称的なナルシシズムによって他者と関係することができるならば、他者(彼らの心理学的個人性)との差異は、他者とわかちもっている同一性という、より深いもの(完全には現実化されないし、みいだされることもない)のたんなる外皮に過ぎないものになる」(144頁)。いわば自己の形とも他者の形ともずれているし、(すべての相手に開かれている以上)現に数え上げられる個々に共有の部分として画定しきることもできないような、ある同一性を志向することが、「非人称的なナルシシズム」と言われているように思えます。

【木澤】ありがとうございます。だいぶ整理できました。ところで、この「他者とわかち持っている(完全には現実化されないし、みいだされることもない)同一性」って、1章で出てきたカウンセリングを通じて二人のあいだで交換され合う「It」、「純粋な可能性としての、規定不可能なIt」のことですよね。ただ、「It」ではアイデンティティに還元されない変容可能性=特異性が強調されているように読めましたが、ここでの「他者と分かち持っている同一性」は、逆に諸アイデンティティの差異を越えて等しく分有されてある一種の(「相対」に対する)「普遍」のようなものが目指されているように思えます。とはいえ、どちらもアイデンティティという概念に対する批判的視座を共有している、という点でやはり無関係ではありえない、何かしらの通奏低音をここに見いだすことができる気がしました。
【暁】ああ、なるほど!いま木澤さんの話を聞いて、1章とこの章がつながった気がしました。1章の分析者―被分析者の相互影響の話は、ソクラテス―美少年という一見不平等な関係性にも通じていて、ソクラテスが一方的に愛するのではなく相互に影響を受けているってことを言いたいのかなと。p145~146の辺りに詳しく書かれていますが、「彼は、愛に献身的な人生と哲学的な議論に生涯没頭することは同じであることを―あるいは、無味乾燥でないいい方をすれば、対話を精神的に流体化することへの没頭と同じだということを示したのである」。つまり、AとBというアイデンティティのぶつかり合いではなく、ソクラテスと少年の入り交じる相互影響的な対話こそが、暴力的ではない愛であり、ベルサー二が可能性を感じてることなのかなと(本当にそこに暴力性がないのか、という話は一旦置きますが)。僕はいま正に「対話」による気付きを得ているので、しっくりきた感じがありました。
【江永】ここまでヤバい内容だったのに、最後は穏当な結論になってますね。もっともソクラテスがいた古代ギリシア(の都市国家アテナイ)では、現に愛し合っていたはずですが。「互いにセックスしないと決めた」わけではなく。
【木澤】必ずしも「プラトニック」だったわけではなかったと。
【暁】(笑)。どんどん相互影響していきましょう。

■第4章「誰が書いたものでもないメモ」

※マスクを装着したまま読書会を行っていたんですが、読書メモを取っていたひでシスがマスクのせいで熱中症になってきて意識朦朧としていたのでここらへんの文字起こしは少ないです。本当に「誰が書いたものでもないメモ」になってしまいました。すいません。

【江永】 この第4章がアダム・フィリップスの書いたパートですね。フィリップスはイギリスのセラピストで、自身も分析を受けており、精神分析関連のエッセイでも知られています。例えば単婚性(モノガミー)を断章形式で批評した『Monogamy』(1996)は、ベルサーニも論考「Against Monogamy」(1998)で引用しています。フィリップスがどんな書き手かを紹介するには影響を受けた精神分析の学派を紹介するのがよいでしょう。なお、精神分析の学派というのは武道の流派のようなところがあってややこししいですが、これは自身を専門家集団としてどう組織化するかという制度面の問題のほかに、分析という作業がアルゴリズムに従った問答や分類におさまらない性格を持つ以上、どうしても属人的な要素が残るという問題でもあります。
 フィリップスは元々ダーウィンやユングを読むような青春を過ごしたらしいですが、自身はマサド・カーンという(現在ではスキャンダラスな人物としても知られる)分析家のところで精神分析を受けており、その後は主に児童精神医療に携わってきたようです。フィリップスは分析家、ドナルド・ウィニコットの影響下に位置づけられる人物です。そもそも上記のカーンがウィニコットとの協働でも知られていた人物であり、またフィリップスは『ウィニコット』(1988)という単著をハーバード大学出版から出してもいます。この4章の話題にも関わるので、細かくなりますが、ウィニコット周りの文脈も説明します。
 ウィニコットはイギリスにおける対象関係論を発展させた分析家で、「移行対象」などの概念の提唱で知られています。日本だと、スヌーピーに登場するライナスの毛布はウィニコットの言う「移行対象」の例で云々、といった説明が知られているでしょうか(よく、一種の「メンヘラ」類型としてぬいぐるみを大事にしているみたいな意匠がありますが、そこには「移行対象」的な発想が入り込んでいるように思われます)。ウィニコットやカーンはイギリス精神分析の分野で言う中間派(ミドル・グループ)ないし独立派(インディペンデント・グループ)にまとめられます。事情を説明します。とりわけ第二次世界大戦の期間を中心として、イギリスの精神分析学界隈は、アンナ・フロイトとメラニー・クラインという分析家(とそれぞれの支持者たち)に代表される二大学派の論争的な対立関係で揺れていました。アンナ・フロイトはジギスムント・フロイトの子供でもあり、現在でいう自我心理学派の祖とされます(「アイデンティティ」概念で知られる発達心理学者のE・エリクソンなどがここに属しています)。一方、メラニー・クラインは、分析家S・フェレンツィ(精神分析におけるハンガリー学派の祖ですが、フロイトとは理論上も実践上もしばしば対立が見られました)に分析を受けた人物で、いわゆる「対象関係論」への独自の際だった貢献を行いましたが(この用語を普及させたわけではない)、その学派は本人の名を冠したクライン派という呼称で知られています(またクラインに関しては、ドゥルーズがしばしば参照していた人物としても知られているはずです)。中間派ないし独立派というのはどちらでもない人々、ないしは先に挙げた二つの流派対立を調停しようとした人々ですね。
 まとめると、フィリップスは少なからず対象関係論の影響下にあって、親密な関係性や、それと関連する具体的なしぐさ(肉体的な接触含む)に対する関心が強いように見える書き手です(フィリップスの著作には『キス、くすぐり、そして飽きが来ることについて(On Kissing, Tickling, and Being Bored)』(1993)というのもあります)。そんな文脈があるので、ベルサーニが親密性をめぐる考察においてフィリップスの著作に触れるというのは、納得できる話だなと感じもします。
【暁】フィリップスさん周りの説明、ありがとうございます。かつてないくらい濃度の濃い読書会になってきましたね。『キス、くすぐり、そして飽きが来ることについて』って凄いタイトルで、ちょっと面白そうです。

【江永】 冒頭でフィリップスが第1章の話を精神分析などにおける境界侵犯(精神分析の臨床において二者が一線を超えてしまう事態)の話題を取り上げて対象関係論の話と結び付けていきますが、これに関しては『精神分析における境界侵犯』(日訳2011、原著初版1995)という本が有名みたいです。また『親密性』が出た頃(原著2008)だと、心理療法などの教育で採用されるスーパーヴィジョン(実際に働きながら指導員に面接を受けていくやり方。一種のOJT[オン・ザ・ジョブ・トレーニング]と考えられる)における問題に絞った論集ないし告発本、『スーパーヴィジョンのパワーゲーム:心理療法家訓練における影響力・カルト・洗脳』(日訳2015、原著2006)というのが出たりしています(日訳副題の「影響力・カルト・洗脳」が物々しすぎますが、いちおう原著の副題にも「influence, persuasion, and indoctrination[影響、説得、教化]」とあります)。
 4章の話に戻ると、 対象関係論の説明から、151-152頁の辺りでフィリップスなりのベルサーニ読解にシフトしていきますね。「自己破壊=自己憎悪」でも「自己愛=現実憎悪」でもないようなあり方が可能なのかというのがベルサーニの問いで、だからマゾヒズム論とか、何かを知ろうとする主体の話など色々経由して「非人称的なナルシシズム」というあり方が出てくるのではないか、というまとめをしている。
【ひで】 自己を引き合いに出すと自身や取り巻く現実に目が行っちゃうので、非人称を軸に据える視点を出すという流れは、当たり前っちゃあ当たり前だと思うんですよね。
【江永】 「わたしには、ベルサーニは復讐ではないような欲望の形式を想像したいように見える」(159頁)ってのは、簡明なまとめですね。ベルサーニ自身も2000年初出の論考「Sociality and Sexuality」の後半部で、「欠如は欲望になくてはならないものか?[Is lack necessary to desire?)」と問うて、本書の第三部でも出たプラトン『饗宴』を取りあげつつ、何かを取り戻したり埋め合わせようとするのとは異なる仕方で欲望をイメージしようとする議論を展開していたはずです。
【暁】うーん、しかしフィリップスさん、具体的な例示がないからベルサーニより読みにくいかも…。あのブッシュの例とか突飛もないけど、あるだけましだったんだなと。
【江永】まあ、哲学とか精神分析の研究書を参照して、ベルサーニのぶっ飛び随筆を理論的に位置づけなおそうとしている感じのパートなので。フィリップスが具体例を足したらをそれだけで分量膨れ上がる、というか別の本ができてしまいそうな感じもします(とはいえ、確かに読みづらいですが)。最後の問答をぶっぱなしていく感じは、バトラーの『ジェンダー・トラブル』とかを思い出しもしました。「最初の問いに戻ってみよう。ベアバッキングのプリズムをとおしてみると、親密性のあたらしい形式である非人称的ナルシシズムとは、何から人を自由にするのか。それは何のためのものなのか。もし人間の関係性が、自我同一性の共謀とは異なったものであり、こうした試みが自己性の強化ではなくその解体にあるならば、わたしたちの生はどうすればよりよいものになるのだろうか。そして、もっと緊急の問いを立てれば、近年に増大する暴力の残虐性を踏まえて、こうした試みを、いまや人間的本性とかさなりあうきわめて恐るべき暴力の原因ではなく、むしろそれを軽減させるものとして追求するにはどうしたらよいのだろうか。ソクラテスが『パイドロス』の終わりで述べるように、「わたしが外部にもっているすべてのものが、内部にあるものと巧くやっていく」ことなどは可能なのだろうか。それが、所有とはまったくかかわらないことなどは可能なのだろうか」(191-192)。この問いかけ列挙でメモが結ばれて、ベルサーニの「結論」に移る。
【暁】確かに。この章にたどり着くまでにだいぶ疲れてたのもあって、頭に入ってこなかったみたいです。江永さんの発言を踏まえてもう一度読んだら、理解しやすくなりました。「いずれにせよ、愛は常に境界侵犯なのである」(p149)とか、「ベルサーニにとっては、精神分析の優れた点が、「他者や自分を愛することの無能力さについて説明を企てたこと」にあるならば、そのとき精神分析の未来は、愛について徹底的に記述し直すことに関わっている」(p151)とか、ベルサーニの主張の言い換えをしつつ、愛について本気出して考えてみたというか、精神分析にできることはまだあるかい?ということを語っている感じですね。
 「おもうに、フロイトの死の欲動の概念とは、欲していようがいまいが、望んでいようがいまいが、わたしたちは死を欲望しているということを述べるものである。ベアバッキングが示すことは、セックスとはデッド・エンドであり、デッド・エンドの自覚であるということである」(p187)、「いずれにせよ、ベアバッキングを無理矢理に推進することはなされるべきではない。しかしおそらく同様に、同意したベアバッキングが、親密性のあたらしい形式や試みとして―現実のものであれ漫画のなかであれ―提示してくるものを無視することはできないだろう。ここでの親密性とは、究極的な非人称性への開かれそのものなのだろう。そこではまったく自己保護的な行動であるセックスは終焉する」(p190)とかも力強いですし、ベアバッキングに可能性を感じている。全体的にちょっと頭に入ってきにくい感じではありましたが、この辺は読んでて納得感もあり、面白かったです。こうして見るとフィリップスさんもベルサーニに負けず劣らずパンチラインが強いですね。

【木澤】「わたしが外部にもっているすべてのものが、内部にあるものと巧くやっていくことなどは可能なのだろうか」という問いを前にして、僕はなんとなくダナ・ハラウェイとシルザ・ニコルズ・グッドイヴの対話を記録した著書『サイボーグ・ダイアローグズ』の中の「病気とは関係である」という章を思い出しました。その中で、グッドイヴは免疫学に関する『ニューヨーク・タイムズ』の記事を引用しながら、身体は、それが病気になるためには、いかに細菌と「親密」でなければならないか、という問いに注目してみせています。すなわち、「攻撃されている細胞は、実は、進行してくる細菌を援助しなければならないのだ」(高橋透 、北村有紀子訳)。それに対してハラウェイは、寄生者の視点からすれば、宿主は自分の一部であるように見えるし、宿主の視点からは、寄生者は侵入者のように見える(「あるいは、宿主の視点から見ると、死を招く親密さといったものがあるのです」)というパースペクティブの差異に言及しながら、何を自己とみなし、何を他者とみなすかは視点の問題にすぎない、と述べています。ミクロな次元における親密性、細菌やウィルスとの(所有に還元されることのない)親密性についても考えてみたいと思いました。

■「結論」

【江永】ここまででお腹いっぱい感があるというか私は意識が朦朧としてきましたが、ベルサーニが全体の話をまとめていますね。確認します。ベルサーニは(フィリップスみたいに?)精神分析を批判的に読み替えたがっている。ベルサーニ的には、従来の精神分析理論では支配的であった人称的な要素がダメ、という調子ですが、さっきの小学6年生おっこの物語みたいな、「規律化された個人」ありきの思想でない形にしたいってことかなと思います。
ちなみにフィリップスも、精神分析を専門家の権威(による保証からくる安心)を求める心情を掘り崩すようなものと見る(つまり専門家としての分析家の地位も掘り崩しかねない)批判的議論を展開していたはずです(『精神分析のお仕事』日訳1998参照)。自己があって安心するというのと専門があって安心するというのをどれくらい一緒くたにしていいかわからないけど、身近な話で言えば例えば、何者にもなれない自分が後ろめたいとか、何か職ないと人間扱いされない感じがする(身近な例では「社会人」という語の用法が象徴的ですよね)とかいう物言いがありますが、これらが、いままで出てきたような専門性とか自己性、あるいは「個人」なる観念にまとわりつく窮屈な文脈を素描しているように私には感じられます。
で、ベルサーニのまとめに戻ると、こうあります。「この書物でのわたしたちの対話は、自己性という暴力的なゲームに対する代替案を提示する試みだということができるだろう」(197頁)。「自己性という暴力的なゲーム」と言われるといかつい感じがしますが、コミュニケーションを一種のパワーゲームの発想で捉えるのをやめよう、とまとめられるでしょうか。そして結びは、何か知らないものと自分が遭遇するってのはキャラ崩れるかもしれなくて怖くなるけど、異物への攻撃性を飼いならすっていうより、自分の外を異物だと考える発想自体をやめて、「世界との協調や、世界と「巧くやっていくこと」」(202頁)を目指してこう、という話におさまる。ある種の〈やっていき〉の提唱。穏当なのかヤバイのかよくわかんなくなってきました。まあでも、現れたモンスターをやっつけろという話でも無ければモンスターが現れても我慢しろという話でもないだろう、ということですね。たぶん。そしてそれはいい話だなと思います。
ふと思いましたが、非人間性と未来との関係という観点ではエーデルマンとベルサーニは対照的なのかもしれません。エーデルマンがみんな人間(のマジョリティ)のものと目される未来に対して誰か(何か)がノーを言う余地を残そうとしているとすれば、ベルサーニの方はみんな人間(のマジョリティ)でなくなるような未知へと誰も(何も)が開かれる余地を残そうとしている、とまとめうるのではないか(ただし、ここにはないユートピアを希求するといった、欠如に基づく欲望に根差すのとは別様に)。粗い見立てかもしれませんが、掘り下げて考えてみたくなりました。

■終わりに

【暁】今日の本は読みごたえのある内容でしたし、江永さんや木澤さんが熱い話を展開してくださって大変面白かったですね。ただ、ひでシスさんが熱中症になりかけてるのを見てマジで心配になりました。僕は普段から熱中症になりやすいので色々対策しているのですが、マスクが熱中症リスク上げる可能性があるということを事前に周知しておくべきだったなと、反省していました。
【ひで】 いや〜マスクしてると体温が上昇するんですね。知りませんでした。イヌは夏になると口をハァハァ言わせて蒸散して体温を下げますが、人間も口からも体温を下げるんですね。
【暁】ほんと無事で良かったです。コロナ以後は、元々体の弱かった人が生きる知恵として持っていたもの活用して生き残り、逆にマジョリティである健康自信ニキがポックリ逝ってしまうみたいな逆転現象が起こりうるのではないかということを、ふと考えていました。弱者と強者が逆転する不健康ユートピア。でも実際は、コネもあって情報収集できる元気な奴が生き残るのかな…という感じもあり、難しいですが。

【暁】『親密性』全体の感想としては、論理性よりも一つ一つのエッセンスを吟味するのが楽しい本だなと思いました。「じゃあこの言及には具体的にどういうものが該当するかな?」といった読み方をしてみるのも面白そうです。
 一例としては、1章の最後の問いかけについてみんなで考えるとか。「では広い関係性における親密性ってなんだろう?」ということで、例えばこの読書会のような場や、ポリアモリーとかも候補になりうると思います。最近自分が読んだ中だと、村田沙耶香『殺人出産』内の「トリプル」という短編が凄く好みだったんですよね。ある海外アーティストがカップルではなく三人で交際する「トリプル」をしていると公表したところ、日本の若者の間でも流行り始めたが、旧来の価値観を重視する人たちと衝突して…という話なんですが、カップルという関係性以外の面白い可能性が開けたような気がしました。
【ひで】 論理性はガバい部分があるのでトピックを拾っていくほうが面白さと読みやすさはありましたね。突拍子のないトピックを論理でつなげて一冊の本にしてるというところがすごいんでしょうけど。ぼくは正直ストア派などがわからないので尚更かもしれません。
【江永】 実は、ストア派は、自己啓発的な思索の元祖と呼びうるのではないかという話もあります。

フーコーがセクシュアリティの歴史を考えたとき、ストア派を含む古代ギリシア・ローマの著作に向かったことは何か示唆的に思えます。そこでは自己啓発を「アンチソーシャル」に思考することが試みられていたのではないか。……などというと牽強付会の誹りは免れないかもしれませんが、でも、生活に引きつけて読めそうに映ったり、読みたくなったりする記述がある気もするんですよね。なので、おそらくフーコー経由で古代ギリシアに筆を伸ばしていったのであろうベルサーニの書き物も、そういう観点で読んでもいいのではないか、という気がしています。いわばひとつの「闇の自己啓発」として。
【暁】すごい、最終回で作品のタイトルコールが入った的な綺麗な終わり方になりましたね。素晴らしい。


 最終回になるのでは!?という話もありましたが、まだまだ闇の自己啓発は続いていきます。次回の課題本は、大屋雄裕『自由か、さもなくば幸福か?』です。お楽しみに!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?