展示「彗星密室」に持っていかなかった3冊

Rhetoricaが企画した「読む」展示の「彗星密室」に参加しています(10月21日-24日と10月28日-31日、東京都目黒区WHYNOT.TOKYO、13:00-19:00)。写真や選書などからなります。私は3冊の本と文を寄せました。

写真そしてTシャツも。「すごい私的なTシャツ」が記憶に残っています。

なお、選書に寄稿しているのは以下の23名です。

この「彗星密室」のコンセプトは「思い起こせる記憶がある人は幸いかな」という一文で始まっています。今回こちらに参加するために、本を探していたら、いくつかの本に出会いなおし、そういえばこれを読むのも私だったのだった、と思い出したりしました。この記事では、「彗星密室」に送ったのとは別の私の話をします。つまり、別の本を見せ、短文を付します。数は同じく3冊です。これを書いている私には、これから書く私が、彼方に送った私とは別の私であるように思えているのですが、傍から見ていれば、いずれもいかにもそれらしい私のように映るものなのかもしれません。

林晋(編著)『パラドックス!』日本評論社,2000年

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 天国のプレイルームで、一の天使がきれいな色とりどりの紙を見つけて、何か作りたくなりました。それで小さな箱をつくって、赤い紙を貼ってみました。可愛い箱をあけたり閉めたりしているうちに、もっとたくさんの色を使いたくなりました。そうして大きい箱や小さい箱を作っては、それに似合いそうな色の紙を貼りました。
 小さい箱を大きい箱にいくつか詰めてみたり、ほかの箱にいれ換えてみたりして遊んでいるうちに、また箱を作りたくなりました。こうして夢中で箱を作り続けているうちに、白い清潔な遊び場がカラフルな箱で花園のようになりました。
 そこへ女神様が入ってきました。
(八杉満利子「集合論のパラドックス・うそつきパラドックス」林晋(編著)『パラドックス!』2頁

 確か、座り読みが可能な大型書店に初めて私が連れて行ってもらったとき(そんな機会はほんとうに稀だった)、扶養者に懇願して、手に入れた本だった。いまになって考えてみると妙な取り合わせのエッセイ集で、数学や物理学や計算機科学の専門家にまじって野矢茂樹や高橋昌一郎などの名も並び、さらには大澤真幸まで参加しているのだった(ひょっとすると、マルクスとウィトゲンシュタインの名を私が初めて見知ったのは、ここに所収される大澤真幸「ウィトゲンシュタインのパラドックス・代表制のパラドックス」によってであったかもしれない)。
 面白い思考実験や気の利いた小咄が随所に含まれている本書であったが、冒頭の八杉満利子の文は、上に引いた通り始まりからしてもう物語で、とても印象深かった。この後は、作りすぎた箱を片付けるための大きな箱を作るという話から、女神と天使たちによる喋り合いが――話題は、ラッセルのパラドックス、カントールと集合論、自己言及のパラドクスなど――穏やかな昼夜の巡りを伴いつつ展開されていく。私はガチャガチャと同じ動作を繰り返すというイメージに対するこだわりが、たしかこの頃からあったから、それで、「無限個」の箱を作ったりしまったりするという動作に、心惹かれるところが多かったのかもしれない(以前、ウィトゲンシュタインの1939年ケンブリッジ大学講義ノートを読んだとき、そこでは、数を数えるという行為には労力がかかるのだという事態への、強いこだわりがあるとの印象を受けたのを、私は思い出す。関連性は不明だが、それ以降の私は、計算ができないのは頭がわるいからだと言って済ませてしまうのは、運動ができないのは体が弱いからだと言って済ませてしまうのと同じくらい、むごいし、間違った言い方なのではないか、と、ますます思うようになっていった)。
 結びに代えて。いま、どうしても思い出せない本がある。エンツェンスベルガー『数の悪魔』ではないのだが、そういう感じの児童文学風の連作短編集だ。セントピーターズバーグのパラドックス(サンクトペテルブルグ表記ではなかったはず)がおどろおどろしく描かれていたその物語では、ひとにマーチンゲール法(倍賭け法)を吹き込んでは授業料をせしめる小悪党が期待値が無限大にすら思えるゲームに手を出して手持ちをすっかりむしり取られる過程が描かれていたはずなのだが、題名が出てこない。なぜか橘玲『亜玖夢博士の経済入門』が頭に浮かぶが、あれではない。いや、あんな感じの、喪黒福造をもう少し学者肌にしたような胡散くさい人物が出てくる話だったのだが……(もし知っているひとがいれば、こっそり教えて欲しい)。

藤森かよこ『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。』KKベストセラーズ,2019年

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 二〇歳の海兵隊兵士は、戦場で自分の心が死んでしまったと感じていた。マラリアで入院していたときに兵隊文庫の一冊を読んだ。すると自分の心に感情が復活し心が生き返ったのを感じた。その兵士は、その喜びと感謝を作家に書き送った。
[……]
 この兵隊文庫というペーパーバックが、第二次世界大戦後のアメリカのペーパーバック興隆の起源となった。廉価なペーパーバックになった書物は、アメリカの中産階級の教養を形成した。
 死闘が繰り広げられた悲惨で戦場においても、読書は兵士の精神を守った。読書はあなたの心も守ってくれる。
 読書の効用は、癒やしと辛い現実からの建設的逃避だけではない。読書は、自分の状況を対象化することも教えてくれる。
 自分の状況を対象化するということは、もうひとりの自分が自分の状況を眺めるようなものだ。状況を俯瞰するということだ。これを「メタレベルに立つ」と言う。形而上的に考えるというのは、こういうことだ。
[……]
 ブスで馬鹿で貧乏なあなたこそ、読書を習慣にしないと、サバイバルできない。あなたは米軍兵士ではないので、政府から無料で兵隊文庫が供給されるわけではないが、その代わりに無料で書籍を貸し出してくれる公立図書館は日本のどの街にもある。古書ならば安く入手できる。
[……]
 心を守る読書と並行して、この社会の仕組みを知るために、「税金の本」と「社会保険の本」を、私はあなたに読んでもらいたい。このテーマの本は、いくらでも書店に並んでいるので、テキトーに選んでください。手っ取り早く、あなたが生きる社会の仕組みを知りたいならば、税金と社会保険の知識はマストだ。
(藤森かよこ『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。』125-127頁)

 長らく英米文学研究者として生き定年より一年早く退職した著者が、自分の半生を振り返りつつ、後進の人々に生き方論を説く一冊、などと要約すると抜け落ちるディテイルの妙味がある。例えば、初っ端から、これだ。「本書の著者はブスで馬鹿で貧乏である。ただし、鈴木大介の『最貧困女子』(幻冬舎新書、2014年)に描かれているような貧困は知らない。賃金労働をしなければ食べていけないし、大不況や預金封鎖などの社会的経済的大変動があれば、すぐに食い詰めるという意味での貧乏だ」(16頁)。明け透けだ。しかし、わざと露悪的に、自虐的にしている、という雰囲気は薄い。
 これは著者自身のように「馬鹿ブス貧乏で生きるしかない」ような「あなた」に向けて書かれているのだが、見えない傷を抱える複雑な心のうちに寄りそいつつ、口にできない思いを言葉にしてくれる、なんてことはない。むしろ、こんな感じだ。私は馬鹿ブス貧乏だったので、こう願い、こう生きた。こんな失敗や対策があった。あなたも馬鹿ブス貧乏ならこうなりやすい。なので、こうすると、こうなる。それで私はいま、こんな風に生きている、等々。
 著者は自分の姿を(あるいは著者自身が理想とする姿を)読者に理想として提供しようなどとはしない。甘い夢は夢だと言う。でも夢が生きる助けになるともいう。役に立つ知識もあるし習慣もある。使えるものを使おう。そんな塩梅だ。私は本書のところどころで目に入る、無理すんな庶民という書きぶりには、ちょっとだけ抗したい気持ちがあるのだけれど、それも庶民を見下す目線で書かれていないとは、庶民のひとりとして書いているとは、語り口からよく伝わってくる気がする。
 私が2010年ごろ論集『クイア批評』(2005年, 世織書房)を読んで衝撃を受けたもののひとつが、編著者である藤森かよこの序論「リバタリアン・クィア宣言」だった。翻訳本がいまだにひとつもないジョン・デミリオの「資本主義とゲイ・アイデンティティ」を参照しつつ(この論考自体は『現代思想』1997年5月号に翻訳がある)、資本主義が封建制の中で窒息させられていた何者かに自分自身として生きる機会を与えるという側面を最大限に活かす道を探るのだと言わんばかりに映ったその論考は、丸ごと肯けるようなものではないにしろ、鮮烈で、いまだに忘れがたい(なので私は、資本主義のレッテルで何かを批判した気になって済ませるのは、共産主義の語でそうするのと同程度には避けている。でも、この世界は資本主義社会ということになっているはずなので、この世界に怒りを感じるとき資本主義を罵るのは、わかる。あと、現行の社会秩序や市場経済や行政のあり方とか運用に問題があるのであれば、それはいつだって言われてよい)。でも、いまこの本が手元にないから、記憶の中で内容が理想化され美化されているかもしれない。
 それだけではない。銃武装に見られる独立独歩の精神を国粋主義に抗するグローバル市民的精神に架橋しようとする藤森かよこ「「アメリカのフェミニズム」の暴力志向を考える――憲法修正第二条と民兵と脱国家世界の市民像」(2007年)や、どこか小泉義之「性差別についての考え方」(1997年)を連想させる書きぶりの藤森かよ子「ジェンダー・フェミニストはリバータリアンでなければならない」(2010年)を読み、私はたいへん力づけられてきた(でも、白状すると、藤森2010論文で副島隆彦が引用されている箇所を見るたび、ドン引きしてしまったりもするし、いまは分析的フェミニズム、つまり言語分析の観点をしっかり取り入れたフェミニズムの議論が色々充実し始めたので、藤森2010年論文のような議論に留まる必要はないとも思う)。
 しばしば巷では、リバタリアニズムとは福祉やケアのことを考えたくない政治家や政商や経営者やその取り巻きの鼓吹する詭弁に過ぎないといった偏見もあり、実際リバタリアンを標榜しつつ自分が依存する権力者を忖度しての曲学阿世に耽る者らもいないわけではないとも思うのだが、でも、例えば森村進や吉良貴之といった研究者の文章を読めば、この思想がそんなものでしかないという偏見は霧散するだろうとも私は思っている。(2022年12月追記:と思っていたが、正直厳しいかもしれない。)そして、藤森かよこ。アイン・ランドの著作を、このような生き様のなかで受容してきたひともいるのだ。それを私は知っており、伝えねばならないと思ってきた。(2022年12月追記2:それをよいことだ、と言っていいのかは、わからずにいる。)それで書いたのがこれ。もっとうまく書けるようになったら、また挑戦する。

井上夢人『メドゥサ、鏡をごらん』講談社文庫,2002年

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  〈メドゥサを見た〉
(井上夢人『メドゥサ、鏡をごらん』9頁)

 初出は『小説推理』1995年10月-1996年6月。1997年に双葉社より単行本版が、2000年にはノベルス版が刊行。私が幹線道路沿いの大型書店のブックフェアでこれを手に取ったのは2002年以降。私はいま初めて双葉社版の書影を見る。帯にはこう書いてある。「おまえたちみんな死んでしまえ」。それを見て、私が、こう思ったはずだった。「フォントサイズの違う、不安定な文字が浮かんでいる。[……]攻撃的な呪いの言葉が、辛く哀しい――」。しかし「 」内を書いているのは私ではなかった。池波志乃による文庫版巻末の解説。その冒頭を、それと気づかず反復していた(486頁)。なぜだろう。読んでいたはずなのに。いや、読んでいたはずだからこそ、なのだろうか。

 見てしまうと今までみたいにはいられなくなる光景がある。本当に?(黒沢清『スパイの妻』2020の上映中に目撃した、引用された映像。思い出す)

 残留思念に襲われる。襲われたとすら気づけないようなやり方で。ことばに込められた意味はメッセージと呼ぶより残留思念の名がふさわしい。ことばの受け手が意味に襲われるが、それはことばの紡ぎ手に由来しないとされる(例えば、こんな風に受け取られるなんて思いもしなかった、など)。ことばに霊が宿る。ことばは私の脳を使って霊を生産する。万葉集第1巻27番歌。淑人乃良跡吉見而 好常言師芳野吉見与良人四来三(よきひとのよしとよくみてよしといひしよしのよくみよよきひとよくみ)。よき、よし、よく、よし、よしの、よく、よき、よく。よく見て、よく見よ、よく見。「言語遊戯的ではあるが、言語呪術といってよいものであろう」(土佐秀里「文武天皇「御製歌」存疑:文武朝の精神史一斑」『國學院雜誌』2016年4月)。ことばは取り返しのつかない仕方で私の脳を生産に使用する。脳がビキビキして体も震える。動く、いつだか躾けられたとおりに芸をする。人間ごっこする。魂に憑依されるごっこ降霊ごっこするそれは取り返しが取り返しつかないがことばでことことばことばとことことこと私は記憶は、

ご覧くださりありがとうございました。

[了]

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