つぶやきメモ5:ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ(Witold Gombrowicz, 1904-1969)のこと


導入

昔、ヴィトルド・ゴンブローヴィッチを集中して読んでいた時期があった。けっこうハマった書き手だった。

たしか芳川泰久・宇野邦一・堀千晶(編)『ドゥルーズ 千の文学』(2011)で名前を覚えて、そこから読みはじめた。

上は『千の文学』せりか書房の紹介ページ。

こんな感じでドゥルーズの著作にゴンブローヴィッチは登場する。探偵小説の変わり種、みたいなのにドゥルーズの関心があり(あとノワール小説)、そのうちでもよく言及されているのがゴンブローヴィッチだと思う。

個人的にはドゥルーズ「内在ーひとつの生……」で言及のあるレルネット=ホレーニア『両シチリア連隊』とかもアンチ・ミステリらしいので気になっている(が読まずじまいでいる。どっかで読みたい)。

いろいろ自分の昔に書いたものを発掘していたら、ゴンブローヴィッチ紹介のレジュメを見つけたので、多少編集して載せてみる。

①Witold Gombrowicz, 1904-1969 作家紹介

 ポーランドのマウォシツェの地主層の家庭に生まれた。18世紀末にロシアなどによって国土を分割されて以来、1918まで国家としてのポーランドは消滅していた。法律学を修めるが、やがて文学に専心する。
 1933年にはそれまで発表した短編を収めた『成熟途上の記録[Pamiętnik z okresu dojrzewania]』を出版し、様々な評判を得る。1935年に戯曲『王女イヴォナ』を発表。1937年にはそれまでの自作への評判を踏まえつつ書かれた長編『フェルディドゥルケ』を出版する。1939年にブエノスアイレス(アルゼンチン)に渡るが、そこでポーランドにナチス軍が進攻したことを知り、帰国せずにそこで生活を始める。
 やがてボルヘスなどを中心とする既存のアルゼンチン文壇の状況に喧嘩を売る活動を始め、そうした生活で知り合った若手の作家・批評家たちと協力して、1947年に『フェルディドゥルケ』スペイン語訳を出版。1948年には戯曲『結婚』スペイン語版を出版。
 そして、スターリニズムの影響下にあったポーランドには帰国することなく、ロンドンやパリなどの在外ポーランド人系の文芸雑誌に『トランス=アトランティック』(1953年パリ、『結婚』を併録)や『日記』(1953-1969年の日記、全三巻で書籍化)を掲載する。
 1956年のスターリン死亡後にポーランドでも再評価され、1957年には『成熟途上の手記』に新たに短編五作を加えた『バカカイ』がポーランドのクラクフで出版される。1958年にはフランスで『フェルディドゥルケ』フランス語訳が刊行されるなどして注目され始める。
 1960年に長編『ポルノグラフィア』を発表。1963年にはアルゼンチンからヨーロッパへと戻る(ただし、ポーランドには生涯戻らず)。1965年には長編『コスモス』を発表し、この作品が1967年国際文学賞を受賞する。1966年に戯曲『オペレッタ』発表。1969年フランスで死去。

②Witold Gombrowicz, 1904-1969 作品紹介


 ※翻訳この他にもあります
Ⅰ.ヴィトルド・ゴンブローヴィチ『バカカイ』

(工藤幸雄訳、1998、河出書房新社、原著1957)
 *監修者メモで作者の自著解題、解説で三島由紀夫のゴンブローヴィッチ評が引用
Ⅱ.W.ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
(米川和夫訳、2004、平凡社、原著1937[翻訳はワルシャワ版1957が底本])
 *西成彦による近年の資料を踏まえた解説や、島田雅彦のエッセイが付録
Ⅲ.ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『トランス=アトランティック』
(西成彦訳、2004、国書刊行会、原著1953[翻訳はワルシャワ版1957が底本])
 *『日記/1953-1956』の抄訳、アルゼンチンの批評家のゴンブローヴィッチ論など所収
Ⅳ.ゴンブロヴィッチ『ポルノグラフィア』
(工藤幸雄訳、1975、河出書房新社、原著1960)
 *訳者あとがきにゴンブローヴィッチの略歴と詳細な作品リストあり
Ⅴ.ヴィトルド・ゴンブロヴィッチ「コスモス」
(『東欧の文学 コスモス 他』所収、工藤幸雄訳、1967、恒文社、原著1965)
 *ポーランド文学論やシュルツの作品を併録

Ⅰ.『バカカイ』
(「これらの小説について書き方が素直でないという意見にはぼくも賛成」)
 ゴンブローヴィッチが1926-1946に発表した12の短編を収録(殆んどが1920-1930年台後半のもの)。邦訳では1935年に発表され『フェルディドゥルケ』に組み込まれた2つの短編がカットされている。判事見習いが訪問した地主一家の主人の死が「計画犯罪」だと推理して解決するために態度が不自然だった家族を恫喝し、主人の息子に死体の首を絞めさせる「計画犯罪」や、賄賂に買収される国王の威厳を保つために、閣僚一同が国王の行動を(舌なめずりから殺人まで)儀礼の一環として全て真似する「大宴会」など、「形式」を遵守するあまり「形式」の内実が法外な(堕落した)ものになる物語が多い。
Ⅱ.『フェルディドゥルケ』
(「主要な大本の苦痛というのは[……]悪しき形式の苦痛」)
 全14章。『成熟途上の記録』への悪評にもめげず自作を書こうとしていた30歳の作家ヴィトルドは、文学博士で学校教師のおじさんピンコによって、子どもらしい「おちり」を育てている高校へと入学させられてしまう。高校での「青少年VS若いもん」の争いや下宿先の一家での「進歩的VS伝統的」な恋愛沙汰などの狂奔的な有様を尻目に脱走したヴィトルドは作男に憧れる学生ミェントゥスとともに、田舎の領主であるコンスタンティおじさんの家に向かう。今度は「領主VS作男」の狂乱が勃発するなか「駆け落ち」の真似をしつつ脱走する。2つの短編や自作の意図の解説などの挿入などを含む、カーニバル的な作品。
Ⅲ.『トランス=アトランティック』
(「アルゼンチン[……]思えば冒険の連続だった」)
 アルゼンチンで生活することを決意したポーランド人作家ヴィトルドは、同地で在外ポーランド人の変人三人衆の経営する会社に勤め始めるが、公使館に担ぎあげられアルゼンチン文壇に殴り込みをかけ、失敗。そこでポルトガル系の富豪で若い少年と売買春しようとするおかま(プート)のゴンサーロと知り合う。ヴィトルドはゴンサーロが尻を狙う少年の父親とゴンサーロとの決闘騒ぎや、ゴンサーロの画策するその父親をその少年に殺させる「バカボコの術」の陰謀や、会社の老会計が興した「拍車騎士団」の陰謀に次々巻き込まれるが、最後にはポーランドの伝統行事の祝祭的な爆笑の中で全て有耶無耶になる。
Ⅳ.『ポルノグラフィア』
(「別の我が冒険を物語ろう、[……]最もみじめなもののひとつ」)
 二部構成。第二次大戦下(1943年)のポーランドで起きた殺人事件の顛末が描かれる。わざとらしい礼義上の動きを繰り返す男フリデリクと意気投合した「私」は旧知の地主ヒポリトの下へと二人で向かい、そこで(若い)(少年)カロルを発見する。ヒポリトの娘ヘニアとその幼馴染みカロルの間に(少年と少女)の結合という一つの完璧を見出したフリデリクと「私」はヘニアを許嫁ヴァツワフの下からカロルの下へ寝盗らせようと画策する。折しもヒポリトの母アメリアが少年スクジャクに殺される事件やポーランドの地下抵抗組織との関わりで生じた騒動が重なるなか、「完璧な結合」のために複数の殺人が行われる。
Ⅴ.『コスモス』
(「一段と風変わりな別の物語……」/「一種の探偵小説の試み」)
 全9章。ヴィトルドは知人フクスとともにヴォイティス家に下宿する。首を縊られたスズメ、口の端が裂けて唇の捲れた女中カタシアなどを眼にしたヴィトルドとフクスは、一家の一人娘レナの言葉をきっかけに、様々な些細なものが何かの「しるし」なのではないかと推理し始めて、犯人を探す。その「捜査」の過程で、レナに欲情していたヴィトルドが、彼女とその夫ルドヴィグの部屋を盗み見て、一家の猫を殺して吊るしてしまう。ヴィトルドは唇や首吊りなどのモノたちを一つの秩序の下に結び付けようと必死になる。それとともに、一家の主人レオンの謎めいた「ベルグ」という語の意味が明らかになっていく。

③ゴンブローヴィッチの「読みどころ」

語りのスタイルと人称の目まぐるしい転変(日本語訳者の巧みさ?)

・「――出し抜けにぼくは思った。――「全くばかげている。どうしてこうなったのか。何をおれは演じているのだ。おれのこのわざとらしさ、この気取りは[……]」(Ⅰ.p.55)
・「は口ごもった。わが輩の羊のような目つきは[……]」(Ⅰ.p.105)
・「「また何の精神だね?」/おれは叫んだ。/「ぼくのです!」」(Ⅱ.p.36)
・「連中は金をおしつけあっているが、ほんとうはオレによこしたくてしかたがない。小生の好意を金で買いたいだけなのだ[……]そこで、小生は[……]」(Ⅲ.p.69)
・「ぼくの腹立ちは、あのときに比べても決して劣らなかった……あの怒りがぼくを猫に向かわせたのだ……(そうだ、ぼくはいまになってはっきりと確信した、ぼくがあのとき猫を襲ったのは湯わかしのせいであると[……]……だが、そうなるとこの坊主、用心するがいい、分かったものじゃないぞ、きさまにおれが何かをぶつけないとも[……]」(Ⅴ.p.275)
 ※一人称の使い分けは日訳者の妙だと思われるが、自意識が過剰になってぐっちゃぐちゃになっている文体の物語だとは感じる。


幼児語・擬音語・擬声語・吃音・無意味

 おいで、おいで、シッ、シッ、シロ、来い、ユージョ、ユジューニョ、ユジューチェック、小っちゃい、ちいっちゃい、シッ、シッ、しりっぺたの青いお尻、おちり、お……
(Ⅱ.p.41)

 ぴょんぴょん、タタタタンにまぎれて、バカッ、ボコ。バカバカやってるホラーシオにひきずられて、イグナツが大爆発、バカ、バカ、バカッ! ホラーシオがランプをバカッといくと、イグナツはランプをボコッ。と思うと、こんどはホラーシオが花瓶にバカボコ、イグナツも花瓶にボコッ! そしてトマシュめがけてホラーシオがバカッ!
  おっとトマシュが転倒!……
(Ⅲ.p.186)

 妻と、子と、婿と、司祭と、ルロ、トーロ両夫妻、みんながわしの官能への巡礼の仲間入りをする、ベルグ ベルグム 楽しんベルグへ、それで、わしは今夜、真夜中に、連中をあの岩のそばにベンベルグするのさ、昔、その女とベルグ ベルグベルグム ベルグのあった場所に! みんなに参列してもらうぞ! 巡礼礼ベルグ官能ベルグ、は、は、やつらは知らぬが仏! あんただけが知っている。
(Ⅴ.p.302)
 ※これもある程度は日訳者の妙だと思われるが、言葉が走りすぎて壊れていく妖しい雰囲気はゴンブローヴィッチ小説のそこら中か漂ってくる。

カップリング(形式への執着)

「あのナイフはS(シェミャン)―S(スクジャク)という関係を構成する。/したがって(SS)―W。この仲介がA、アメリアの殺人。/しかるにW―(K.H)ゆえに(K.H)―(SS)。/何たる化学式です! すべてが結合する!」(Ⅳ.p.161)

「こうして『木切れ=スズメ=猫=唇=手等々体制』」(Ⅴ.p.266)

「そしてこのぶらさがっている残酷性は、どきん、どきん、どきん、どきん、うまく調和して、どきん、どきん、どきん、どきん、スズメ=木切れ=猫と結びついた、それはa、b、c、d、そして一、二、三、四と同じことだった! なんたる調和!」(Ⅴ.p.329)
 ※ドゥルーズが著作で「カモスモス」の例に出すのに合点がいく。

自分のゴンブローヴィチ理解はこんな感じでした。実際にどんな小説をどう読んだのかは、また機会があれば。

(了)

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