笑えないところで笑う――向坂達矢『FINAL FUNTASY 僕と犬と厭離穢土』(第一稿)

*本稿で扱う向坂達矢『FINAL FUNTASY 僕と犬と厭離穢土』については、以下のページも参照。同ページで頒布のPDFファイルで戯曲が読める。

1.笑えるために

劇的な出来事、例えば、笑いどころや泣きどころを考える。20世紀後半のアメリカの哲学者はこんな小噺を書きつけていた。「人生を耐えがたいものだと思っている男が、30階建てのビルから飛び降りたとしよう。落下する途中で、パラシュートをつけた別の男の側を通り過ぎる。「意気地なし」と先の男はつぶやく」(*1)。これは泣けるし笑える。笑い泣きにも至りうる。出来事の切り取りであるが、たとえ話にもなっている。劇評そして戯曲評は概ねこのようなものとして書かれるだろう。この文章は、向坂達矢『FINAL FUNTASY 僕と犬と厭離穢土』(以下『FF』)の論評ないし批評になることを試みている。『FF』の引用は2020年サハ発行版に拠る。

戯曲『FF』には様々な出来事が切り取られてある。詰め込み具合は雑多にも映る。リアルな回想と非現実な幻想とが混濁してある。記録と思弁、歴史と理論とが混在してある。しかし中核的な出来事が実在の劇団、京都ロマンポップの解散劇であって、主要キャラクターが実在の演劇人、向坂達矢なのは確かだ。『FF』の冒頭には「以下、十一人の俳優によって上演されます」(p.1)と11の俳優名=役名が並んでいるが、「向坂達矢」の名はその1番目に見つかる。そして『FF』の話は、6番目の俳優「斉藤ひかり」の、次の台詞で始まる。「こんにちは! 斉藤ひかりです。前回までのあらまし! 2005年秋くらい! 向坂達矢は京都の三流私立大学で劇団を立ち上げました! 京都ロマンポップの誕生です![……]2015年、劇団結成10周年! ついに解散公演シリーズを始めました。京都ロマンポップの最後の旅が始まったのでした! どうなる! どうする! 解散できるのか! するのか! したいのか! したくないのか! あしたはどっちだ!」(p.2)。要はこれは劇で劇を考える劇である。

劇に劇を持ち込んで劇を考えるだけではない。作家・演出家が劇のなかに入り込んでいる『FF』は、上演の内部と外部を定めるはずの領域を上演へ巻き込みもする。合田団地による次の台詞はその端的な例になっている。「宇野愛生です。ダンサーです。上演の途中ですが、皆さんにいくつかお願いがあります。観劇中のマナーのお願いです。[……]念のため、もう一度申し上げますと、劇中のことは全部嘘ですから信じないでください、許してくださいというお願いです。私が今喋りました台詞も全部嘘です。大嘘でございます。私、宇野愛生ではございません。/それでは。俳優の紹介をさせていただきます[……]」(p.39)。通例であれば何気なく流れていくはずのところに躓きが設けられ、ひとは驚きに誘われる。異化作用と口にしたくなる。劇という営為への内省だ、とも。批評と呼んでもいいかもしれない。

試みに、先ほどの台詞から取り出しうる躓きと驚きをいくつか挙げる。(1)合田団地がまず「宇野愛生」と名乗り、後から自分は「宇野愛生」ではないと訂正する。現代日本では役名と演者の名前が異なるのは自然で当たり前なことだと思われがちだ。しかし斉藤ひかりが「斉藤ひかり」と名乗ることから始まるこの劇では話が違ってくる。(2)「上演の途中」で挟まれる「観劇中のマナーのお願い」は「劇中のことは全部嘘」とするのみならず「私が今喋りました台詞も全部嘘」と続いてしまう。何を劇や演技と捉えるのか、普段は意識せず切り替える場合が多いであろう己の姿勢や意識をひとは自覚させられる。(3)合田が呼びかける「皆さん」に己が該当するか否かは、それを上演内での台詞と上演外でのアナウンスのいずれと捉えるかで答えが変わる。外野から舞台を観ている気でいても観客は上演へと常に既に巻き込まれており、観られずに観ているつもりで否応なく観させられてもいたのだと、ひとは気づかされる……。列挙は一旦ここで止める。躓きの仕掛けの検討や驚き具合の吟味は、この戯曲の随所で例えばこんな風に遂行できる。

ただし、そこに異化作用があるとして、それで何がしたい劇なのか、問い質されることにもなろう。『FF』について言えば、例えば、山下ダニエル役の演ずる高田会計が、肥後橋輝彦役の演ずる向坂に浴びせる次のような激励の叫びから、容易に連想されるテーマがある。「俺たちは面白いんだ! 滑ってたって、切腹が被って滑っても俺たちは面白い。俺たちが一番ふざけてるじゃねえか! 馬鹿野郎が! 俺は向坂が好きだ! ダニエルが好きだ! 肥後橋が好きだ! 高田が好きだ! 辞めてったあいつらのことも大好きだ! ずっと大好きだ!」(p.46)。すなわち、笑いと涙、面白さと感動だ。そうすると『FF』は喜劇なのだろうか。だが「俺たちは面白い」という言葉で周囲は面白くなるものだろうか。例えば、唐突に何かを感動的だと形容したからといって、それに感動できるようになるわけではない。面白味もこれと同様だろう。けれどこれも織り込み済みかもしれない。世評との乖離を意識しつつ内輪で吐露される叫びには悲愴感があるとのお涙頂戴の定番。そしてまた部外者目線では内輪向けのお涙頂戴が滑稽にも映るというお笑い草の定番。こうした〈お約束〉すらハナから踏まえられていたのだとすれば、どうか。これが笑える戯曲だとして、それはこれが笑える笑いの笑えなさを笑っており、その笑いようが笑えてくるほどに笑えないがゆえだ、と解してみたい。

*1)『西洋思想大事典』第1巻「228 喜劇の感覚 (Sense of the Comic)」の項(Edward G. Ballard執筆・上野美子訳)1990年、平凡社、p.531。

2.笑いごとと笑いもの

向坂達矢が構成・演出した『UrBANGUILDを上演する』(2020年)への劇評で、筒井潤はこう述べていた。「向坂は死に体の小劇場演劇に運動性を取り戻させてその復活を図ろうとした。そしてそれが再び無慚に滅びる行為でしかないことも自覚していた。[……]鑑賞者は小劇場演劇に感染したかもしれないし、小劇場演劇が叩きつぶされるのを嘲笑っていたかもしれない。彼の比類なき才能はこの条件によって証明されるものであるがゆえに、私はいつも胸が締めつけられる思いがするのである」(*2)。滑稽と悲愴との絡み合いが語られる。まるでセルバンテス作品に寄せられた言辞のようだ。小劇場演劇という騎士道物語、そして向坂達矢というドン・キホーテ。悲劇か喜劇かの判断は回転する板の裏表のごとく切り替え可能なのではないか。笑い者を英雄視すること、それは逆張りであって、裏面には褒め殺しが位置する。これはロマン的イロニーにあたるだろう。この圏域はよく、自意識と呼ばれる。

京都ロマンポップの上演する京都ロマンポップの解散劇が『FF』であり、だから劇と劇団と劇団員とは何かを語る台詞がそこで紡がれていくのも不可解ではない。特に終盤に挿入されるHIROHUMI(山崎)役の台詞は、一個人(例えば向坂)から離れた、演劇人一般の自意識の構造を述べている。「みなさん、ヒロフミです。(パキューン×2)私は異常者です。私たち演劇をしているものは総じて自己顕示欲や承認欲求が(パキューン×2)異常です。そのため自意識は異常です。劇団とは異常者の集いのことを指すのです。異常者が歴史に名を残すためには凶悪犯罪しかありません。[……](パキューン)私は異常者はヒロフミです。私たちはヒロフミです。演劇をしている者は総じて(パキューン)ヒロフミです。自己顕示欲や承認欲求が異常です。[……](パキューン×2)劇団とは異常者の集いのことを指すのです。そうです、私が変なヒロフミですか?[……](パキューン)異常者が、ヒロフミが歴史に名を残すには凶悪犯罪しかありません。(パキューン×2)あなた、ヒロフミじゃないですか」(p.57)。どこか順列組合せ風でもある執拗な反復を伴って山崎が述べるのは意識の「異常」なモードであり、ヒロフミ自身の例示が飛躍して演劇人一般の規定とされたあと、そのまま敷衍され「あなた、ヒロフミじゃないですか」という呼びかけにすら至っている。劇の外部が上演に巻き込まれている『FF』において、読み手ないし観客をこの「あなた」という宛先から無縁だと解すのは難しい。己が「異常」かどうか「異常」に気にするのに「異常」にこだわってしまって……と続くような内省の進行。蟻地獄の流砂めくそのイメージを逆転させて、メタメタしいと形容するのが適当だろうか。ともあれ、舞台でなされるのが演技だと意識するような劇なるもの一般の構造は、この劇に限らず、自意識過剰なるこのメタメタしい境地を伝えるためのメタファーとして頻繁に用いられている。つまり劇の上演と自意識の展開の相同性が『FF』では提示されているのだ。ひとまずは、そう言える。『FF』で水際立つ出口なしの笑いは、この自意識の上にある。

褒め殺しと逆張り。両者とも、笑いを取ろうとするとき、よく頼みとされる手法だ。一段目のメタである。喜劇にメタが割り当てられる一方、悲劇はベタだとされる(*)。そうされがちな理由はいくつか見つかる。例えば、どんな事態でも、それを運命として受け止めるのはベタな姿勢と映るところがある。また、ベンヤミンはこう述べていた。「【滑稽な〔喜劇的な〕:コミーシュ】人物は理屈屋である。反省を重ねるうちに、自分自身のマリオネットになってしまうのだ。【近世以降の悲劇:トラウアーシュピール】がその頂点に達するのは、これが近代悲劇だ、というような模範的作品においてではなく、諸作品のなかの、さまざまな遊戯的な移行形態でもって近代喜劇の響きを感じさせている、そういった箇所においてなのである」(*4)。悲劇的要素の縮約表現は喜劇的に映る。要はそれが〈お涙頂戴〉の仕掛けだ、という指摘が痛快になるのもそんなわけだ。対象のうちに型を見出し、元の文脈から切り離して形にするのは、要約の定石のみならず、物真似や戯画化の初歩でもあろう(それが対象の最も有意義なポイントを捉えられているか否かはいつでも議論になるとはいえ)。要約する。物事をメタに見るとき笑えてくることがあり、斜に構えて笑うときメタ目線に近づいている。こんな一般論になる。

だが、何に対しても斜に構え、メタを重ねながら笑っていくとき、どこかで息苦しくなるのではないか。なにかうまくいかなくなるところがあるのではないか。これでは〈お笑い草〉だ、と本当にただ面白がりながら口にされることは稀だ。たいていどこか、いじけた思いがこびりつき、白けた気分が漂っている。それだけではない。『FF』冒頭の挿話が想起される。ひとが去りつつある劇団には、(霊感があるひとの話だと)「何かよくないもの」が取り憑いているらしい。そのせいで自分の生活も不調らしいから、と劇団を辞めるか検討している劇団員に対して向坂は次のような言動を重ねる。「いいやん。入団させてやろうや。おもろいやん、人間じゃない劇団員がいる劇団て」(p.4)。「じゃあ、お祓いとか行ってみる? 晴明神社とか伏見稲荷とか行ってホームページにあげようか」(p.5)。去り行く劇団員はこう返す。「向坂さんのそういうところが良くないんじゃないですか?」(p.5)。何かを面白がろうとする姿勢と何かを笑い事ではないとする姿勢との衝突が起こるとき、場は荒れるし、笑えない。もちろん、こうして戯曲化されたことで、これもまた笑いをとろうとする自己諷刺の様相を呈してしまうのだが。こうして、笑うに笑えないはずなのだけれど笑いを取りに行っていることになってしまう。自縄自縛だ。

*2)筒井潤「劇評2 人間座スタジオ配信舞台祭『UrBANGUILDを上演する』(構成・演出:向坂達矢)」『地域上演』第1号、2020年、サハ、p.5。
*3)メタ、ネタ、ベタに関しては以下の用法を参照。「これもまた「ネット」から生まれてきたものですが、東浩紀や宮台真司もよく使う、「メタ」と「ネタ」と「ベタ」という言葉があります。「メタ」とは「外側」から語ること、「ネタ」とは自分自身も信じていないことを語って(振って)みせること、「ベタ」とは「メタ」も「ネタ」も欠いた単なる「素」で語ること、です。「批評=思想」とは本来「メタ」なものです。しかしそこに「パフォーマンス」が入り込んでくると「ネタ」という要素が出てくる。「メタ」のインフレーションが「ネタ」を誘発したのが、「敢て」の「アイロニー」です。/だが、おそらく東浩紀という「思想」家の行動原理は、「メタ」のふりをした「ネタ」のふりをした「ベタ」です。そう、彼は実のところ、そもそもの最初から現在にいたるまで、ずっと「【真摯:ベタ】=【本気:マジ】」なのだと思います」(佐々木敦『ニッポンの思想』2009年、講談社現代新書、pp.337-338)。「「敢て」の「アイロニー」」と呼ばれているものは概ねロマン的イロニーに相当するだろう。
(*)ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』上巻、浅井健次郎訳、1999年、ちくま学芸文庫、pp.276-277。

3.道化になっても

メタメタしい袋小路、もう笑うに笑えない行き詰まり、固まり切った引きつり笑いからどう脱するのか。これは実はポストモダン思想が立てていた問いでもある。浅田彰『構造と力』にはこうある。「近代人、この不幸な道化は、身にしみついたイロニーを払拭することによって、本当の道化にふさわしいユーモラスな笑いをとりもどさなければならないのである」(p.229)。どういうことか。浅田は近代性の基本的な運動をメタに立とうとしてはオブジェクト(ベタ)に差し戻される急き立てだと解する。例えば「ボクだってパパに追いつき追いこすことができるし、考えてみれば、いずれは自分もパパになる」(p.219)という具合になる。ひとは「本当の道化」になりこの追いつけ追いこせの呪縛を笑い飛ばすべきだと浅田は言う。

この道化なる形象は両価的だ。ゲーデルを参照する柄谷行人や道化を論ずる山口昌男などを取り上げた三浦雅士の著作を参照しながら(*5)、浅田は道化に着目する。一方で、いまや「誰もが不幸な軽業師となっている、つまり【道化であるという苦役を課されている:傍点】」(『構造と力』p.222)とも言える。追いつけ追いこせ風の「一方向化された記号の流動こそが近代の悪夢なのであり、道化たちは今日もまたこの悪夢にせきたてられて走り続けるのである」(p.222)からだ。だからといって、いまさら前近代に立ち戻ることもできない。そこでの「遊戯は、秩序の安全弁として機能するための、あるいはせいぜい秩序を再活性化するための、「スプーン一杯の混沌」」(pp.225-226)に過ぎなかったからだ。もちろん浅田の語り自体が道化などを図式的に整理している以上、話は自己諷刺性を帯びてもいる。「中心と周縁や道化と祝祭の理論の如きものすら口あたりよく角を落とされて回路にとり込まれてしまう」(p.223)という現状も浅田は認める。しかし、それでもなお、本当の道化、つまり「人間がメタ・レベルとオブジェクト・レベルの両方に足をかけているという事実をやすやすと受けいれ、それを生きる存在」(p.221)を体現した道化の姿を、浅田は様々な例を挙げて素描しようとする。

袋小路とその脱出の必要を明確化した上で、導きの糸として浅田が参照するのは、とりわけ、ドゥルーズ=ガタリの言葉である。「彼らは明快に断言する。「【真に遊戯するためには外へ出なければならない:傍点】。[……]問題は、【まだ十分によく外へ出てはいない:傍点】という点にある。外へ出よ。さらに外へ出よ。これこそが彼らの誘惑の言葉である」(『構造と力』p.226)。イロニーを脱しユーモアに至る真の道化、真の遊戯の探究だ。さらなる外へ。ここには加速主義的な響きもある。実は異化作用を打ち出したブレヒトの演劇にもこうした志向は見出される。ブレヒトはアルチュセールにこう評されている。「彼は観客と芝居のあいだに距離をおこうとし、ただし観客が芝居から逃げたり、単に芝居を面白がったりすることができないような状況に、観客をおこうとしたのである。要するに彼は観客を、おわっていない芝居をおわらせる、ただし現実生活のなかでおわらせる俳優にしたてたかったのだ」(*6)。現実を劇の上演のように捉えさせるだけでは、意識の上でベタからメタに立とうとする無限後退が起こる。ベンヤミンはそれをロマン的イロニーと呼び批判している(*7)。そうではなく、異化を伴うブレヒトの叙事的演劇は、演劇上演を現実の一環として捉えるように促していたのだという。メタとベタの両方に足をかけているような自身のリアルを、演劇で、ひとに意識させたかったわけだ。悪しき無限後退の、ロマン的イロニーの喜劇的様相を脱するような、加速のある笑い。そうしたものとしてのユーモアが模索されるゆえんだ。

しかし「道化であるという苦役」を問題視するならば、新たな解放に向かう真の笑いの模索だけではなく、笑いの解放性それ自体の批判にも至らねばなるまい。笑いが要請、強制される瞬間をひとは容易に思い描くことができる。例えば『FF』では、コンビニの店長がバイトに向けて、こう声をかけている。「それと、笑顔な、それとちょっと声が小さいな。元気出して行こうか。それも紙に書いてあるから帰る前に一旦読んどいてくれるか?」(p.24)。解放となるはずの笑いも、解放の益を目的に据えれば労働と化す。『FF』では「コンビニは最悪です。すべてお金に取り憑かれています」(p.18)としながら幾度も、とあるコンビニを舞台にした挿話が語られる(pp.17-18, 21-25, 29-33, 44-45)。そこで見られるナンセンスな言動、ピタゴラスイッチめいた展開は笑えるものだが、それはちょうどそのようにして笑えてしまう資本主義社会の縮図なのだ。「この機械は、狂気に陥る危険を冒しているのではない。それは隅々まで、始めから狂気なのである。マルクスのブラック・ユーモア、『資本論』の源泉とは、彼がこうした機械に熱中したことである。この機械は、どんなふうに組み立てられたのか。[……]それはどのように作動するのか。[……]いかに自滅する危険を避け、むしろ私たちを死なせるのか」(*8)。コンビニ経営の様相が、劇団運営のそれとダブって映る。ただし、たんに一方が他方に似ているという話ではない。実際、コンビニでのバイトは劇団の興行を経済的に支えているのであり、コンビニバイトの担い手はこうした劇団から供給されている。両者ともに資本主義社会に同じく組み込まれている。両者は通じ合っているのだ。

こうしてひとは、個々の命運はともかく、総体としては興行し続けているような小劇場演劇なる機械(フランス語のmachineには行政機構の意味の〈機構〉というニュアンスもある)の調査に、そしてそれに組み込まれて作動する人々ほか諸々の調査に熱中する、ブラック・ユーモアの記述として『FF』を捉えることもできるようになる。例えば『FF』終盤で劇団のメタファーとなった斉藤の台詞はこうだ。「私はあなたたちの居場所になって、夢を与えて、あなたたちを食った。血を啜って、骨と皮だけにして、食い散らかして、みんな斉藤ロマンポップ辞めていった。何でかわかる? 劇団てね、感動ポルノなんよ。たいして才能ない奴らが人生投げ捨てて、漠然とした夢追って頑張るのを見せるのが劇団なんよ。せやから私、デブになったよ! 横綱になったよ。西の。あなたたちの望んだ通りに。お嫁にいけないよ!」(p.52)。とはいえ、読み進めれば、この後には劇団によって友達ができた感謝が続き、しかし劇団の解散を完遂する理由が述べられ、ルサンチマンを生まない決意が述べられる。劇団のメタファーはこんな風にも言う。「想像してみて! 19歳くらいで禿げた少年の気持ち。彼は呪ったよ世界を。そういう風に向坂もなるよ!! でもね、みっともない! それはみっともないんだよ!」(p.54)。応答となる台詞の結びは、こうだ。「俺は! 誇りを持って生きたい!」(p.54)。感動的だ。もちろん、これもまた感動ポルノの一環だとの冷めた眼線がここにもまた伴っているはずなのだが。

*5)三浦雅士『幻のもうひとり――現代芸術ノート』(1982年、冬樹社→1991年、冬樹社ライブラリー)。浅田彰『構造と力――記号論を超えて』1983年、勁草書房、pp.220-222参照。
*6)ルイ・アルチュセール「「ピッコロ」、ベルトラッチーとブレヒト――唯物論的な演劇に関する覚書」、『マルクスのために』河野健二・田村俶・西川長夫訳、1994年、平凡社ライブラリー、p.253。
*7)「ロマンティック・アイロニーは教育目的をもたない。それはせいぜい、作者が哲学につうじていることを、広告するものでしかない。この種の作者は、戯曲を書きながら、世界だって所詮は劇場じゃないか、などと思っているのだ」(ヴァルター・ベンヤミン「叙事的演劇とは何か」野村修訳、『ブレヒト――ヴァルター・ベンヤミン著作集9』石黒英男編集解説、1971年、晶文社、p.18。
*8)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』下巻、宇野邦一訳、2006年、河出文庫、p.292。

4.何でもアリであれ

一般に言って、悲劇は異論を許さず(一党独裁)、喜劇は交流を生む(多元主義)。おそらく従来、このように捉えられがちだったと思われる。異化(ブレヒト)、祝祭(バフチン)、そして道化の意義なり効用なりも、長らく、そのようなものだと解されてきたはずだ。しかしながら、もはや、いまではそんな風にして話を進めてよいのかわからない。いや、疑わしい。

高間響が作・演出した『マクラ DE リア王』(2021年)の劇評(*9)のなかで、向坂はこう述べている。「高間の演出する演劇に僕は出演したことがある。”あの頃”だ。/みんな好き勝手やって高間の書いたセリフを言わず、言われた演技もしない。喧嘩もしたし、罵り合ったりもした。みんな高間の友達だったからだ。高間は面白い演技は全部取り込んだし、面白いアドリブならむしろ推奨していた。みんな自分が一番面白いやつになりたかった。それを煽って煽って作品を作っていた高間は、三浦基よりも現代演劇の演出家だったのかもしれない。/そんなことを思って、ふと寂しくなった。京都に独り残してしまってごめん」。自分と高間は「面白い」至上主義なのだと向坂は述べ、演劇とりわけ小劇場演劇には、通例の生活ならば妨げにしかならない振る舞いを「面白い」と肯定的に価値づけるところがあったと捉えている。しかし現状はもはやそうではない、と向坂は考える。「風通しが良くなった。どこに? ”世間”に”社会”に。アンダーグラウンドの小劇場演劇に光が差し、どこからも見えるようになった。そして小劇場は死んだ」。そんなわけで「ダメな僕だけど愛してくれる奴がいる」という作風だったはずの高間は「生まれつきダメだけど許して」と提示する劇を上演し、「これじゃあ笑えないよ」と向坂は劇評でこぼすことになる。「ダメ」をよしとする価値転倒の契機が失われてしまったのだ。

むろん、先ほどの「ごめん」が印象づけるように、この劇評で向坂は高間に対して同情的である。「「面白い」がお笑いの専売特許になって、演劇からはどんどん「面白い」は後退していって、[……]強者(面白いという意味で)だったものが弱者にされていく世界で、高間はそれでもどうにか「面白く」ありたいと思っているのではないか」。ただし、向坂の劇評にはナイーブな反リベラル、紋切り型の〈バラモン左翼〉叩きだと聞き取られうる箇所がある(*10)。例えば、以下の箇所などがとりわけそうだ。「しかし、世界がリベラル化した時、「面白い」至上主義者は「面白くない」者を糾弾していいのか? 多様性を認める社会が到来しつつある時、僕たちの「面白い」すらも正義ではなくなってしまったのではないか。せいぜい、僕らの「面白い」を許してやってくださいと言うことしか出来ない」。こうした言葉は、ある種のノスタルジーと解されてしまう余地がある。つまり、アングラな場に日陰者が集まって世間に毒づいて逆張りしていればよかった昔が懐かしい、といった感情の発露だと処理されかねない危険がある。『FF』では「どいつもこいつも他のジャンルに憧れて、振るい落とされたクズしかいない。それが演劇だ!」(p.51)と述べられてあった。懐古的な心情への同一化は容易に助長される。向坂の指摘が含む批判性を明快にするためにも、ここでは「リベラル」のいう多様性の(表面上の?)何でもアリ感に向けられた白けた視線を、面白至上主義的な笑いの何でもアリ感にも、差し戻して向けていく必要がある。

つまらない現実への隷従を批判した思想家の代表格はニーチェであろう。ドゥルーズ『ニーチェと哲学』(江川隆男訳)はこうまとめる。「あるがままの現実、それは驢馬の観念である。驢馬は、ひとから負わされた、また自ら引き受けた荷物の重さを現実の積極性として感じる。[……]別の世界の古いすべての価値は、今や彼にとってはこの正解を導く諸力として、彼自身の諸力として現われる。[……]彼は現実を引き受けることによって自分自身を引き受け、自己自身を引き受けることによって現実を引き受ける。責任という驚くべき趣味、これが大急ぎでやってくる道徳のすべてである。しかし、この結末において現実とその受諾はもとのまま、つまり偽りの積極性と偽りの肯定のままである」(pp.350-351)。つまり驢馬的なスタイルは、自己責任で現状肯定したことにして、押し付けられただけの自身のありかたを自分らしいありかたに仕立てあげるわけだ。既知の諸価値の破壊、いわば驢馬を殺害するところから、真の肯定が、創造が始まるはずだ。

何でも受け入れて引き取る驢馬や駱駝に替わり、ニーチェはNoと言える獅子を打ち出す。ドゥルーズはこう述べる。「獅子とはまさに創造的で肯定的になった「聖なる〈否〉」、肯定が言うことのできるこの〈否〉であり、ここではすべての否定的なものは力能と質に転換され、価値変質される」(『ニーチェと哲学』p.369)。向坂による高間宛の劇評で言えば、以下が驢馬と獅子に対応するだろう。「良識のある人間なら様々な文化的背景によって変化する極めて主体的な問題だから「面白い」「面白くない」には大きな意味がないだろうみたいなポストモダンみたいなことを言う。ではそのポストモダンっぽい人に「あなた面白くない」といえばきっと不愉快な顔をするだろうし、「面白い」ってなんなんだ」。ここでは「ポストモダン」が文化相対主義的で偽りの肯定をする役にされている。振り返れば、何であっても「口あたりよく角を落とされて回路に取り込まれてしまう」仕組みには浅田彰『構造と力』でも警戒が寄せられていた。いわば〈帝国主義〉に対する警戒だ。萌え、燃え、カワイイ、エモなどにおける同様の何でもアリ感とそれへの警戒も想起されよう。また現在ではウォーク・キャピタリズムの潮流も連想されるかもしれない(*11)。だが、もちろん、笑いにおける何でもアリもやはり、こうした偽りの肯定の役に仕立て上げることができる。

バラエティショーは様々な形式の折衷だ。またバラエティの字義通り、世界の様々な出来事をネタにもする。なるほど一方でそれは、取り上げる形式や出来事を文脈から解放しうる。真面目の名のもとに固められ日常へと埋め込まれている出来事を切り抜いて引用できる。形式を通例の役割から解放して捉えうる。しかしそうした引用と解放はあくまで、ショーをうまく沸かせると見込まれうる限りでなされる。笑いの帝国主義だ。さながら「世界的資本主義の計り知れない相対的脱【領土:テリトリー】化は、近代的な民族国家のうえでおのれを再【領土:テリトリー】化する必要がある」(ドゥルーズ+ガタリ『哲学とは何か』財津理訳、p.169)がごとくに、面白至上主義的な何でもアリという脱領土化にも、ウケにつながる限りでという縛り、再領土化が働いているのだ。『FF』はバラエティショー的である。そこに描かれる京都ロマンポップや向坂も、それ自体、面白ければ何でもアリ的な姿勢に映る。つまり面白至上主義だ。「サブイとかサブクないとか交際相手の女性に対して思ってはいけないと、あれほど両親に友人に言われたのですが、おもろいやろ出しを、するから!」(『FF』p.16)。しかし同時にそんな自らをも権威とともに戯画化し、笑いのめしてしまいもするのが『FF』でもあった。「歴史にあわよくば名前残ったと、そう仮定して名前残るのは向坂と愉快な仲間たちになっちゃうやん、野田地図って野田と地図やん! 地図扱いかよ! 仲間。いや、それはちゃうやん! 八方塞がりやん! 寒いし、そもそも有名にもならんし、友達できちゃうし、友達大事だし、友達大事とかいうのは地獄寒いし、しかしまた友達食い物にしてるし、もう、戻りたくない。生きたくないよ。生きるのキッツイわ。俺!あいつらの顔見れねえよ」(pp.47-48)。「お分かり頂けただろうか」(p.5)。『FF』には毒舌家の自己諷刺によるブラック・ユーモアがあるのだ。……しかし、ここまでは概ね、自己批判の重なりを捉えてきただけではないか。もっぱら、自意識の開陳を辿るにとどまっていたのではないか。さらに加速して、無限後退から脱するようなユーモアに、焦点を合わせねばならない。

*9)向坂達矢「無題[笑の内閣『マクラDEリア王」劇評]」。高間響facebookアカウント2021年8月13日投稿内の画像を参照。https://www.facebook.com/hibiki.takama/posts/4294296803996744
*10)バラモン左翼という表現はトマ・ピケティ「Brahmin Left vs Merchant Right: Rising Inequality & the Changing Structure of Political Conflict [私訳:バラモン左翼VSバイニン右翼――不平等の拡大と政治対立の構造変動]」(『World Inequality Database』2018年、World Inequality Lab)に由来する。https://wid.world/document/piketty-t-brahmin-left-vs-merchant-right-rising-inequality-the-changing-structure-of-political-conflict-wid-world-working-paper-2018-7/。ただしピケティの論文が提示するような二項対立を単純化して捉えることへの批判もある。網谷龍介「「左翼政党は“エリートのための党”になった」は本当か? その問題を考えるための「様々な前提」」『現代ビジネス』、2021年9月4日掲載、講談社を参照。https://gendai.media/articles/-/86900?imp=0
*11)池田純一「今、アメリカで大きく盛り上がる「Woke Capitalism」とは何か――「平等」を求める人々と企業の動き」『現代ビジネス』、2019年7月31日、講談社を参照。https://gendai.media/articles/-/66057

5.加速するネタ殺し

解散劇のおさまりどころを確認しておく。劇団を解散することにした向坂は自死を遂げた高田の葬儀に向かう。そこで、向坂は近所のババアにこう告げられる。劇団がうまくいかない理由、呪われている理由を探るなら、切腹して高田に会うように、と。そもそも、向坂もまたそのお告げと関係なく切腹死を企てていたのであり、しかも知らぬ間に高田に似た方法で先を越されていたのだった。戯曲『遺書』(p.33)に従ってか、犬も食べたところだったのにと向坂は言う。さて、高田が切腹する前、ババアは助言をしていたのだった。劇団にかかる呪いの正体は冥府でわかるのだ、と。今やババアは向坂へとそう助言する。向坂は切腹で臨死体験する。冥府で向坂は高田と再会し呪いの正体を知る。それは、解散していったすべての劇団の遺した愛憎であり、未練の集積であり、荒ぶる呪いを鎮めるため京都ロマンポップの解散が完遂されることになる。今のままでは友達に顔向けできない、顔を見ることができないという向坂の目は潰される。高田は往生し、向坂は生還する。

高田と向坂とは一方が他方の分身であるかのように『FF』では描かれている。「向坂! さよならだ! 俺は人殺しの高田会計! 人呼んで、人殺しの高田会計。被って、滑って、たくさん殺したよ。たくさんの笑いと人を殺してきた。後悔はしてないのかって? 俺は誰が言ったか人殺しの高田会計だぜ? 俺は最後に俺を殺した。[……]俺を信じて! 生きろ!(高田は大阪恋物語をフルコーラスで歌う)」(pp.56-57)。そして彼岸に去る高田の振る舞いをなぞるように、此岸に戻ってきた向坂は人殺しになる。「劇団を解散した後、この盲目になった劇作家は体を鍛えた。体を鍛えて、鍛えて、あの高田会計のように、劇作家は筋肉になった。ある日、彼はパブロフに導かれ、散歩に出かけたまま二度とみんなの前に姿を見せることはなかったという」(p.59)。東西南北どこでも演劇人が死ぬ。「みんな死んだぞ! 関西の演劇に関わったものはみんな死んだぞ! きっとあの劇作家が殺してくださったのだ。彼は、一匹の犬を従えたあの盲目の劇作家は人殺しだ! 皆殺しだ! 皆殺しだ! 皆殺しだ!」(pp.59-60)。これに続きいくつかの台詞を経て、『FF』結びに至る。どこかしらソポクレス『オイディプス王』の物語が踏まえられているように感じる。呪いを解くための探求の果てに、向坂の目潰しと追放が遂行されるのだ。

ところで、終盤で形になるこの殺しへの情念は、すでに『FF』序盤で向坂により口にされていたものだった。「「寒い」「つまらない」「しょうもない」「完成度が低い」「才能がない」というものも恐ろしかったが、最も恐ろしいものは「滑る」の影に隠れて私のすぐ後ろにいた。「かぶる」である。[……]世界で一つだけの花だと思って摘んでみたところ、翌日花屋の軒先に同じものが並んでいたという絶望が「かぶる」なのだ。[……]私たちはどうすればいいのか。特攻である。[……]恐怖を自らのうちに押しとどめ、私たちも、「あえて事故ること」すなわち特攻によって「かぶる」事故を起こしていき、みんな死んでしまえばいいと思います」(pp.6-7)。いみじくも、『UrBANGUILDを上演する』内の劇『レモン爆弾』に寄せて、羽鳥嘉郎はこう述べていた。「向坂達矢の演出作品から常に看取されるのは、引用できる様式への憎悪である。[……]必要に迫られているわけでもない、ささいな差異化をはかる諸劇団の美意識のありさまを、「じゃあ内容はなんでもいいのね」とばかりに使いこなし笑いのめす」(*12)。戦闘的な形式主義だ。蓮實重彦『物語批判序説』(1985年)で素描される紋切型事典の試み、あるいはヒュー・ケナー『ストイックなコメディアンたち』(原著1962年)が提示するフローベール、ジョイス、ベケットの試みが連想されるかもしれない。

ここでの向坂による「特攻」の参照ももはや笑いのめしに映る。それはクールなジャパンの戯画なのではないか。しかしながら、ポストモダニズム以降においてはパロディすら参照すべき常道を見失っており、もはやパスティーシュしかないとすら言われている。「以下のように考えることはできないだろうか。現代文学の著しい断片化と極私化――極めて私的なスタイルとマンネリズムの激増――は、恐らくは社会生活全体の深層でのさらなる一般的な傾向の予兆ではないだろうかと。[……]それぞれの専門職が私的なコードと私的言語を発展させ、ついには個人が他者から分離されたある種の言語的孤島になってしまったのではないだろうか。しかしその場合でも、私的言語や個人的な言語スタイルの冷笑に代わるなんらかの言語規範の可能性は消滅し、私たちに残されたものは様式的多様性と異質性だけである。/それこそが、パスティーシュが出現しパロディーが不可能となった瞬間である」(*13)。そして、おそらく、ネタへと理不尽に命を懸けることで生ずる逆説的なベタさすらも『FF』が笑いのめしているのはパスティーシュだからである。「ああ、それで切腹したらお腹からパブロフが出てくるというイリュージョンですね? ブラジルで同じの見ました」(p.42)、「高田と高田と高田と高田と高田と俺のおもろいヤツが被ってんじゃねえか!こっちはパブロフ食っちゃったんだよ! 命かけて滑りたくないんだよ」(p.42)。現代ではもう雑な模倣が定番になっており、その笑うに笑えなさときたら思わず笑えてくるほどだ。もちろん、そこで図らずも催される笑いは、もう以前のような笑いではない。この笑いこそがブラック・ユーモアなのではないか。笑いが笑われ、こんな問いも立ち上がるだろう。その笑いはどんなふうに組み立てられたのか、それはどのように作動するのか、そしていかに自滅する危険を避け、この笑いの存続のためにむしろ担い手が使い潰されるのか。いわば『FF』は傍から見て引くほど笑いに熱中する人々の劇であり、だからこそ、その笑えなさが笑えてくるのである。

それだけではない。形式主義は加速に通じ、加速は破壊をもたらす。圏論的双体性の研究者はこう述べる。「実は「Xの徹底によりXが特異点に至りその内部から解体される」という加速主義の論理は、柄谷行人が『隠喩としての建築』において論じた「ゲーデル的問題」の論理と同じ形式のものである。[……]形式主義でも加速主義でも「近代化の徹底」によりそれぞれの「近代システム」がその内部から破綻する。[……]柄谷はまた『隠喩としての建築』において「形式の外部に回帰しようとする志向性」を指摘する。このような点においても加速主義とのパラレリズムを見出すことができる」(*14)。劇中劇の無限後退を終わらせる異化、イロニーの繰り返しから脱するユーモア、パロディという手法自体をパロディ化するパスティーシュ。三者のいずれもが、各々の場で内破をもたらさんとする形式主義そして加速主義なのではないか。内破とは価値転倒の契機である。「あえて事故る」被りに話を絞れば、二番煎じ三番煎じと煎じ詰めた果てで、もはや元々味わわれていた風味とは別の何かが滲みだしてくるわけだ。加速と内破が生み出す笑い。『FF』の笑いはそのようなものだ。

*12)羽鳥嘉郎「劇評3 『UrBANGUILDを上演する』内『レモン爆弾』(作・演出:向坂達矢)」『地域上演』第1号、2020年、サハ、p.6。
*13)フレドリック・ジェイムスン「ポストモダニズムと消費社会」合庭惇訳、『カルチュラル・ターン』合庭惇・河野真太郎・秦邦生訳、2006年、作品社、p.16。
*14)丸山善宏「ゲーデル・シンギュラリティ・加速主義――近代以降の世界像の変容とその揺り戻し」『現代思想 特集=加速主義――資本主義の失踪、〈未来〉への脱出』第47巻8号、2019年、青土社、p.152。

6.マジのトウヒ

日比野啓はポストモダニズムと並行するものとしての八〇年代小演劇を次のように評していた。「八〇年代小劇場演劇は笑いを過剰に追求する、としばしば指摘されるが、感動の追求も同じように過剰であったことは論じるまでもないだろう。笑いはメタシアターの遊戯性の表われであることは前述したとおりだが、八〇年代小劇場演劇は、途中までどんなに観客を笑わせようとも、終わり近くになると「悲劇的な」状況を作りだし、観客が「リアルなもの」を求めて死んでいく/挫折する主人公に感情移入できるようにする。「これはお芝居です」と言っておきながらいつの間にか「マジ」に、「本物」になってしまう」(*15)。まるで『FF』への評言めいてもいる。だが、ゆえにこそ、ここからの離脱が問われよう。笑いを内破させる『FF』は小劇場演劇をも内破させているのではないか。メタメタしさの内破を『FF』に見出すことができる。

呪いの場面に戻る。向坂と高田が呪いの正体にたどりついてから、『FF』ではこのような語りが差し込まれる。「俺が呪いだ! 俺を忘れたか! 俺は、京都ここ数十年で解散していった全部の劇団の象徴だ! 全ての無くなっていった劇団のメタファーとしての沢大洋だ![……]すなわち社会性がない沢大洋の塊だ。荒ぶる沢大洋だ! 言うぞ! 言ってやる! おい! 向坂! お前は本当の向坂じゃない! 肥後橋だ! 高田も本当の高田じゃない! ダニエルだ! はっはっはっはっはっは。俺は沢大洋だ! 本当だ! 信じてくれ! 嘘じゃない! 嘘じゃないんだ! これだけは信じてくれ! 助けてくれ! 助けてくれ! 誰も助けてくれない! ぶっ殺す! 全員殺してやる!」(p.48)。メタシアター的な夢幻性に水が差される。配役名は偽物だと指摘される。だが助けを求めてくる沢の声に観客は反応できないだろう(メタファーをどうしたら助けられるのか。また、舞台に立つ者をどうしたら助けられるのか)。あるいはその声を真に受ければ引き続く「殺してやる!」を聞き流せなくなるだろう。『FF』では、ある「劇団の代表」(p.49)を務めるという西マサトによって沢への応答が続く。「僕だって、その劇団たちのこと、何にも覚えてないし、思い出すこともない。だからって、向坂君役をやってる肥後橋君に、お前は肥後橋だって言って、ちょっとメタっぽいね、みたいなこと、どうせお芝居は嘘なんです、みたいなことやることないだろ! 子供だよ! そんなの! 子供やることだ! 大人は! 大人はな!!! 裸の王様を見て、服着てる! 王様は服着てる! 立派なもんだ! 立派だって言うもんだ![……]王様だって知ってるんだ! 本当は裸なんじゃないか俺ってわかってるんだよ! 人の気持ち考えろよ!!」(p.49)。メタっぽいキャスティングへのベタなツッコミがメタ的な存在(劇団のメタファー)によりなされ、メタ的にもベタ的にも映る存在(劇団の代表)により、あえてのメタなネタにツッコムなとベタな返しがなされる。

それだけではない。さらに西は沢にこう呼びかける。「沢君。演劇の魔法を思い出して! 演劇はいつだって自由で! 楽しくて! 僕たちは何にだってなれる! どこにだっていける! 演劇は! 自由だ! 演劇は! 現実逃避だよ![……]さあ、B級演劇王国ボンクランド国王、西マサト国王が沢君に演劇の魔法をかける! 沢君の現実逃避だ! 沢君! 君はフッサフサだ!」(p.49)。沢はこう返す。「あああ! 生えて来た。フッサフサ! 頭皮が! 俺の頭皮が! 現実逃避してる!」(p.49)。劇をフィクションと見なしつつも、あえて劇の内部にとどまること。劇を劇で言祝ぐ定番めいた魔法という語からもっぱらネガティブに響く現実逃避へと格下げ的な表現が使われ、その力の立証は沢の頭が毛量豊かであるかのように「現実逃避」することでなされる。ごっこ遊び、ロールプレイに過ぎないにもかかわらず、という逆説的な演劇賛歌の定番は、卑俗でリアルな題材に接続されて、笑いのめされる(けれども、禿頭がAGA=Androgenetic Alopeciaとして病理化され、AGA治療を謳う広告が美容用の脱毛クリニック広告と並ぶのが現在なのであれば、今まさしく熱烈な反実仮想がなされるのは体毛に関してであるのも、もっともな話だ)。ここで注目したいのは、そこではなく、逃避と頭皮のあいだでの横滑りである。そこでは同音異義語により話が展開されたかのようである。この跳躍はイロニーというよりユーモアに属する。ツッコミというより、ボケだ。しかしこのボケを導いたのは、ツッコミの連鎖だった。これは加速による内破なのではないか。ここで、イロニーの連鎖からユーモアの跳躍が生ずる瞬間が、示されているのではないか。

千葉雅也『勉強の哲学』は、ユーモアをつくりだす働きを論じる際、クリプキの提示した「クワス算」という思考実験、たとえ話を取り上げていた。以下のような形だ。「私はこれまで「+プラス」の計算を規則的に行ってきたつもりである。そこで、これまで出会ったことのないケース、68+57を計算するとなったら、私は125と答えるだろう。しかし、私に対し、次のように告げるものが出現する――実はその答えは5である、なぜならあなたがこれまで行ってきた「+プラス」とは、/もしx,y<57ならばx⊕y=x+y/そうでなければx⊕y=5/と定義される「⊕クワス」だったのである。[……]クワスの生成とはユーモアであり、ボケであるといえるでしょう」(*16)。このユーモア論では、メタメタしいイロニーが無際限に進行するとネタにマジになってしまうという陥穽への対処法が念頭にある。

その陥穽はこんな風にも説明されよう。「八〇年代時代精神のバイブルとも言える『逃走論』で浅田彰が吐いた名言のとおり、構造主義的メタシアターにおいて観客は「ノリつつ醒め、醒めつつノル」ということを行っているのだ。人は作りごとだと示されて冷静になるだけではない。作りごとだと知って一層のめり込むこともある。「手の内を明かす」メタシアターが必然的に備える批評性は、実は遊戯性と裏腹の関係にある、と言えるのだろう。距離があるからこそ、「他人事」だと思えるからこそ、冷静に眺めて批判もできるのだし、傍から見ているとふざけているのではないかと思われるほど過剰な思い入れもできる」(*17)。こうしてひとは無根拠に決定した一面的な見方を採用し、一度そう見ると決断したのだからと、その視座に引きこもってしまう。冷笑でも熱狂でも、一観点への固着が起こるなら事態は変わらない。だからユーモアが必要だと『勉強の哲学』は説くわけだ。加算からクワス算への移行であり、加算を横目にしての、クワス算への仮固定だ。しかし、『勉強の哲学』から若干離れて問うてみたくなるのは、いかにしてイロニーからユーモアに至るか、その方法だ。クワスquusの生成に至る技法、それはプラスplusの反復の内に見つかるのではないか。つまりプラスを不正確に複製すること、それを誤記または誤読することだ。それこそ、逃避からトウヒという響きを介して頭皮に移ってしまうようにである。

*15)日比野啓「日本のメタシアター――「八〇年代小劇場演劇」神話の解体をめざして」『演劇学論集 日本演劇学会紀要』41巻、2003年、日本演劇学会、p.77。こうした日比野の記述はおそらく東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年)が提示していた「感情のメタ物語的な詐術」の注釈としても読むことができるだろう。
*16)千葉雅也『勉強の哲学――来たるべきバカのために』2017年、文藝春秋、pp.228-229。
*17)日比野前掲、p.68。日比野啓のメタシアター論と佐々木敦のゼロ年代批評論とを交錯させることが可能に思えてくる。ゼロ年代批評は批評家をメタシアター劇の俳優と化する運動であったのではないか。佐々木はゼロ年代末に同時代状況を「東浩紀ひとり勝ち」と評していたが(『ニッポンの思想』p.326)、その東はゼロ年代が始まる以前から演劇的な語彙を用いつつ状況論を語っていた。「パフォーマンスが成功するためには、笑うべきところで笑い、泣くべきところで泣く観客がいなければなりません。しかし、いまやその観客の数そのものが少ないし、しかもその減少はあらゆる芝居小屋で起きている。もはや大きい芝居小屋は存在せず、したがってなるべく多くの小屋を回れるような別種の力を身に付けるしかない――これが僕の状況認識です」(「郵便的不安たち――『存在論的、郵便的』からより遠くへ」『郵便的不安たち#』2002年、朝日文庫、pp.84-85)。SNSの浸透したテン年代を経て、東の状況認識は変わったようにも映る。現在の力点は、いかにして芝居小屋を横断して回るかよりむしろ、いかにひとつの巨大な芝居小屋に飲み込まれずにインディペンデントを続けられるか、に置かれている。東浩紀「数と独立──棲み分ける批評Ⅲ」『Webアステイオン』、2021年12月15日、WEBアステイオン編集部 (株式会社CCCメディアハウス、公益財団法人サントリー文化財団)を参照。https://www.newsweekjapan.jp/asteion/2021/12/post-38_1.php

7.犬は笑うのか

こうして、『FF』の内でもとりわけユーモラスさの際立つ場景にたどり着く。例えば「ワーニャ伯父さん」の上演だ。それは肥後橋役の俳優による長台詞である。「では、ここで「ワーニャ伯父さん」を上演します。/ワーニャ伯父さんっていうのをやりたいんですけども、その前に言っておいたほうがいいかなと思うので、言うんですが、いま、言うとですね、これ、恐らくロシア人の超有名なジジイが書いた本なんですけど、僕、まだ読んでなくて、今回の演出の人に読むなって言われてたので、読んでないんですが、それをやります。ところで、ワーニャ伯父さんと聞いて、どう思いますか? 僕とワーニャ伯父さんとの出会いは、「地点」のチラシでした。「地点」という劇団、わけわかんないことを言ってる人たちが出てきてはしゃぐっていう劇をしてるトンがった劇団だと思うんですが、そんなトンがった劇団が、子供向けの劇をするんだなあと思ったものでした。動物好きのおじさんが町外れに住んでいて、町の人からはちょっと変人だと思われているわけですよ。捨て犬とか捨て猫とかすぐ拾ってきちゃう人で、もうすごい犬猫だらけの家に住んでるんです。子供達は犬猫好きですから、噂するわけです。「ワンニャンおじさん」って言われてて、いつしかそれがワーニャおじさんって呼ばれるようになったんです。[……]犬とおじさんの交流と戦争の悲惨さとか人間の愚かさと、愛とかそういうのが入っているし、ロシアのえらいジジイが書いた台本なので、間違いない。たっぷり行政からもお金出るんだろうと。それで、それをやることになったんですが、まだ僕はワーニャ伯父さんを読んでいないので、ワーニャ伯父さんは以上になります」(pp.9-10)。

「お分りいただけただろうか」(p.13)。ここではチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』が念頭に置かれているはずだが、まるで違うあらすじが展開される。それを導くのは「ワーニャ」と音が近しい「ワンニャン」である。ユーモラスな横滑りが起こっている。ちなみに北村紗衣はチェーホフの同作を「キモくて金のないおっさん」を描く戯曲のひとつとして取り上げ、「この作品の残酷さは、観客がワーニャをいくら可哀想と思っても、彼のキモさ、つまり感じの悪さや性格の欠点にも気付かざるを得ないようになっているところです」と指摘している(*18)。とすると、ワーニャは哀れに映るだけでなく、同情に値しないところのある(≒笑える)存在だと言えるだろうか。もちろん、俗に犬屋敷/猫屋敷と呼ばれるような多頭飼育をする迷惑な住人の典型にも映る人物(「ワンニャンおじさん」)に犬をめぐる戦時中のトラウマ的体験という過去を持たせる『FF』の劇作も、元の『ワーニャ伯父さん』のように「観客に「ワーニャはキモいけど、つらい時は自分も含めて誰でもああいうキモいことを考えるよな」という自省に導く作用」(*19)があるだろう。単に突き放して笑えるだけではない。また『FF』がこの後、「謎の出自とうざいキャラ、仕事できない、面白くない、匂う、キモいと、三三七拍子そろった」小川元メンバー(p.30)や、月給30万手取りを無理とは思いつつ高望みし、演劇界での評価に飢え、「呪いになって、その辺の道ゆく人たちに明らかに無教養な劇のことを、いかに無教養であるかを語った。そして髪の毛をむしった。明らかに面白く無い劇団を、面白く無いって言った。そして髪の毛をむしった」(p.53)という境地になる瀬戸際の人物として向坂自身を登場させることを思えば(現状、禿頭はいまだに気安く笑われがちだ)、「ワンニャンおじさん」に置き換えられた「ワーニャ伯父さん」の序盤での登場は示唆的である。『FF』は「キモくて金のない」人々を次々と置き換えながら登場させて(笑うに笑えない仕方で)笑いのめすブラック・ユーモアの色彩も帯びている(俳優も登場人物も「おっさん」には限定されないが)。むろん、劇団を解散して、向坂の目を潰して旅立たせ、呪いを解こうとする、いわばキモさを笑い浄めようとする劇でもあるのも確かだ。

先ほどの場面が大別してひとつふたつの横滑りからなるとすれば、無数の横滑りからなる場面もある。北野万里の長台詞だ。「こうして、犬の王、忠犬パブロフは蝋人形になりました。はじめは東京タワーの蝋人形館に搬送され、展示されていましたが、本人たっての希望が受け入れられ外に出ました。でかいサルと戦ったり、頭が2個あるでかい奇形のサルと戦ったりなどの紆余曲折を経て有名な犬になりました。そのでかい奇形のサルとの死闘の末、しっぺいパブロフと呼ばれるようになったとも伝えられています。また、少年たちと無人島に漂流した時は良いラルフを守るために悪いジャックを噛み、蠅の王とも呼ばれることになりました。その後も阿保の集うABCホールを燃やしたり、大きなウェディングケーキに放尿したりなど七面六臂の活躍の末、蝋人形蠅の王忠犬しっぺいパブロフはアマゾンに送られることになりました。/向坂さん、お届けものです」(p.37)。ここでは横滑りが加速しており、どこが何に由来するパスティーシュなのか選り分ける作業すらもナンセンスに感じられてくる。そもそも引用した箇所は死亡したパブロフが彼岸でシャカにより蝋人形にしてもらう場面の直後から始まっている。ただでさえ朗読に近しい俳優の台詞は、そこで想像される場景の荒唐無稽さも相まって、極めて表面的なものに感じられてくる。そうしてイロニーによる無限後退にも似た悪しき何でもアリ感が漂うのだが、それは現に向坂のもとへ届けられるパブロフのモノとしての重みを際立たせる。軽々しく浮遊する語群が、俳優の演じるパブロフ(というより、人語を喋るが確かにパブロフ役ではある俳優)という肖像の地の部分、背景として機能するのだ。いわばイロニーの地に囲われたユーモラスな図が立ち上がっているのである。そもそも、犬の唾液分泌の実験から条件反射を発見したのが生理学者イワン・パブロフであり、パブロフなる名前の犬という造形はそれだけで非意味的な切断や接続をイメージさせるところがある。また『FF』において犬は象徴的な役割というよりはリアルに迫ってくるものとしてある。実際その役を担うのはぬいぐるみだと指定されているが、パブロフは現に上演で腹を裂かれ内容物を食われるのだ(『FF』p.33)。それだけではない。パブロフは向坂にこうも言う(演ずる俳優は北野)。「あなたの演劇では世界は変わりません。犬は思いが果たせないときどうするかお教えしましょう」(p.59)、「犬は、極端にびっくりしたり、怯えたり、思い通りにならないと、噛みます」(p.59)。

*18)北村紗衣「キモくて金のないおっさんの文学論~『二十日鼠と人間』と『ワーニャ伯父さん』」『Wezzy』2017年11月10日、株式会社サイゾー、p.3。https://wezz-y.com/archives/50640/3
*19)北村同。北村は『ワーニャ伯父さん』の登場人物、ソーニャの不幸や、エレーナやアーストロフの悲惨にも注目し、「美しかろうが不細工だろうが、若かろうが年だろうが、様々な理由で人生はつらいし、笑っちゃうくらい不幸だというのがチェーホフ劇なのです」(p.3)と一般化してもいる。

8.伴侶:おわりに

要約する。この文章では、劇団の解散劇を演劇化した『FINAL FUNTASY 僕と犬と厭離穢土』を論じた(『FF』と略した)。京都ロマンポップの劇作を八〇年代小劇場演劇のような過剰な笑いと感動の追求の延長上にあったと位置づけ、そうした劇作の自己反省というよりは異化として『FF』の内容を捉えた。京都ロマンポップの主催であり劇中でも筆頭的な登場人物となっている向坂達矢の作風や演劇観も踏まえた。演劇論のほか、現代思想や加速主義にも触れつつ戯曲を読解し、イロニーからユーモアへと導かれる契機を劇中に見出していった。笑うに笑えない境遇の人物たちの労働で営まれる社会、そんな社会に支えられ、世間の一切を笑いの渦に巻き込もうとするような小劇場演劇的な機制、そうした機制それ自体をブラック・ユーモア的に笑いのめし、さらにはナンセンスな瞬間にもに至るのが『FF』であり、メタメタしい無限後退から脱する契機が含まれている作品である、と評価した。このように捉えた上で最後に触れたいのは、結びの台詞と犬のことである。

『FF』の最後、盲目となった向坂は行方をくらまし、どうやら四方の演劇人を殺して回ったようだとされるが(p.59)、それは先行する人殺しの高田会計の振る舞いを踏襲するものに思える。「俺を呼んだか! 俺は京都ロマンポップの人殺し! 人殺しの高田会計! 南に寒い芝居があると聞けばうんこする![……]東におもんない芝居があると聞けばちんこ出す![……]北も西もだいたい同じ! だいたい同じ!」(p.56)。ただし風聞に従って足を運んだ高田に対し、向坂のほうでは、犬が先導していると解する余地がある。皆の前から姿を消す向坂は「パブロフに導かれ」(p.59)ていたという。ここにイロニーとユーモアの関係を重ね見ることができる。つまらないネタを殺す振る舞い、すなわち「あえて事故る」ネタ被せはイロニーに相当する。また糞尿も露出も、くだらないネタ潰しの限りではツッコミであり、イロニーである。この意味で高田はイロニストであり向坂もそうである。このときユーモアは犬にあたるのではないか。それは自縄自縛してしまう意識を、具体的に四方へと引っ張り、放浪させるものだ。冒頭と同じく宮沢賢治『春と修羅』の「序」の一節が群読された後、向坂による「私たち人間にとって一番大切なこと」(p.60)という台詞に、次のような応答が群読でなされて、『FF』はおしまいになる。大切なのは、「犬を飼うこと」(p.60)。これである。

そして最後の最後に。ブレヒトの叙事演劇を評するベンヤミンは、そこでは様々なものの働きかたが変わるのだと指摘していた。「叙事的演劇の観客にとっては、この舞台はもはや「世界の象徴としてのステージ」(つまり魔力の場)ではなく、有効に配列された世界の展示場である。その舞台にとって観客は、もはや催眠術をほどこされた被験者の群れではなく、局外者ではない人びとの集団――かれらは舞台をとおしてみずからの要求をみたす――を意味する。そのテキストにとって上演はもはや巧妙な解釈ではなく、厳密なコントロールを意味する。上演にとってテキストはもはやその基礎となるものではなく、上演の成果が新しい定式化として書き込まれるべき経緯度線である。演技者にとって演出家のあたえるものは、効果にたいする指示ではなく、態度決定のためのテーゼである。演出家にとって演技者はもはやひとつの役と同化すべき物まね師ではなく、役のカタログ作成を担当すべき人間である」(*20)。ところで、ここにはベンヤミン自らのように、こうして演劇を論評ないし批評する担い手のことは書き込まれていないように映る。それをここで、あの犬のようなものだと考えてみたい。もちろん劇評はユーモラスに話題を飛ばして話を広げたり締めたりするだけではない。それは反省的でもある。ストレーレルの演出したベルトラッチーの戯曲『われらのミラノ』を、ブレヒトを念頭にして論じたアルチュセールは、自らの論考が(いわば無意識的に、意識的に望むと望まざるとにかかわらず)戯曲の一環となっているのではないかと自問していた。「わたしはふりむく。すると、突然【次の:傍点】問題、太刀打ちできない問題がわたしに襲いかかる。以上の数ページの文章は、稚拙で盲目的なやりかたによってであれ、それなりに、『われらのミラノ』という、六月のある夜の知られざる戯曲にほかならなかったかどうか、という問題、わたしのうちにその未完成の意味を追求し、そのすべての俳優と舞台装置がとりはらわれ、なくなったのちも、わたしのうちに、わたしの気持に反して、その無言の台詞の【出現:傍点】をもとめている、あの戯曲にほかならなかったかどうか、という問題が」(*21)。もちろん、すべての観客が、上演を「現実生活のなかでおわらせる」ために(リ)アクションできる。この意味では批評家をことさらに設定するのは不遜な操作だ。ただ、パブロフは、「ショーヴェ洞窟の足跡を残した犬とラスコー洞窟を発見したロボという犬の子孫である」(『FF』p.34)とされていた。そしてそこで幻視されるのは、人とともに壁画に立ち会う犬なのだ。そしてまた、犬はときに人を引っ張る。物を持ち帰ろうとする。ベンヤミンがそのクラカウアー評やボードレール論、そしてパサージュ論で用いた、クズ拾いの形象にも思いを馳せ、幻視する。こんな光景を。ある朝まだき、一人と一匹は一体となって、散歩へと向かう。道々の屑に興味を注ぎ、それらは宝物としてコレクションされるかもしれない。そうして、ときにちぐはぐで噛み合わずとも一体となっている一人と一匹は、ふと見つけた洞窟に誘われ、そこにあった壁画にたどり着く……。誰か、壁画の発見に同伴するものとしての犬。それはすべての観客に開かれた役割だが、それを指す名は批評家よりむしろ、ドラマトゥルク、あるいは記録係のほうが相応しいかもしれない。そしてもちろん、観客もまた、俳優ほかすべてに向けて開かれている役割だ。『FF』に倣って述べてみる。〈人と犬とが連れだってあること〉。これが最も大切である、と。

*20)ヴァルター・ベンヤミン「叙事的演劇とは何か[初稿]」石黒英男訳、『ブレヒト――ヴァルター・ベンヤミン著作集9』石黒英男編集解説、1971年、晶文社、pp.25-26。
*21)ルイ・アルチュセール「「ピッコロ」、ベルトラッチーとブレヒト――唯物論的な演劇に関する覚書」、『マルクスのために』河野健二・田村俶・西川長夫訳、1994年、平凡社ライブラリー、p.262。

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佐々木敦『ニッポンの思想』2009年、講談社現代新書。
千葉雅也『勉強の哲学――来たるべきバカのために』2017年、文藝春秋。
筒井潤「劇評2 人間座スタジオ配信舞台祭『UrBANGUILDを上演する』(構成・演出:向坂達矢)」『地域上演』第1号、2020年、サハ。
羽鳥嘉郎「劇評3 『UrBANGUILDを上演する』内『レモン爆弾』(作・演出:向坂達矢)」『地域上演』第1号、2020年、サハ。
日比野啓「日本のメタシアター――「八〇年代小劇場演劇」神話の解体をめざして」『演劇学論集 日本演劇学会紀要』41巻、2003年、日本演劇学会。
丸山善宏「ゲーデル・シンギュラリティ・加速主義――近代以降の世界像の変容とその揺り戻し」『現代思想 特集=加速主義――資本主義の失踪、〈未来〉への脱出』第47巻8号、2019年、青土社。
向坂達矢「無題[笑の内閣『マクラDEリア王」劇評]」。高間響facebookアカウント2021年8月13日投稿内の画像を参照。
向坂達矢『FINAL FUNTASY 僕と犬と厭離穢土』2020年、サハ。

参考文献(日本語以外)

ルイ・アルチュセール「「ピッコロ」、ベルトラッチーとブレヒト――唯物論的な演劇に関する覚書」、『マルクスのために』河野健二・田村俶・西川長夫訳、1994年、平凡社ライブラリー。
ヴァルター・ベンヤミン「叙事的演劇とは何か」野村修訳、『ブレヒト――ヴァルター・ベンヤミン著作集9』石黒英男編集解説、1971年、晶文社。
ヴァルター・ベンヤミン「叙事的演劇とは何か[初稿]」石黒英男訳、『ブレヒト――ヴァルター・ベンヤミン著作集9』石黒英男編集解説、1971年、晶文社。
ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』上巻、浅井健次郎訳、1999年、ちくま学芸文庫。
ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳、2008年、河出文庫。
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』下巻、宇野邦一訳、2006年、河出文庫。
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』財津理訳、2012年、河出文庫。
フレドリック・ジェイムスン「ポストモダニズムと消費社会」合庭惇訳、『カルチュラル・ターン』合庭惇・河野真太郎・秦邦生訳、2006年、作品社。
トマ・ピケティ「Brahmin Left vs Merchant Right: Rising Inequality & the Changing Structure of Political Conflict [私訳:バラモン左翼VSバイニン右翼――不平等の拡大と政治対立の構造変動]」『World Inequality Database』2018年、World Inequality Lab。
『西洋思想大事典』第1巻「228 喜劇の感覚 (Sense of the Comic)」の項(Edward G. Ballard執筆・上野美子訳)1990年、平凡社。

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