視聴したMVの話03(身体と言葉:惰性を外れる、手で語る、重力を使いなおす)

はしがき

どうしてそんなことになったのか思い出せずにいるのだが、小さかった頃、「ピーター・パン」の物語に登場する妖精ティンカー・ベルの粉(鱗粉?)に擬せられた何か粉末状のものが入った小瓶を手に、「そーらとべる、そーらとべる!」と声を上げながら屋内でかがんでは跳ねかがんでは跳ねしていたことがあった。かくれんぼや鬼ごっこなど、ポピュラーな競い合いで勝者の側にいくのは苦手というか下手だったのもあって、もの拾いとか裏道探しとかのひとり遊びや、ロールプレイの方が好きだった。だけど競争で勝利するのも大好きだった。もう少し長じてから、大富豪(あるいは大貧民)という名のトランプカードによる遊びを知った。勝ったり負けたりしながら、大富豪にも大貧民にも成ることができて、大逆転も水際での逃げ切りも順当な圧勝も思わぬ大敗北もできて、何度でも繰り返せるそのゲームが私はとても好きになった。踊る、演じる、競争する、といった事柄が絡まり合った仕方で私の記憶の中に場所を占めている。規則や習慣の範疇におさまる動きばかりをするようになった今でも、そういう記憶が、身体を動かすとき思い出されることもある。TCGやビデオゲームにも手を染めていたが今回はここで擱筆。

前回

今回の曲一覧

・平井堅 『ノンフィクション』2017
・女王蜂 『HALF』2018
・米津玄師 『Flamingo』2018
・Stromae『Tous Les Mêmes』2013
・Caetano Veloso『A Bossa Nova É Foda』2012
・長谷川白紙『草木』2018
・Vince Staples『Lift Me Up』2016
・Grimes『Vanessa』2011
・MONDO GROSSO『偽りのシンパシー』2018

身体と言葉

今のところ劇場で観覧する機会に恵まれたことはないのですが、私は舞踏というものに関心があります。20世紀後半から発展した日本の前衛舞踊と概括してよいと思うのですが、たしか原田広美『舞踏(BUTOH)大全』(2004)の大野一雄の写真を目にしたのが関心を持ちはじめたきっかけでした。その後に土方巽の『病める舞姫』(1992 白水社)を読んだり、大野一雄の舞踏の記録映像を見たりして今日に至ります。そういえば映画『ジョーカー』(2019)の中で、俳優ホアキン・フェニックス扮するアーサーが踊り出す場面が幾つかありますが(特に、公衆トイレの中で俳優がアドリブで踊り始めたらしい)、ダンス批評家のジア・クーラスはそれらの踊りを評する際、とりわけ俳優が背面をさらすときに、その身体を「舞踏の恐怖劇めいた奇妙で奇っ怪な曲げ方[ into a Butoh horror show of odd, freakish angles]」で見せる能力があると述べていました(オハッド・ナハリンのガガも引き合いに出されています)。

ピエロメイクと関連付けていいのか判じかねますが、舞踏も白塗りがひとつの範例になっているので、その点でも舞踏感を抱いたりしました。――また「暗黒舞踏」ともいうように、舞踏はある種のダークさやアングラさとも、通じ合う面を持ってきたように映るので、その点でも。――個人的に私は、大野一雄『ラ・アルヘンチーナ頌』の抜粋映像が深く印象に残っています。

また、平井堅のMVに舞踏家の工藤丈輝が出演し、話題だったと思います。

平井堅 『ノンフィクション』2017

同一人物が同一画面上に複数存在するような手法は、他の平井堅のMVだと『POP STAR』(2002)などを個人的に思い出します。また、このMVと同年のものとしては、フレデリック『かなしいうれしい』(2017)のMVが個人的には連想されます。『ノンフィクション』の場合は舞踏のそれぞれのアクションが切り取られていますが、消灯後の遊園地という場が醸しだす物哀しさや、アトラクション群の想起させる反復的な動作のイメージが、「ただ会いたいだけ」という(今は会えない?)「あなた」へ呼びかけるサビと相まって明滅のように合成される舞踏家のパフォーマンス群と噛みあって感じられます。

ナイーブな物言いになりますが私に舞踏が魅力に感じられたのはひとつには私の日常の通例からの解放感があったからだと思います。例えば「自然な」生活をしているとき、私は、私が習慣化させられていたり、また私の身体のコンディション上で「無理がない」という範疇におさまっていたりする挙動を取りがちで、それは現行の私が身を置く環境では有益に働く場合も少なくないかもしれないけれど、私はときどき息苦しくなったりします。息苦しいというのはもちろん比喩で、もっと言うと、できることを能動的にしているのか、許可されていることだけをさせられているのか、わからなくなるような気分になります。その気分を変えるという意味で、日常的なしぐさを意識して解除するのも、日常とは異なる振る舞いの型を意識して学ぶのも、双方とも表裏一体に、脱「自然」ないし脱習慣で、私の感じる踊りの効用です。牧歌的すぎる話かもしれませんが、なぜ頭が胴の上になければならないんだと思ってひっくりかえるだけで、少しだけ閉塞感が薄れるときもあります。

つまり、私には踊りが、そこに居させられるという苦しさを払って、ここに居ることにするという意志を手にする技法のひとつであるように思えます。もちろんこれはナイーブな見方で、私が何かの踊りの姿を解放として言祝ぐとき、その踊りを形作る身体動作やファッションや感性の下地をなしているはずの個の来歴や学びの系譜、また帰属の共同体といったものへの選好を、度外視してしまう(暗黙裡に普遍なものとして推してしまう)リスクがあるのは自分自身でも気になるところです(言語化できていない趣味判断が多い)。舞踏からは離れますが同様の趣味判断が働いている気がするMVを以下で。

惰性を外れる

女王蜂 『HALF』2018

はじめて見たのは『デスコ』(2011)のMVで、Boody & Le1f『Soda』(2012)やCakes Da Killa『Goodie Goodies』(2013)のような、おそらくクィア・ラップと言えるであろうジャンルの幾つかのMVのようなヴィジュアル面から関心を持ったところがあって、あと最近の『BL』(2020)のMVも好みの雰囲気なのですが、踊りだとこれが一番印象に残っています。イントロの結びでヘッドマネキンを胴体にはめ込むようなシーンがありますが、これのお陰もあってカクカクした四肢や首の動きがとても映えている感じがします。またそれらが強調しているように思われる「フィギュア」性が(石田スイ原作のアニメ『東京喰種トーキョーグール』の第3期ED曲がこの『HALF』だという文脈も相まって)、「人工的」という枠に割り振られてしまいがちなポジションを語りなおすという曲のスタンスとも、うまく噛みあっているように感じます。

米津玄師 『Flamingo』2018

米津玄師『LOSER』(2016)を初めて視聴したとき、絵も詞も歌も自身で表現していた本人が、ついに踊り出した(振付はダンサーの辻本知彦による)と、驚いた心持になったのを覚えています。誰もおらず机も椅子もない教室や、通行人も落書きもないトンネル、雨の降るビルの屋上などで、よろめくような踊りを独演しながら「I'm a loser.」と唄うのが、とても「らしい」感じに思われて印象深かったのですが(舞台上に誰も並び立たっていない時点で負けようがない無敵感も含めて)、『Flamingo』では一味違う感触もあり、ボカロPとして発表していた『結ンデ開イテ羅刹ト骸』(2010)とかに感じられたある種の「遊女」めいたテイストをうまく昇華させた曲に(私には)思えて、個人的にはうれしい曲でした。片足をひきずるような歩み方が、宿酔で痛む頭をおさえるような動きにも、鳥を思わせる滑らかな手先や腕の動き、首の振りなどにもマッチしていて、閉じているがゆえに負けようのない独尊感に傾きがちな『Loser』とは違う仕方で、よろめきやふらつきを(普通から逸脱以上の)ひとつの型へと立ち上げる動きが映されているように思えるMVでした。

上に挙げた2つのMVは、ある惰性から外れるような動きを試みているように私には感じられました。メジャーから見た「ふつう」におさまろうとするのでもなく、しかし「ふつう」になれないという逸脱を反転させて「ふつう」なんかじゃないと上昇するのでもなく、いわば、半歩ずれた「自然体」へと踏みとどまろうとするような感触がこれらにはある気がして、なので私は、これらのMVが自分の好む意味での「舞踏」感と通じ合っているように思えます。とはいえ、こうした好みが、ある種の見世物好みの開陳に陥っていはしまいかという疑念はやはりあります。――例えば、以下に挙げた工藤丈輝の舞踏の冒頭に私が惹かれるとき、(宮崎駿が喝破した)「痛みとかそういうものについて何も考えないで」面白がるような姿勢、「極めて何か生命に対する侮辱」めいた心持が全くないのかというと、正直わかりません。(私は、踊る誰かの渾身の力を感じとっているのではなく、奇抜な踊りの姿を眺めて面白がっているだけではないか、というのはいつも自省の働くところです。)

だからといって自分がこうしたものを私的に敬遠したり、良識と思える意見に寄せて感じたり考えたりするようになればそれでよいという話でもないと思うので、注意しながら、少しずつ、惹かれるところを言語化したいです。

手で語る

「舞踏」っぽさという観点で見たとき、背の曲げ方や体躯のゆらし方とは別に、手先の使い方というものが特筆できると思います。「舞踏」からは離れますが、手先づかいに訴えるもののあるMVを挙げていきたいと思います。

Stromae『Tous Les Mêmes』2013

ある種の「男性風」の装いと「女性風」の装いを身の半面ごとに切り替える見せ方や、街路で踊るときの肩の尖った服に丸められた背、それらによったもいっそう強調されて映る手指の鉤状に曲げられた型が印象的に残るMVであり、大野一雄の姿を私はどことなく連想します(手だけでなく、髪型なども関連しているのかもしれません)。題は(男なんて)「みんな一緒All the same」という意のようですが、後半でストロマエと同じいでたちのダンサーが現れて相互に分身的な感じになるところが味のある映像だなと感じたりします。

Caetano Veloso『A Bossa Nova É Foda』2012

歌手本人の上体を、他の三人の手や腕が取り巻くことでかなりの部分が成り立っているMVです。おそらく、バックドロップシンデレラ『本気でウンザウンザを踊る』(2018)の一場面(ボーカルのでんでけあゆみを多数の腕が取り巻く)はこれをオマージュしたものなのだろうと思います(2013年のアルバム『アブラサッソ』のジャケットもこのMVの一場面に見えます)。線香花火?のような映像や逆流する雨垂れ?のような映像も相まって、どこか彫刻めくポーズにも映る身体の量塊性が力強く感じられました。口を隠す手に水滴の当たるなかこちらを見据え、顔を下げるとともに画面が暗くなり、ブッラクアウトのなかで低い耳鳴りのような音が強まっていく結びも印象深いです。

長谷川白紙『草木』2018

このMVには2人のパフォーマーが登場しますが、どちらもシンプルな暗い色の服を着ており(私には2人の髪色とあんまり区別がつきません)、顔と手と足(の白いスニーカー)が植物に囲まれた中で際立って映ります。このMVの振付では手話が用いられているので、文字通り、手で語る映像になっています。このMVをあらためて視聴しながら、「手で語る」と言いながら手話言語ではなく比喩的な使用を先に思い浮かべがちだったと自省の念が脳裏をよぎりました。未習の言語の質感に魅力を覚えることの危うさは、口頭言語の場合でもしばしば感じることで、それは空耳やハナモゲラ語をたのしむことと、テクノスキャットや(私にとっては未習の)様々な言語の楽曲をたのしむこととの噛みあわせの難しさにも通じ合うように私には思われます。このように考えていくと、MVという形式であるからこそ力を発揮しうるような要素を私の視聴はつかめているのかという問題が前景化してくるように思います。

重力を使いなおす

惰性に従わないようにする、という姿勢を考えるとき、重力をどうするのかという問いは避けえないものに思えます。もちろん、重力に従うのと指令に従うのは全然別だと言えばそれで済む話かもしれません。ただこの「従う」の混同は簡単に解消できないという見方も、存在してきたように思います。以下の記述は、自然法則とは別の法則(道徳法則)に従えば惰性を脱した舞踏の型(ここでは「習慣」を脱した「真の反復」に相当すると見なしたいと思います)を体現可能だというのではない、と説明していると読みえるでしょう。

しかし意識〔良心〕は両義的なものであって、その両義性とは次のようなことである。すなわち、意識は、道徳法則――自然法則の外にあり、それに優越しており、それとは無関係な道徳法則――を立てることによってでしか、おのれを考えることができないのだが、しかし意識は、自然法則の影像[ルビ:イマージュ]と範型[ルビ:モデル]をおのれ自身のうちに復元することによってでしか、道徳法則の適用を考えることができない、ということ。したがって、道徳法則によっては、わたしたちは真の反復を得るどころか、反対に、またもや一般性のなかにとどまってしまうのである。この場合、一般性は、もはや自然の一般性ではなく、第二の自然としての習慣の一般性である。[……]だから、習慣は、けっして真の反復を形成することがない。要するに、前者[ある行動の型を学ぶ最中の「類似のレヴェル」]においては、意図は変わらぬままに、行動が変化し改善されてゆくのだが、後者[ある行動の型を身につけた後の「等価のレヴェル」]においては、意図とコンテクストが異なっているのに、行動は等しいままであるということだ。
ジル・ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳 文庫版上巻29頁 原著1968年
※[ ]内は引用者

仮に意図が元型に適っているならば現われの差異を捨象するような「類似」目線でもなく、外形が元型に適っているならば動機やときところを問わない「等価」目線でもない仕方で「習慣」では得られない行動――「真の反復」――を体現すること。これは、文法と破格体とナンセンスの関係(紋切型ではない言葉をどうやってつくるのか)や、踊りの型と身振りの崩しと舞踏の関係(紋切型ではない振る舞いをどうやって体現するのか)にも通じ合うところのある問いの立て方であるように思われます。そして重力を「従う」べき自明の力と見なしてしまう姿勢への抵抗も、そうした問いの地平で考えうることのように私には感じられます。といっても無重力ならいいかと言えば、そうではないでしょう。重力があることではなく、重力が第一に「従う」ことを避けられないようなものに思えてしまうということが、問題なのでしょう。

Vince Staples『Lift Me Up』2016

ヴィンス・ステイプルは、『Señorita』(2015)に出会って記憶に残って以来、出るMVを時折チェックしています。このMVではどんよりとした港湾、その水面と鳥たちが何度も映されますが、画面の回転が、寝転んだり壁にもたれたりワイヤーで吊られたりしているステイプルにかかっている重力の一方向性を分散させているように(私には)感じられます。もちろん、始めの銃声で斃れた身体が想起されるように、ここでは浮遊感がかえって「重さ」を(通例で紋切型の「リアル」表象とは別の仕方で)表象している感じもあり、その点ではいっそう重力めいたプレッシャーを意識させられるMVでもあります。

Grimes『Vanessa』2011

今年5月、実業家のイーロン・マスクとの間に第1子が誕生したという報道でも話題になったグライムスですが、このMVで注目したいのは動画の逆回しです。四つ這いになり頭を振った際に長髪が揺れるさまが逆回しで映される場面は、顔面に塗られた赤紅が手で拭き取られていくかのような場面同様、印象深く覚えています。毛先が頭を持ちあげさせ身体を引っ張るような動きは、逆再生映像ならではの面もあると思います。逆再生と通常再生の動きが効果的に組み合わさり、重力の一方通行性を中和しているように思います。

MONDO GROSSO『偽りのシンパシー』2018

最後にBiSHのアイナ・ジ・エンドがダンスする姿を映したMVで結びたいと思います(監督の林響太郎によるポストプロダクションががっつり入った方を挙げましたが元のバージョンと一緒に視聴する方が効果的かもしれません)。このMVでのアイナ・ジ・エンドの動きには、『Lift Me Up』のような壁と床の無差異化や、映像の早回し/逆回しによる運動の脱一方向化が見られるように私には思え、それは画面の色調や調度品の映され方、そして何より踊り手の動きとも噛みあう仕方で、重力を打ち消すどころか能動的に使いなおしているかのようにさえ捉えうるように感じられたのですが、その印象をうまく言葉にするのは、無念ながらいまの自分の語彙や知識では難しいようです。音楽や美術や思想、アイドルグループのシーンやダンスまそして撮影等々の基礎教養が欠けているため粗い感想しか言えないということを、あらためて苦々しく感じます。――きちんと勉強した上で書けるようになりたいです。

[了]

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