「まし」な消費の仕方とは、例えば「悪徳」派遣企業よりは「まし」な派遣企業で人材を「購入」できるようにするやり方のことではないか:記事「「オタク」であり「フェミニスト」でもある私が、日々感じている葛藤」への所感

言及対象:

※副題は「エンパワメントと消費の狭間で」。初出は2020年6月28日付。

※読まずに済ませるために本記事を利用するのではなく元の記事を参照してくれるようにと読者にお願いする。

1ツイート(140字)以内での感想:

所感:

以下は、記事の内容要約としては不十分です。

推しに金を注ぎ込む客の持つべき徳は何か。推しが生身の人間でなかったらどう扱ってもいいし、どんな妄想をぶちまけてもいいのか。性癖ドンピシャですとか公言するのは徳のある行為なのか。生身の人間にも、フィクションみたいな理想が押し付けられていてキツイという話もある。フィクションのキャラにも、生身の人間のように接しろと圧を掛けられてキツイという話もある。生産された理想のキャラに貢ぐ風習は二次元三次元を問わず相互作用を起こし理不尽な強制を人間に課している面もあるのではないか。そもそも推しに救われたときは、自分の理想を見せてくれてありがとうと推しに感謝すべきなのか、推しを自分の性癖ドンピシャなキャラで演出して売り出したデザイナーや業界に満足すべきか、あるいは生身の人間に無理をさせたりもする(推しとなる誰かや運営だけでなく、客である自分たちも含む)業界の構造に何か、やばいものを感じるべきなのか。オタクの中でそういうことを気にするひとはいるだろう。フェミニズムにもそういうことを考えてきた面がある。開き直って、客で金払ってんだから文句言われる筋合いないなどと突っ張る消費者しかいないわけではないし、儲かってんだからいいじゃんとまずい状態を放置する業界人しかいないわけでもない。線引きや徳がある。

以上、うまく拾えていない論点も種々ありますが、私は記事から上記のような話を読み取りました。上記は、「私は、こうしたオタクコンテンツを推すこととフェミニストであることを両立できる道を探したいと思っている。」(5頁)という記述に重きを置きながら、私なりの理解で私自身にとって使いやすい(不精確な日常の)語彙で整理したものです。所感を続けます。

私は冒頭で挙げた記事の「オタク文化自体に「性的客体化」などの形で顕現する女性差別的な目線が根源的に横たわっているのではないかという危惧からやってくるものだろう。/正直なところ、この危惧に関しては、私も簡単に退けることはできない。」(4頁)という記述には同感できないところがありました。思うに、現に差別する行為の動作主が人間である以上、どんな文化であれ、そのコンテンツであれ、やり方しだいでは女性差別に役立ってしまいうるのではないかと私は訝しんでいます。現在覇権的なオタク文化がどの程度、差別にとって、使いやすく/使いにくくデザインされているのかは考えうるし、考える意義があると思います。しかし人間が実際に使用する現場抜きで差別的か否かが定まりうるといった意味で「根源的」なものではないと思っています(なお、私は、記事中の「根源的」の意味を取り違えた上で異論を示しているに過ぎないかもしれないと自分を訝しんでいます)。

その意味で、「オタクコンテンツを推すこと」、推しを供給する企業や演者に消費者としてかかわることに、私はよしあしがありうると思っています。仮に労働が不可避に疎外をもたらす点で悪だとしても、ましな労働の仕方を考え実践する意義があるように、仮に消費が不可避に何かの悪さをもたらすとしてもましな消費の仕方を考える方がよいというのは、私には腑に落ちる話に思えます。その一例として、「オタクコンテンツ」の消費者においても「性別に起因する格差や、性別によって社会から規範的に割り当てられる役割の違いに基づく生きづらさを問題だと感じ、是正を求める」(2頁)立場に相応の振る舞いと、そうではない振る舞いとを選り分けることができると思います。ただ、「性別に起因」する問題にどれほど重きを置くのかは立場選択によって変わるだろうと思います。例えば「性別」より「人種」のことに関心を持つ立場、「階級」に関心を持つ立場、また別の立場、その種々の複合など、重んずるものにより、色々と別れうると思います。いずれにせよ消費者としての徳のある振る舞いというものが考えうるだろうと思います。

例えばアニメーターの労働問題などに触れたとき、薄給で酷使される誰かのおかげでたのしいアニメが安く視聴できてよかったと思う消費者はそれほどいないと思います。自分に何かできることがあれば、手が届くことならば、何かしたいと思うものではないかと思います(とはいえ、寄付金集めなどでどうにかなる話ではなく、制度や慣習を変える必要がある訳で、雇用者でも被雇用者でもないし、スポンサーでもないとすれば、消費者が、どこにどう働きかけるべきか、何をするのが環境の改善につながっていくのか、などは色々な道筋を都度都度に考えるべきだと思います)。これまで通りに無邪気にアニメをたのしめなくなるからすぐに忘れよう、いままでのやり方で辛い思いをしている裏方がいるなど知らなければよかった、という消費者もいるかもしれません。しかし、そうであっても、裏方が潰れたらもうコンテンツは供給されないわけですから、推しのキャラクターの物語が紡がれなくなることへの危惧はぬぐえないのではないかと思います。コンテンツを供給する側で誰かが使い潰されるような構造で問題がないと思う消費者はいないものだと思います。また、市場の外部性というか、商品の生産や消費の過程で、買い手や売り手ではないが損害を被る相手が発生しているならば、その損害を低減させる方がよい、ということに異を唱えるひとは少ないと思います。

生身の人間の演者に例えばアニメのキャラクターのようなパフォーマンスを要求する(人生自体をキャライメージを崩さないよう管理する圧が生じる)アイドル産業の商品(物品だけでなく、様々な体験の提供を含む)の享受者は、演者の労働問題に対する姿勢自体が、非実在のキャラをめぐる場合以上に問われる面があると思います。客だからとアイドルの演者に何でも言っていい、要求していい、というわけではないはずです。ルール上ではセーフだからと尊厳を踏みにじるような扱いをしていいのでもないはずです。そんな感覚や意識を持つことは、不可解ではないと思います(リアリティショウ、Youtuber、Vtuberなどのことも考えうるでしょう)。こうした産業では運営やプロモーションのやり方にも相応の徳が求められると思いますし、消費者の側も、どんな企業や運営を選ぶか、どんな関わり方をするのか、どう話したり広めたり、話を控えたりするかの徳が問われると思います。徳といってもこれは、売上至上主義と道徳心が対立するみたいな話におさまらないはずです。100日後に死ぬワニの話などを想起してもらえれば、道義心の把握がマーケティングに必要との話はすんなり通じるのではないかと思います。

いわゆるアイドルは二次元と三次元を横断しているため、演者や裏方である生身の人間に降りかかる労働問題が、いわば不死身で疲れ知らずの非実在なキャラクターと、それを演出し供給する運営、それを享受する客という図式のなかで後景化しがちであるように思います。また臆見ですが、「オタク」は、好きなものをたのしむとか、好きなものを好きと言う振る舞いへの抑圧に過敏に反応し、非常な反感を抱きがちで、その好きなものをつくる工場がひとを使い潰しているだとか、好きなものを好きと言うそのやり方のまずさで苦しんでいるひとがいるだとか知らされること、言われることを、自分の内心に罪悪感を植え付け指図してくるマナー講師のやり口だとみなして拒絶してしまいがちではないかと思います。実際に徳を欠いたマナー講師のようなひとが、何らかの目的でそういう発言をしている場合もあると思います。でもそうしたやり口への嫌悪があるからといって、従来通りコンテンツ供給の担い手を使い潰したり、コンテンツの供給や需要の外側にいるがその営みに付随する不利益は被ってしまうひとがいる状況を放置したりするとすれば何か拙いと思います。警戒心や潔癖は開き直る口実にはならないはずです。

自分なりに例を挙げてみます。以前、テレビのバラエティ番組で、若手男性アイドルたちに、様々なシチュエーションで女性(デートや交際の相手)に対してロールプレイをさせ、それらを品評する企画が放映されていました。そこでは男性アイドルの気持ち悪い言動に対してツッコミの大喜利がなされていました。(××歳、職業)らの声として、うまくそのロールプレイのキモさを囃し立てるような短いコメントが列挙されていたように記憶しています(もちろん、逆に高評価のロールプレイの場合には評価箇所を指すコメントが列挙されていました)。私はこの企画が、生身の身近な人間にも、気持ち悪い言動の男性というレッテルを張り、陰口のネタにするといった行為への心理的ハードルを下げうる点で、よくない効果を発揮していた面がある、と言えるのではないかと思っています。その番組の制作者や、その番組に出演する男性アイドルや、主な視聴者であろう男性アイドルのファン(おそらくは女性)は困らないと思うし、それこそ好きなものを好きなように消費していただけだと思います。ただこの番組には、この番組の客や演者や運営には該当しないであろうある種の男性にとって、言動が気持ち悪いからと、雑に物笑いのネタにされるリスクを高める付随的作用があったように思います(もし仮に、道徳的に悪いことをした人間や、犯罪行為をした人間であったとしても、批判や糾弾ならばともかく、身体的特徴を嘲笑したり言動を誇張して囃し立てたり、辱めたりオモチャにしたりしてもいいわけではないはずです)。私が言いたいのは、そうした番組が禁止されて欲しいという話ではなく、そうした番組でも、もっとましな生産や消費の仕方がありうるのではないかということです。もちろんいま述べた挿話は、裏返しに考えたとき、主に男性「オタク」向けのコンテンツにおいても、その運営や裏方や客とは無縁の女性に損害をもたらすような効果が生じているのではないか、と私に推測させる材料のひとつでもあります。

まとめます。私は、記事での議論すべてに同感しながらではありませんが、記事が示唆するような「まし」な消費の仕方の探求は、大事なものだと思います。ただし、(低俗や高尚といった階級を持ち込むことで生じる)娯楽をたのしむことへの罪悪感を緩和する方法の探求が大事なのではありません。そうではなく、自分が享受する娯楽の産業をよりよくするため消費者としてできることを探求するのが大事だということです。例えば派遣労働者なしで営業できないとしても、「悪徳」派遣企業よりは「まし」な派遣企業で人材を「購入」できるようにするやり方を考える会社の方が、徳のある会社であることになると思います。それと同じように、コンテンツの裏方や演者などを使い潰さない企業を選ぶ(あるいは、よりよいやり方をしてくれるように運営に何らかの仕方で働きかける)消費者の方が、徳を備えた消費者であると言えると思います(多分どれくらい有徳でいたいのかはひとにより異なるでしょうが、同じ程度に娯楽に耽られるならば、より犠牲の少ないやり方にする方がよいことには、大抵のひとは賛同してくれるだろうと思います)。この意味での「まし」な消費について考える上で、フェミニズムをどの程度役に立つと考えるかは、ひとによると思います。フェミニズムは、私がいま述べたような関心で私が示唆したような対象に適用するためだけに存在する理論ではないはずだからです。私自身は、フェミニズムやジェンダー論またセクシュアリティ論の知見を参照することに利点を感じてきました(自分がどの程度適切に理解できているのかはいつも問われるべき点と感じます)。

表現規制や、性的客体化、まなざしの非対称性といった話には、同感するかしないかというより、自分ではうまく飲み込めていないところが多いという感想でした。例えば、もし「女性をあくまでも受け身の「客体」としてのみ扱うような表象になっているケースが多いために、女性差別的な表現になりがちだという話」(3頁)を強く真に受けるならば、そもそも攻め×受けというような割り振りを快をもたらす関係性として消費すること自体、何ごとかのわるさを伴っているという話になりはしないかと疑います(もちろん、攻め×受けの描き方のよしあしを考えうるし、そこで線引きできるとも思います)。主体的な「受け」というものがありうるのか、受け攻めという観念自体が、現状では差別に使用しやすいデザインだということになってしまうのかは、私にはまだ十分に考えられていないことです(不明を恥じます)。

無謬ではないかもしれないコンテンツを、それでもエンパワーという観点で肯定したくなる話には、私にも同感したくなるところがあります。私にも、思い入れのあるコンテンツやキャラクターというものがあり、それらのなかに擁護しがたい部分が含まれているように自分でも感じられる場合でさえ、やはり、それが自分の生を力づけたことにこだわりたくなるときがあるからです。ただひとによっては、オタクコンテンツの享受に救われとか〈深い〉理由語りが必要なのか、と懐疑する向きもあると思います。誰にでも必要かはわからないが、不要なひとばかりではないだろうし、現にしてしまうひとがいる、というのが差し当たりの簡便な応答になると思います。

[了]

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