『Rhetorica #04』Ver.0.0感想(江永)
はじめまして。江永泉です。昨年12月、team:Rhetorica(垣貫城二+瀬下翔太+太田知也)企画+編集の『Rhetorica #04 』Ver.0.0を読んでの感想をtwitterで連投いたしました。本記事はその連投を加筆修正したものになります。また、自分の論考に関しても、暴露、というほどのものではないかもしれませんが、幾らかの底意のようなものを、述べておきたいと思います。なお、言及する方々の敬称は略します。また、『Rhetorica #04 』が、意を凝らして制作・編集されており、諸コンテンツの配置にも各々の意が含まれていることは、現物を一瞥すれば瞭然のことではありますが、この感想では自分の観点でまとめるというか、私の語りやすいように順序を入れ替えてあれやこれやを述べています。その旨ご了承ください。
それでは、『Rhetorica #04 特集 棲家 ver. 0.0』座談会・エッセイ・論考等々の感想を。
まず、『Rhetorica #04 』の書物としての装丁(装丁は太田知也)に関して。私はデザインというものへの関心や感受性が近年ようやく生じ始めたところなのですが、この書物のデザインが注力されて成ったものであることは、私のような素人にも察せられ、あれこれと思いをめぐらせました。そういえば、表紙に描かれている(カバーデザインは永良凌)威容を振るわせる怪魚(と私の眼には映っていた)を見て、大友克洋『さよならにっぽん』(1981年6月、双葉社)の表紙の鯨を連想した、と述べられている、ある方のツイートを見て初めて、そうかこれは鯨なのか、と私はようやく気付きました。それまで私は、これらの表紙を見ながら、なぜか、ワラスボ(0.0を見て)とチャカチャカ(1.0を見て)という二種類の魚を連想してしまっていました。どうしてそのような連想をしたのかと、あれこれ連想を書き連ねたくなりますが、このままだと、しまいには柴田哲孝『日本怪魚伝』(単行本は2007年3月、角川学芸出版)のことさえも(ゼロ年代の本だからと)話し始めてしまい収拾がつかなくなりそうなので、それは打ち切って、この段落を結びます。
話を戻して、金子朝一「20081224」(扉絵)の感想を。私は、この扉絵にも、自分の記憶にある些か異なるいくつかの風景を重ねてしまっていました(どうにも、手前勝手な、私的な連想のよすがにしてばかりで、申し訳ないです。ただ、思うに、こうした飛躍した連想、繰り返されるトラウマの想起のような、妄想の付着で膨れ上がる書きぶりが、私の書く文章の基調となっている気もします。――白状すれば、この記事を書くことで、自分が、何をどう描いているのかを自分で確かめなおせたら、自分の方法というものを把握できたら、という下心が私にはあるのでした。閑話休題)。私は惜別の情に浸りましたが、しかしこの絵に示されているのが別れの時ではなく、実は、遠来からこちらに来る知己を迎える時の一幕であったならば、などとも思いもしました。
瀬下翔太・垣貫城二・太田知也「生き延びてしまった一〇年」(座談会)は、私にあったものやなかったもののことを思い起こしつつ読みました。その意味では、石井正巳・松本友也「私家版一〇年代文学部小史」(対談)もそのように読みました。両者には、マーク・フィッシャーの生き様や文章に滲む気分というものがどう心を捉えるものであったのかを教わる気分でした。私はそれを新たな「時代閉塞の現状」(石川啄木)の気分と形容したくなりますが、こんな風にかこつけるのは、ちょっと安易に過ぎるかもしれません。とはいえ私は現在と明治末の「時代閉塞」のありようを比較することは、面白い試みとなるような気もします。「デザイン・イーストから見る一〇年代デザイン小史」でも、これまで知らなかった事柄を多く学びました(ブルース・スターリングへの関心が強まりました。『ハッカーを追え!』から、読んでみたいと思います)。まとめれば、持続可能か否かという問いかけとその強迫的な反復のもたらす行き詰まりの気分とが絡み合う感じのなかでの模索、という気分を、これら三つの対談に通底する気分として私は感受しました。
そうまとめてみると、小川和キ「乗るべきはバイクより批評だった」(エッセイ)は、そうした気分とは対照的な気分を語るようにも感じられました。行き詰まりと模索。ある観点からはそうした風景に映っていたあの場にも、思わぬ接続というものが、確かにそこかしこに含まれていたし、今もそう映っているかもしれないこの場にも、思わぬ接続、「誤配」が含まれていることだろう。そんな予感を、そんな予感を持っていても構わないのだという気分を、私に抱かせるエッセイでした。思えば、私は批評と呼ばれるような文章を読み、「誤配」に出会い続けてきたわけですが、とりわけ夢中で読んできたのは、ネット外で名の知れた専門家や識者(であると、私が既に把握しているような人々)の文章よりは、むしろ、ネットサーフィンを繰り返した果てに辿り着いた、自分に不思議と「届く」文章を書く(私にとっては未知の)ブロガーたちの記事なのでした(例えば、『Follow the Accident, Fear the Set Plan』などが(私にとっては)そうしたブログに該当します。ただ、私が物知らずゆえにこの方のご本業を存じ上げない、というだけのことなのかもしれません)。
名倉編(聞き手=太田知也・垣貫城二)「太字遣い師たち」(インタビュー)と太田知也・垣貫城二・瀬下翔太「伊藤計劃連続体」(座談会)には、私がうまく乗れていなかったSFをめぐる一連の状況というものを教えて頂きました(名倉編『異セカイ系』落手し、読んでおりました。他にも、読みたいSF小説がたくさんできました)。麻枝龍「「内宇宙」が「セカイ」と出逢う」(論考)は、「ゼロ年代」をくぐって「伊藤計劃」以前から活動していたSF作家の山野浩一に出会う、という道筋が、ヨコ(例えば「東京」と「田舎」)の接続とは別の、いわばタテの思わぬ接続、といった様相めいて映り、味わい深く感じました(また、縁あって著者本人と直接お話をして、感想など申し上げる機会を頂きました。この論考の感想のほかにも、三島由紀夫『美しい星』に関してなどのお話ができて、とてもうれしかった記憶があります。山野浩一論の成稿、たのしみにしております)。北出栞「レクイエム・フォー・イノセンス」(エッセイ)は、『リトルバスターズ』に少しながら思い入れのある身としても、「「孤独」でありながら「みんな」であるという関係性」に思い入れのある身としても、切実な気持で読みました。ただ、「「セカイ系批評」再生宣言」などもあわせて読んだ結果、私には「セカイ系批評」に非常に親和的な面があるのと同時に、そこに描かれたのとは、ほとんど相容れないものに思えるような、ものの感じかた捉えかた考えかたが、染み付いている面もあるのだな、という自己理解に至りました。
白江幸司「侵犯的リアリズムと思考する原形質」(論考)は、まず文体に驚かされました(私は私の文体が、絡まった糸屑をボトボト落とすようで、別様の文体を求めてもいたので)。また、リアルへの出会いをイメージやコードの砕けるというか区分の「侵犯」が起こるところに見出す内容も、紙面を埋めつくような引用コマの拡がりも、大変刺激を受けました。少し外連味の強い物言いになりますが、私にこびりついていた作法を、「侵犯」するテクストでした。とりわけ興味深く読んだのは「空間・机―オブジェクトの配置と運動」(pp.74-75)の節で、道具に相応した振る舞いを促すモノ、という観点が拡がっていき、モノの多目的な転用とともに、目的で測られるモノとそうではないヒトという区分が「侵犯」されて、モノとしての人体までが現出する(ひょっとすると、それは、「原形質的」になった人体のようにも見えるミギーと、隣接するものでもあるのでしょうか)、という流れが、鮮やかに記憶に残りました。
瀬下翔太・太田知也・垣貫城二・永良凌「自閉と合宿」(プロジェクト)は、あのフォレストマンションに立ち寄った身としても思い深く、また、いわば「刺さる」イメージ・文言が散りばめられていて、素敵な気持になりました。また、エモオタクの「避暑の思い出」は、評言として適切かはわかりませんが、生の、ピュアな言葉という感触がありました。あと、「ナイルコア」の曲、とてもよい音でした。クセナキス「S.709」とか、the cabs「キェルツェの螺旋」とかが好きなので、聴覚からの刺激と、そういう曲で聴いた音の記憶とが混ざりあい、よい心地でした。声が音になるところ、音が声になるところには、とても興味があります。
DJsucoyacka(訳=tomohta)「日曜憂愁(Sunday Bluse)」(詩)は、伊藤計劃『虐殺器官』の、あの味気なさそうにピザを食べる場面の感じを思い起こした、という風に言うのが適しているのかな、と今は思っています。「だが、ぼくは自然体で祈る=否[ノット]ガチャ。もう戻らないことを受け入れているから。」等々、身に染みる寸言が散りばめられていました。宮崎悠暢「「ストリップ・ショー」批判序説」(エッセイ)は、「踊り」というものへの批評をする大事な試みの一つとして読ませて頂きました。私は踊る身体と踊られる劇場を切り離して、いわばキャラクターモデリングと背景モデリングを別々に組み合わせたものとして、「踊り」というものを捉えていたのですが、ここで語られる「ショー」の「構造」は、私のそのような不用意な分節化が取りこぼしていた視点を教えてくれるものだったと感じています。黒嵜想「10月9日」(エッセイ)に関しては、「私がひっくり返っても書けないタイプのイイカンジなやつ」(白江幸司)というのが、私が思うに私に見つかる最良の言葉です(私にとっても、これはそういう文章でした)。以上で感想を結びます。
以下では、自分の論考に関して述べます。
この論考での桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の引用頁数は、2004年11月に刊行された、富士見ミステリー文庫版に拠っています。2007年3月に富士見書房より刊行された単行本版や、2009年2月に刊行された角川文庫版とは対応していません。あえて確認しづらい富士見ミステリー文庫版を選択したことには(つまり、他の版の情報を載せなかったことには)、私なりの底意が幾つかありました。そのうちの一つは、むーの描いた表紙や挿絵を、この作品の構成要素として捨象しないという態度の示唆です。
私の論考は、途絶した駆け落ちのイメージをこの作品から引き出し、それを肥大させ、いわば全ての生をひとりきりの駆け落ちと化す地平を広げて、そこに「「孤独」でありながら「みんな」であるという関係性」を発明しようと試みている(つもりで書いた)とまとめうると思います(少なくとも、あの文章の主要な筋の一つです)。そのような私の読解において、むーのイラストは、欠かすことのできないものでした。実は、この表紙や挿絵には、以前から悪評が寄せられていました(可能なら幾つかのブログで富士見文庫版の感想を参照してみてください)。そこにはこのような文言が散見されました。この絵は、桜庭の書いた小説の内容に似つかわしくない、ほんわかしたぬるい絵、甘ったるい絵、萌え絵である、云々、と。私は、そうした意見に対して、「違う」と言ってみたかったのです。
私は、(わかりやすいと思う例で言えば)今日マチ子『cocoon』や、あるいは(少しわかりにくいが、むーのイラストにより近いと思う例で言えば)タカハシマコの幾つかの作品のように、むーのイラストは読まれるべきだ、と思いました。つまり、「まんが・アニメ的リアリズム」(東浩紀)の相において、です。大塚英志がいうところの、「傷つかない身体」に、血を流させること。この相において、むーのイラストは読まれるべきだと私は思いました。
(上で述べた、リアリズムに関連しての付記。岩明均『寄生獣』がセカイ系的想像力が成立する手前にある作品であるとすれば、「原形質的」に遊動するミギーから、その体を突き破って機械状の混合物が噴出したりする『最終兵器彼女』のキャラクター、ちせへ、というビジュアル上の変遷が、セカイ系なるものの成立を示す一つの範型なのではないかと思います。端的に言えば、こんな変遷です。すなわち、かわいいミギーから、かわいそうなちせへ。このあたり、相田裕『GUNSLINGER GIRL』においては「惨たらしさ」よりも「切ない「感情」」が前景化している、という伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』の指摘を引きつつ考えてみたいところなのですが、今の私には考えを深める準備が足りません。)
私は、イラストを小説と切り離して受容する、という態度に、また、むーのイラストが小説の内容とミスマッチだという読解に対して、「違う」と言ってみたかったのです(「ミスマッチ」を指摘するブログ記事として、kurosabi「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない、読了」(『黒錆』2006年5月14日)を挙げておきます。この記事を読んでいて、各々の箇所の評価は反対になっているものさえあるものの、私が論考で扱った主題のほとんどは、このブロガーと重なっているという事態に直面し、私は、私の論考がどこまで「私の」思考の産物であったのか、ますますわからなくなりつつあります)。つまり、私の論考は、むーのイラストの擁護を、その底意の一つとしていました。これは、ミクロな事柄への、個人的な執着と映るように思いますし、私自身もこれを理不尽な執着だとは思うのですが、この執着がなければ、私はあの論考を書き上げることはなかったと思います。
それでは、また。書きたいことが生じたら書きます。
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