一億総無能:赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい」を読む【2】

(承前)

4.

 三浦玲一は「労働者のアイデンティティ・ポリティクスにむけて――九〇年代を考える」(『言語社会 : Gensha』2013年3月)の中で、それが「貧富の差を、望ましくはないが個々人の能力の差の当然の結果であるとするリベラリズムのパラドクス」(p.125)を棚上げにしてきたという批判的な観点から、1990年代の「アイデンティティ・ポリティクス」の潮流を以下のようにまとめている。

[政治学者のウェンディ・ブラウンは]フェミニストの立場からアイデンティティ・ポリティクスを再評価しながら、多様なアイデンティティ・ポリティクスは、抑圧されたマイノリティが、ヘゲモニックなアイデンティティ――合衆国の場合で言えば、具体的には多くの場合、白人異性愛男性のアイデンティティ――と同等の扱いを求める(だけの)運動であるので、それはリベラリズムの拡大と完遂の運動ではあっても真の社会変革に至らないと、最終的にそれは、ニーチェの言うルサンチマン、憎悪や復讐の感情の解消でしかないと指摘した。アイデンティティ・ポリティクスは――まさしくグローバル化時代の九〇年代の政治として――よりよい、より平等なリベラリズムの完遂を目標としている。ただし、われわれは、もうすでに気付いているように、「よりよい、より平等なリベラリズム」とは、リベラリズムが資本主義の別名であるかぎり、より平等でより苛烈な競争社会を意味しているかもしれない。そしてまた、「よりよい、より平等なリベラリズム」は、リベラリズムの外部を決して想像することはない――それが、みなが現状のリベラリズムにおけるヘゲモニックな主体との平等を求める運動であるかぎり。それはリベラリズムを完遂し、それをオルタナティヴのない閉域として閉じさせる。[三浦、p.135]

 さながら、マーク・フィッシャーの語る「資本主義リアリズム」を髣髴とさせるような閉塞感とともに展開される三浦の議論が喚起するのは、「アイデンティティ・ポリティクス」がいわば「可能性としての中流」めいた構図におさまっているのではないか、という危惧であると思われる。不正な抑圧さえなければ、誰もが「上」に――例えば、「白人異性愛男性」並みに――なれるという希望に「アイデンティティ・ポリティクス」が支えられていたとしたら、そして、そのことが〈平等〉の理念を掘り崩していたとしたら?

 それだけではない。三浦並びにブラウンの指摘には「よりよい、より平等なリベラリズム」が、仮に「より平等でより苛烈な競争社会を意味」するとすれば、もはや「アイデンティティ・ポリティクス」自体がより多く再分配を受ける権利(が備わったアイデンティティ)を誰が上手に勝ち取るのかの競争と化してしまうという危惧すら示唆しているように感じられる(それ自体が杞憂ないしは有害な妄想であると批判できるかもしれないが)。

 ブラウン並びに三浦の、こうした指摘には、「白人異性愛男性」あるいは何らかのマジョリティであることを、幾らかのプレイヤーへと無作為に付与されたチートスキルのように見なして(あるいは、何らかのマイノリティであることを、幾名かのプレイヤーへと無作為に付与されたバッドステータスのように見なして)批判して、ゲームの設定を修正するか〈詫び石〉を配布するかせよと〈運営〉に要請するのが「アイデンティティ・ポリティクス」の根幹である、と捉えるかのごとき気配さえ感じられる。

 このような比喩を引っ張っていえば、ブラウン並びに三浦がいうところの「真の社会変革」とは、おそらく、プレイヤー同士で協力したり争ったりする水準での「変革」ではなく、端的に〈運営〉を解体してゲームを終らせることである。つまり、それはこのような「競争社会」自体の「変革」のことであり、「競争」の解消としての「平等」の達成である。――誰もに〈上〉と並びうる権限(つまり〈上〉になる可能性)を認めることではなく、誰もが現に「中」であるようにすること。――この「平等」への情念を、誰もが(私のように、あるいは、私よりも)〈下〉になってしまえばよいという類の「ルサンチマン」、いわばレベリング・ダウンへの情念と選り分けうる(そして現実に何らかの制度や実践をもたらしうる)と信じる立場に、「真の社会変革」は賭けている、ということになろう。――そして、このような「平等」を赤木は夢見ていた、ような気配がある。赤木の議論に戻ろう。

5.

 改めて確認しておけば「「丸山眞男」をひっぱたきたい」の語り手(赤木)にとっての親世代とは、「中流意識」そして「向上」の「実現可能性」という観念ないし願望を、より年長の世代に注入されてきた世代であるとともに、より年少の世代に注入してもいた世代としてあった。「「丸山眞男」をひっぱたきたい」の語り手は、だから、親世代によってその身に「庶民の夢」への願望を注入されながらも、その願望が充足される条件の崩壊過程を認識してしまった、そのような動作主なのである。

月給は10万円強。北関東の実家で暮らしているので生活はなんとかなる。だが、本当は実家などで暮らしたくない。両親とはソリが合わないし、車がないとまともに生活できないような土地柄も嫌いだ。ここにいると、まるで軟禁されているような気分になってくる。できるなら東京の安いアパートでも借りて一人暮らしをしたい。しかし、今の経済状況ではかなわない。30代の男が、自分の生活する場所すら自分で決められない。しかも、この情けない状況すらいつまで続くか分からない。年老いた父親が働けなくなれば、生活の保障はないのだ。[赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい――31歳フリーター。希望は、戦争。」2007年]

 語り手に注入された願望が、語り手が現在置かれている社会的立場を、己自らにとって耐えがたいものにしている。語り手による移動や居住の自由の希求、また、先に見たような結婚し子供を養育することへの希求は、個人的な無能力の認識とも結びついていく。今や「庶民の夢」の実現を可能にしていた歴史的な条件は崩壊しているにもかかわらず、「庶民の夢」はなお希求され、それが実現不可能である理由は、個人的な無能力に求められている。

 そして何よりもキツイのは、そうした私たちの苦境を、世間がまったく理解してくれないことだ。「仕事が大変だ」という愚痴にはあっさりと首を縦に振る世間が、「マトモな仕事につけなくて大変だ」という愚痴には「それは努力が足りないからだ」と嘲笑を浴びせる。何をしていいか分からないのに、何かをしなければならないというプレッシャーばかり与えられるが、もがいたからといって事態が好転する可能性は低い。そんな状況で希望を持って生きられる人間などいない。[赤木同上]

 誰もかつてのような「マトモな仕事につ」く方法を提示できないにもかかわらず、「マトモな仕事につけな」いのは「努力が足りないから」だという言説がまかりとおる。過程を問わない結果のみを要求する指令が発せられ、その結果に至るための過程としての適切さの度合いは、指令した側ですらも把握できずにいるままに、「努力」という語で無規定なままに神秘化され、個人化されている。つまり、無規定な「努力」とは、結果に至る過程を事後的に正当化する神秘的な観念に過ぎず、この意味で、個体化された「努力」不足なるイメージは、因果的な説明を放棄した思考停止の口実に過ぎない。ところがこの神秘主義的自己責任論とでも呼ぶべき思想は、徹底的な無能力の観念を産出するという点で、ユートピアを思い描く端緒をもたらす。徹底的な無能力の観念は、己も(一時的な混乱さえ収束すれば)社会に包摂されるはずだという希望を消尽せしめ、そこからの脱包摂とともにある、反統治の情念を掻き立てる。欲望は、例えばこのようにして、つねにすでに革命的になっていたと気づかさせる。――どこかで文章の読解と呼びうる範疇を逸してしまったかもしれない。話を戻そう。――技能を持てないという無能力や希望を持てないという無能力は、語り手の中ではさらに経験し成長することができないという無能力と結合している。語り手は「職業訓練の機会と賃金を十分に与えられた高齢者」なるものと対置する仕方で、自らを、徹底的に無能力なもの――赤木の文中では「フリーター」――とみなしている。

結局、社会はリストラにおびえる中高年に同情を寄せる一方で、就職がかなわず、低賃金労働に押し込められたフリーターのことなど見向きもしなかった。最初から就職していないのだから、その状態のままであることは問題と考えられなかったのだ。
 [……]ちなみに、64・0%の企業が「経験・能力次第で採用」としているが、そもそも不況という社会の一方的な都合によって、就職という職業訓練の機会を奪われたのがフリーターなのだから、実質的には「採用しない」と意味は同じだ。その一方で、職業訓練の機会と賃金を十分に与えられた高齢者に対しては97・3%の企業がなんらかの継続雇用制度を導入するとしており、その偏りは明白である。[赤木同上]

 語り手は、このようにして、自らの「人並みの生活をしたいという意識」と自らの無能力に引き裂かれることになる。しかもその引き裂かれを、必然として語り手は把握する。語り手は、自らを、運や能力の不足によって「下」にいるのではなく、「中」以上が維持されるために「下」に固定されていると認識している(そして、その「中」とはおそらく、語り手が「高齢者」と呼ぶものであり、また「ソリが合わない」という「両親」のことでもあり、要は幻想上の「庶民」に歴史的な意匠がほどこされた戯画であって、ある「可能性としての中流」の想像上の構成員こそが、ここで何よりも念頭に置かれている当の対象だと推定すべきであろう)。

どうしてこのような不平等が許容されるのか。それはワーキングプアの論理が「平和な社会の実現」に根ざす考え方だからだと、私は考える。平和な安定した社会を達成するためには、その人の生活レベルを維持することが最大目的となる。だから同じ弱者であっても、これまでにより多く消費してきた高齢者には、豊かな生活を保障し、少ない消費しかしてこなかった若者は貧困でも構わないという考え方に至ってしまうのではないか。
 不況直後、「ワークシェアリング」などという言葉はあったが、いまだにそれが達成される兆しがないのは、誰も仕事を若者に譲らないし、譲らせようともしないからだ。若者に仕事を譲ろうとすれば、誰かの生活レベルを下げなければならないのだが、それは非常な困難を伴う。持ち家で仲良く暮らしている家族に、「家を売ってください。離婚してください」とは言えないだろう。一方で最初からシングルでアパート暮らしの若者に、結婚して家を買えるだけの賃金を与えないことは非常に簡単だし、良心もさほど痛まない。だから社会は、それを許容する。[赤木同上]

 この記述では、年齢と階層が同一視されているが、ここで確認したいのは、語り手が、自らを「下」に留め置き続ける(技能、希望、経験と成長を蓄積する機会から遠ざけ、低賃金で労働させる)のが、現行の社会にとって望ましい事態だ、と捉えている点である。もはや豊かになる見込みのない現行の社会は、そのような仕方でしか、自分を包摂しないはずだと信じている。語り手は、いかなる自立支援も、自らを死なせずに「下」に留め置くために、ただそのためのみに作動する機制だと断じ、絶望している。そして、それゆえにこそ、この語り手は、ユートピアの到来を「期待」することになる。この幻想とこの無能力を社会によって培われた、ある身体としての、自らの本性に必然的に従って、いわば、自動的に、そのように「期待」するのである。

(6.に続く)

参考


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?