少女、ノーフューチャー:桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』論【後編】2018.11.25

以下は、team:Rhetorica企画+編集『Rhetorica #04 特集:棲家 ver. 0.0』(2018.11.25発行)に寄稿した論考「少女、ノーフューチャー」を、許諾を得て再掲したものです。字数が3万字弱あるため、前中後の三編に分けて掲載します。誤字・脱字や数字表記など、表現を一部改めました。

中編は以下。

7、少女・ノーフューチャー

 成熟の教えへと導く「トリック」。それは、少なくとも、錯時法に備わった覆しがたい一面である。――しかしながら、他面から見れば、この錯時法こそが反成熟の教えへと導くヒントであるかもしれない。実のところ、錯時法は、出来事の継起的な順序と、その目的論的な配列とが必ずしも一致するわけではないことも証し立てているのではないか。人が生き残ることに不可避に成熟が伴うという経時的な事態は、人は生き残るために成熟しなければならないという成熟の教えと、切断しうるのである。時系列が乱しえないことは、事の次第の必然性とは、無関係かもしれない。注意しよう。成熟の教えを載せる単線的な時系列に対して、反成熟の教えとともに可能な限り分岐する時間の束がある――わけではない。むしろ、逆である。継起する物事の一回性を、必然性と混同するのが成熟の教えであり――だから、可能だったはずの別様の物事が、反実仮想されるのである――反成熟の教えとは、きっと、そんな可能性を消尽させ、必然性も放棄し、一回性を見出すことである。――だから、こう言いなおそう。――なぎさは藻屑を助けることができない。それはすでに過去の事柄だから覆せない――必然であるがゆえに、助けることができた場合を反実仮想できる――からではなく、まさに助けられない、その瞬間が、一回的な事柄だからである。

 語り手としての「生き残る」なぎさと対比する限り、藻屑は、反「生き残り」の側に割り振られざるをえないだろう。なぎさは物語の最後まで生き残り、藻屑は物語の途中で死ぬ。――あるいは、物語の初めから死んでいた。しかし、だからといって、なぎさは生で藻屑は死、といった二項対立を置かねばならないのではない。光と闇のように、鏡合わせだと解さずともよいのだ。錯時法は、時系列の順序と語り手による配列とのあいだに不一致をつくりだすことによって、逆説的に、その語りに権利上先立って生起したはずの事柄、語り手に帰属しえない、時間にともなって起きた出来事というものを想像する、よすがとなる。――乱暴だが、こう言ってみよう。――物語の結末まで生き延びている者も、物語世界の中で、遠い未来には死んでいる。物語の中途で、それどころか、初めから死んでいた者も、物語世界の中で、確かに、その者なりの現在を生きていたはずなのだ。語り手がそれらをどう捉えようと、物語がそれらをどこでどう区切ろうと、誰もが、ただ、生まれて死ぬ。そんな権利上あるはずの時間の相の下に捉えるならば、藻屑は途中で「生き残りゲーム」から脱落したのだなどという陰鬱な解釈を退かせて、無邪気に笑う藻屑の生を、肯定することも、できるはずだ。

 この小説は、なぎさの目を通して、生き生きとしている藻屑の生を描いてもいるのだ。いみじくも、藻屑が殺される、まさにその直前に。「藻屑の白い家は今日もガランとして、人の気配がなかった。藻屑は「ここで待っててね」とささやいて、一人で玄関に向かっていった。あたしは、自分がいまいる場所が、かつて花名島正太と二人で藻屑のイリュージョンにだまされたときに立っていたのと同じ場所だと気づいた。無意識に目をこらして、ドアに向かう藻屑をじぃっと見た。今度はサイレンも鳴らず、藻屑も立ち止まらず、ドアを開けて藻屑は玄関に入ると、こちらを振り返って小さく手を振った。にこっと無邪気な笑みを見せた。本当に楽しそうな、うれしそうな微笑で、あたしは海野藻屑がにやにや笑いとかじゃなくてほんとに笑ってるのを見るのはこれが初めてだと気づいた」(『弾丸』178頁)。――失敗がすでに決定しているがゆえに一層ユートピアへの二人の逃避行を反実仮想させるような、泣かせ所としてではない。――虐待を繰り返す親に殺されることも厭わない「ある種の "ストックホルム症候群" 」ないし生き残るためのマゾヒズムのもたらす必然的帰結としてでもない。――再生産的未来主義を弾劾する、死の欲動と見紛うような生き残れなさを体現する身振りとしてでもない。――この一回的な「ほんとに笑ってるの」を、この「無邪気な笑み」を浮かべる藻屑を、その生を肯定すること。

 大塚のように、あくまで成熟して生き延びる限りで、というのではなく、エーデルマンのように、生き延びられないからこその否定性として、というのでもない、ある肯定。そのような少女性、少女の生、その〈同じさ〉の肯定を試みるためには、きっと、こんな文献が手掛かりとなる。「少女とは、男性と女性、子供と大人など、二項的に対立する全ての項と同時に存在する、いわば生成変化のブロックである。[……]少女とは男女両性に当てはまる女性への生成変化であり、同様にして子供とは、あらゆる年齢に当てはまる未成熟への生成変化である」(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』中巻、宇野邦一+小沢秋広+田中敏彦+豊崎光一+宮林寛+守中高明訳、2010年10月、河出書房新社、243-245頁、強調は引用者)。――私たちは、いかにして藻屑の生を肯定するのか。――藻屑の死後ばかり考える再生産的未来主義を批判して、藻屑の生の瞬間を際立たせることで。――支配側と服従側に人を分断し割り振る「生き残りゲーム」を解除して、私たちの平等を発明することで。――陰惨な処方箋と化した成熟の教えを退けて、藻屑と誰もが分かち持つような、よろこばしき〈同じさ〉を見出すことで。

 おそらく、桜庭の「ビバ変人!」もまた、錯時法のように反転させることができる。こうして、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は、汎少女論的観点から、差し当たり、次のように読解される。――藻屑の生の軌跡を、「生き残る」ことのできない悲しい子供のそれとしてではなく、「繰り返し出会」うような、「命がけの勢いで嘘を貫こう」とする人々の姿を呼び起こす、よすがとして読むこと。そんな人々のうちの一人の、生き生きとした生の軌跡の一つとして、肯定してみること。――もし、誰もがある種のマゾヒストであり、誰もが「ある種の "ストックホルム症候群" 」であるならば、きっと、誰もが「命がけの勢いで嘘を貫こう」とする姿を呼び起こすことができるはずなのだ。――この小説は、再生産的な生殖の枠組みの中で続いていくような物語、過去から未来までを規定しつくすような錯時法の、その目的論から逸れていく、あるいは、その目的を超え出ていくような、「生成変化」する私たちが織り成す関係性への、いわば奇妙なつながりへの、愛を呼び覚ます、よすが、なのである。――その奇妙な永遠の相の下では、誰もが、多かれ少なかれ「変人」として、「変人」であるがゆえに、おのおのに相応しいある瞬間において、こんな声で呼びかけられているはずだ。――「ビバ」!――生を!――と。それは、呼び覚ます――「生き残る」ことできた者と「生き残る」ことのできなかった者、小説の中の登場人物たちとあとがきで登場する「変人」たち、もうどこにもいない私あるいはあなたと、いまここにいるあなたあるいは私、そんな全てを貫いて伸びていく、無数の生の軌跡の織物への愛。――つまり、テクストへの愛を【※注2】。

※注2】この愛を、ベルサーニに倣って、非人称的なナルシシズムと呼んでおきたい。ベルサーニは、アダム・フィリップスとの共著『親密性』(檜垣達哉・宮澤由歌訳、2012年7月、洛北出版)において、プラトンの著作に描かれた少年愛を次のように論じている。「いずれにおいても、愛とは記憶に関わる現象であり、ナルシスティックな陶酔状態を巡る事例なのである。『饗宴』と『パイドロス』の両方からはっきりとみてとれるように、プラトンにおいて愛とは自己愛であり、主体の自己自身との関係である。それはナルシシズムのひとつのかたちである」(『親密性』134頁)。しかしながら、「わたしはこの愛を、非人称的なナルシシズムと名づける。なぜならば、主体がみるような、他者のなかで反映された自己とは、近代的な個人主義概念の中心にある、比類なき人格性とは別のものだからである。[……]古代ギリシア文化においても、わたしたちの文化と同じく、対立的なアイデンティティという枠をはめる事例はたくさんある。市民‐奴隷、男性‐女性、能動者‐受動者、愛する者‐愛される者(エラトスとエロメノス)。〔だが〕プラトンの『パイドロス』は明らかに、こうした認識能力の領野を解体するものである。とくに、能動的に愛する者と受動的に愛される者の対立を、ある種の相互的な自己理解を設定することによって解体するのである。そうした自己理解において、同一性と差異性とのあいだの対立そのものが、存在を構成するカテゴリーとして無意味なものになるのだ」(『親密性』142‐143頁)。つまり、ベルサーニは、主体が他者のなかに見出す自己性が、誰であれ何者かの硬直的なアイデンティティの規定を越え、主体や他者を横断して見出されるような、ある同じさとなっている、そうした自己愛を「非人称的なナルシシズム」と呼んでいる。
 おそらく、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の語り手である、なぎさの、藻屑を忘れまいとするその語り口には、「非人称的なナルシシズム」が感じられる。「あたしは、暴力も喪失も痛みもなにもなかったふりをしてある日つらっと大人になるだろう。友達の死を若き日の勲章みたいに居酒屋で飲みながら憐情たっぷりに語るような腐った大人にはなりたくない。胸の中でどうにも整理できない事件をどうにもできないまま大人になる気がする。だけど十三歳でここにいて周りには同じようなへっぽこ武器でぽこぽこへんなものを撃ちながら戦っている兵士たちがほかにもいて、生き残ったこと死んじゃった子がいたことはけして忘れないと思う。/忘れない。/遠い日の戦死者名簿の中に、知らない土地の知らない子たちの名前とともに、ひっそりと、海野藻屑の名前も漂っている」(『弾丸203-204頁』)。なぎさの語りの立場は不安定である。一方で、なぎさは、生き残った大人の側から死んでしまった子供の側を語ろうとしているようでもある。なぎさが、自らの失った子供らしさを惜しんでいるのか、自らの内なる子供らしさを愛しんでいるのかは、ここでは判然としない。しかしそれゆえ、他方では、もはや自分でも藻屑でもない、「同じようなへっぽこ武器でぽこぽこへんなものを撃ちながら戦っている兵士たち」の同じさ、つまり、子供たちの同じさを、なぎさが忘れまいとしている、とこの箇所を読むこともできる。「十三歳でここにい」ることと「遠い日の戦死者名簿」を眺めること、これらの二重視は、文字を知覚しながら物語を想像する小説の読者の二重性と、通じ合うように思える。いわば小説を読むこと自体が「非人称的なナルシシズム」のレッスンなのかもしれない。

 だが、その生の軌跡を肯定することに、無数の生の軌跡を肯定することに、何の意義があるというのか。 

8、あるいは少女の未来

 私たちは、藻屑が「生き残って大人に」なれかったことを嘆くのではなく、むしろ、人魚として「生き抜く」藻屑の生を、肯定するべきなのではないか。では、人魚の生とは何か。そこにある軌跡とは、何か。「人魚は無性でね。だけど女性的な生き物なんだ。みんなこの海で生まれて、世界じゅうの海に散るんだけど、十年に一度の繁殖期になると命がけで戻ってくる」(『弾丸』29頁)。これでは、あまりに「女性的」に過ぎるようにも思える。それは結局、ある特別な「嘘」を生きることであり、そこには、他と孤絶した生があるに過ぎないのではないか。

 しかし、藻屑はなぎさにこうも話していた。「「秘密を教えてあげる」/藻屑のでっかい真っ黒な瞳が見開かれた。/「ほんとはね、ほんとの友達を捜しにきたの。大事な友達。ぼくのためだけにすげーがんばってくれるいい感じの友達。そいつが見つからないと、海の藻屑になっちゃうの」」(『弾丸』27頁)。そして「藻屑はまじめな顔で、/「友達になって」」(同)となぎさに語る。人魚の生を「生き抜く」藻屑は、「命がけで」、「友達を捜しに」きていたのだ。そして、そんな藻屑は、ここで確かに、十年前の海難事故で父を亡くして「実弾」そして「"おにいちゃん教"」という幻想に縋りながら実は「心の中でだけもうダメだよ、と弱音を吐いてる」(『弾丸』147頁)なぎさに出会い、そして、二人は友達になっていた。「あたしは、あたしの父親が本当に船ごと消えてしまったことまで嘘のネタにすることがどんなに無神経であたしを傷つけるかできれば説明したかったけれど、藻屑に話しても通じない気がして、言わなかった。だけど泣きそうな顔でもじもじしながらなおも砂糖菓子の弾丸を撃ち続けようとする藻屑の顔に、あぁ、この子は友達だ、となぜか思った」(『弾丸』120頁)。藻屑は自らの生を無に――あのミネラルウォーターのような否定性に――帰せしめる力へと抗うために、何者かと「友達」としての縁を結ぼうと試みていたのだ。――そして、きっと、〈同じさ〉を認め合う誰もが、そう試みている。

 特異な「嘘」を「命がけ」で「生き抜く」ような無数の生が綾なす、「繰り返し」生起する幾つもの関係性。――そこでは、もはや、誰に誰の面影が重ねられているか、ということは問題ではなくなり、いわば、誰に帰属することもないその面影の〈同じさ〉が、関係の網目のなかに遍在する。――無数の生、その軌跡の肯定とは、この〈同じさ〉の肯定であり、そこで私たちは、私たちが「友達だ、となぜか思」えるようになる、はずだ。――きっと、そこでは、私たちの平等が発明されている。

 しかしながら、銘記しよう。――藻屑が「友達になって」と語りかけたのが、私たちではなく、なぎさであった、ということを。――私たちは、同じ時点、同じ地点を生きるがゆえに、藻屑や、なぎさと、〈同じさ〉を認め合うのではない、ということを。――私たちと、なぎさや藻屑とは、孤絶している。――それどころか、藻屑となぎさ、この二人のあいだにさえも、孤絶がある。――生の、孤絶。――突き詰めて考えるならば、あるV-tuberに〈中の人〉がいるのか、botで動いているだけなのか、私(たち)には判断できない。それにもかかわらず、私が〈私たち〉と口にすることができるのは、V-tuberに私のような〈中の人〉がいると、信じる限りにおいてのことである。――そして、そう信じることができるのは、キャラクターに私のような〈中の人〉がいるかのように、また、私ではない誰かに私のような〈中の人〉がいるかのように、そのように信じる限りにおいてであり――私たちの〈同じさ〉とは、この孤独にして複数の〈中の人〉における〈同じさ〉のことなのである。――生の肯定とは、おそらく、――かくも全き孤絶にもかかわらず――この〈同じさ〉を、信じることであり、信じて呼びかけることであり、そして、――あたかもその呼びかけであるかのようにして――特異な生を、「生き抜く」ことなのである。

 無数の生を、その軌跡を肯定しようとするとき、私たちは、成熟の教えではなく、平等の教えを、藻屑の姿に学んでいたことに気づく。――いや。教え、と呼ぶことは、もはや不適当であるかもしれない。――全体主義的な動員から演劇の観客を解放するために必要なのは、啓蒙ではない。そもそも、観客が一律に反応していると決め込むのが、罠である。フランスの哲学者、ジャック・ランシエールはそのように論じている。「観客たちに共通の能力は、彼らがある集団の構成員であるという資格からくるのでもなければ、何か特別な形の双方向性からくるものでもない、各々が各々のやり方で自分の感じ取るものを翻訳し、それを特異な知的冒険に結びつける、誰もが持っている能力である。この知的冒険は、それが他のどんな知的冒険とも似通っていないかぎりで、各々を他のあらゆるものと平等にする」(「解放された観客」『解放された観客』同書22-23頁)。これまで、私たちが抗おうと試みてきたもの――成熟の教え、「この世は生き残りゲーム」という見方、再生産的未来主義など――は、誰もかもを一律な動員に巻込もうとする点で、全体主義的だったと言えよう。それらはいずれも、いわば、「滅び」に抗う総力戦への動員に誘導する、一種の罠であった。私たちの平等が発明されるとき――無数の生の軌跡、その〈同じさ〉が肯定されるとき――私たちは、孤絶した世界で、各々が「冒険」していることを――各々が「冒険」していると信じながら「冒険」していることを――各々の姿を以て示すのである。――「生成変化」の姿を以て。

 おのおのが、その特異な孤絶の中では――しかし、「ビバ」!――生を!――という声とともにあるところでは――たとえ、その他の目線から、どのように――あたかも大人であるとか、大人ぶっているだとかのように――映っていたとしても、誰もが、平等に、少女へと「生成変化」しているのであり、「ぽこぽこへんなものを撃って戦ってる」(『弾丸』203頁)のだ。――「ゲーム」を「生き残る」ためにではなく、「特異な知的冒険」を「生き抜く」ために。――敵を抹消するためにではなく、友に呼びかけるために。――生とは「特異な知的冒険」なのだ。

 だが、それにしても、なぜ少女なのか、なぜ汎少女なのかといえば……。――おそらく、この文章が書き出される、そのはじまりに関わる、ある事柄を述べて、論を終えたい。――桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の、富士見ミステリ文庫版の表紙には、イラストレーターの、むーによる、なぎさと藻屑の姿絵が描かれている。同文庫版にはその姿絵の他にも、何枚かなぎさと藻屑の絵が描かれているのだが、興味深いことに二人の姿は――物語にはそのような外見上の類似を示唆する記述は見出されないにもかかわらず――どこか似通っており、いうなれば、双生児的、というよりむしろ、クローン的な同じさを感じさせる造形になっている。この、むーのイラスト自体が、小説本文への「ミスディレクション」であり、私はそれにあまりに強く惹かれているだけなのかもしれない。だが、私は、そこにこそ、再生産されるべき過去によく似た紋切り型の未来だけを正当化するような、陰惨なある種の発達史観に抵抗する、別の錯時法を予感させられる、あるいは、時の流れへの従属に至る無力感を拒むような、幾つもの場景を想起させられる。――そのように感じたのである。――「とにかく問題は過去へのノスタルジーではなく、過去と現在の関係を変えることです。過ぎ去らない過去ということで言いたいのはそれです。現在のただなかに根本的な要求を突きつける過去です」(ジャック・ランシエール『平等の方法』市田良彦、上尾真道、信友建志、箱田徹訳、2014年10月、航思社、207頁)。――きっと、それゆえに。――あの日、あの時、あの目に映った、むーのイラストは、「生き残る」ことのできなかった子供として藻屑を回想する、いまや成熟しつつあるだろう、やや大人びた、結びにいるなぎさの姿よりも、もっと、ずっと強く、ずっと鮮やかに、藻屑へと「一緒に逃げようか」と漏らして、藻屑の本当にまぶしい笑顔を目に焼き付けもする、子供のなぎさの姿を想起させ、――そして、担任教師の言うような意味で「生き抜く」気があったのかどうかはともかく、いや、きっと、別の仕方で「生き抜く」ことに一生懸命であったであろう、さながら作者である桜庭一樹が出会ったという「命がけの勢いで嘘を貫こうとし」た女の子のように、リアルとフィクションが交錯するようなつくり話、いや、「砂糖菓子の弾丸」を通して、「大事な友達。ぼくのためだけにすげーがんばってくれるいい感じの友達」とともにある生を望み、戦っていた少女、海野藻屑が、「冒険」の果て、ついに見つかった「いい感じの友達」に向けていた、「本当に楽しそうな、うれしそうな」笑顔を、そして、その「無邪気な笑み」を浮かべる生き生きとした姿を、それを目にしたものは、きっと、誰でもが、想起することができるのである。――例えば、心の中でそっと、こんな風に口ずさみつつ。――瞬間よ。そのままであれ。汝はいかにも美しい。

9、ノーフューチャーの結び

 だから、いつか絶滅するからといって人類の生に価値がないわけではないとしよう。

 だから、たとえ自分の代で終わるからといって一族の生に価値がないわけではないとしよう。

 だから、いずれ死ぬからといって、いま、ここでの、この生に価値がないわけではないとしよう。

 未来はなくとも、生は輝く。――きっと、「僕らは今のなかで/輝きを待ってた」【※注3】。

※注3】成上友織『リワルド』(2014年5月、手書き)のエピグラフより孫引き。μ’s『僕らは今のなかで』(作詞:畑亜紀、作曲:森慎太郎、2013年1月、Lantis)の結びの一節である。


V I V A N O F U T U R E !


参考文献

大塚英志『少女民俗学――世紀末の神話をつむぐ「巫女の末裔」』(1989年5月、光文社[カッパ・サイエンス])
桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollypop or A Bullet』(2004年11月、富士見書房[富士見ミステリー文庫])
成上友織『リワルド』(二〇一四年五月、手書き)
羽生有希「クィア・ネガティヴィティの不可能な肯定――固有/適切でない主体の脱構築的批評」『Gender and sexuality』第11号、2016年、国際基督教大学ジェンダー研究センター)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』中巻(宇野邦一+小沢秋広+田中敏彦+豊崎光一+宮林寛+守中高明訳、2010年10月、河出書房新社)
リー・エーデルマン『ノー・フューチャー ――クィア理論と死の欲動』(2004年、デューク大学出版)。原著はLee Edelman『No Future――Queer Theory and the Death Drive』Duke University Press, 2004。引用は私訳。
レオ・ベルサーニ『フロイト的身体――精神分析と美学』(長原豊訳、1999年9月、青土社)
レオ・ベルサーニ+アダム・フィリップス『親密性』(檜垣達哉・宮澤由歌訳、2012年7月、洛北出版)
ジャック・ランシエール『解放された観客』(梶田裕訳、2013年11月、法政大学出版局)
ジャック・ランシエール『平等の方法』(市田良彦、上尾真道、信友建志、箱田徹訳、2014年10月、航思社)

[了]

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?