少女、ノーフューチャー:桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』論【補遺-後】2020.01.09

以下は、team:Rhetorica企画+編集『Rhetorica #04 特集:棲家 ver. 0.0』(2018.11.25発行)に寄稿した論考「少女、ノーフューチャー」に関連する記事です。論考の内容に関しては、許諾を得てnoteに分割し転載しました(一部ですが加筆や修正を施しました)。この論考以外でも幾つかの文章で桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』に触れていましたので、それらに関して現時点でまとめておこうという趣旨で、この記事を執筆しました。先日書いた【補遺-前】の続きです。

それでは、記事のリンクとコメントを置いていきます。以下、言及する人名の敬称は省略した旨、ご寛恕ください。

ある人生の充実に向けて[2020.07.03]

論考「少女、ノーフューチャー」と「さようなら、百合男子(前編)」とのふたつを書いてから、2年近く後に書いた記事です。記事中の「ミステリ:事件と日常の図地反転、転換点としての死」という章で『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を取り上げなおしました。以下に抜粋します。

この小説の主眼は、日常に向き合うことを逃避する空想からいかにして脱するのかであり、出来事の一部始終は家族的なものの圏域――親子や兄妹、大人と子供、虐待と生き残り――におさまるものであるかのように映る。しかし、例えば何が藻屑の死(雅愛による殺人)をもたらしたのかを問いなおすとき、違う相貌を見出すこともできる。図地を反転させよう。この物語は、堺港市を舞台にして、山田なぎさや海野藻屑が生きた非日常な家庭で起きた事件を描いているように映ってきた。だが、堺港市の日常の側こそを、問題含みなものとして見出すことも可能なのではないか。つまり、小泉義之が西尾維新作品に見出したような、「「複雑怪奇な、暴力的でしかもグロテスクな計算」によって成立する中産階級市民の世界」のようなものを、この作品にも見出す余地があるのではないか。

この論考では、西尾維新の作品『きみとぼくの壊れた世界』にジャンル批評的で(いわゆる「社会派」的ではない)社会批評的な側面を見出した、小泉義之の評論を参照しながら、同じようなアプローチができる「ミステリ」として『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を再読することを試みました。別の作品ですが、ここで用いたのと同じような観点からいわゆる日常系ミステリのライトノベルを論じたものとして、実は以下のような記事も(「ある人生の充実に向けて」を仕上げる1か月ほど前に)アップロードしていました。

前回の記事では、主に「百合」作品という観点から自論考の振り返りを試みました。それでは、ここで「ミステリ」作品としての観点から自論考を振り返られるかというと、少し違う様相になりそうです(例えば、作中で起きたが真相が明示されていないように映る、なぎさの飼育を担当していた学校のウサギたちの惨殺事件などの解説は元の論考ではできませんでしたし、この補遺でも控えさせてください)。ここで語るのは、なぎさと藻屑という二者関係に注目すると後景化してしまうような様々なキャラクターたちや、物語の舞台となる架空の土地、堺港市のことです。――とはいえ付け加えれば、鷹城宏「おわりからはじまる物語、はじまりでおわる物語」(『クリティカ』2006年8号)や、相川美恵子「『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(桜庭一樹・作)を読む」(『龍谷大學論集』2011年10月)など、ミステリ的ライトノベル的観点から作品を読解した先行文献があって、私の論考や記事ではそれらに触れられなかったことを、反省点として、まず、挙げておきたいと思います。

論考「少女、ノーフューチャー」や「さようなら、百合男子(前編)」では物語中での語り手なぎさと藻屑の関係を、抑圧や搾取、様々な暴力に満ちた社会から離脱するユートピア希求的な衝動が込められたものとして解釈し、その意義や可能性、一見「失敗」や「死」に還元されてしまうように思える出来事の別の捉え方を提示しようと試みていました。しかし他方で、暴力の行使を伴いもする権力関係や、ふたりを苦しめるように映る社会の構造などが具体的にどのような在り方をしており、どこでどう暴力が作動しているのかについては、かなり単純化して捉えていたように映ります。――具体的に言えば、藻屑の父親である雅愛という、並外れて愚かで狂った一個人の凶行に、物語に瀰漫する暴力性を象徴させがちであったように思えます。

しかし「さようなら、百合男子(前編)」でも触れたように、藻屑が暴力を振るわれまた振るいもする花名島正太をはじめ、様々な人物の働きかけが、なぎさと藻屑の行動や決断に絡み合っていました。――経済的に苦しい状況で「珍しい動物」または「貴族」として扶養されており、なぎさの進路選択を歪ませてもいる、ひきこもり状態の兄、友彦や、はじめは藻屑を、そして藻屑を庇ったなぎさをもイジメの標的に狙っていたと言える、クラスメイト(映子など)たちや、なぎさや藻屑の家庭問題を解決するため奔走していた(残念ながら一方でなぎさを心理的に追い込んでしまい、他方で藻屑を守るには遅れてしまった映るが)教師などです。こうしたミクロな力関係の網目を辿っていくことによって、ふたりが脱出を試みるに至った「日常」に蠢く権力関係を読み解きつつ、物語中の様々な人物の振る舞いやそこで発揮された効果を捉えていくことをこの章「ミステリ:事件と日常の図地反転、転換点としての死」では志向していました。――もちろん、なぎさの亡くなった父、なぎさの母、藻屑の口から憎々しげに語られる藻屑の母、あるいは扶養される友彦の姿と重なりもするように映る、学校でなぎさが飼育を担当しているウサギなど、上記以外にも様々なアクターがこの物語のうねりのなかで絡み合いながら相互に照応し影響しあっているように思われます。その意味で、私の読解では作中のあらゆるキャラクターを数え上げたわけではなく、それらの関係性の全てを論じることができたのでもありませんでした。

諸キャラクターたちの(心の動きなども含む)やり取りをミクロなものと解するなら、それらを条件づけるマクロなものとして、堺港市という都市の、地勢や産業構造などを考えられるでしょう。再び記事から抜粋します

そもそも、堺港市は、次のような舞台であるとされていた。港町で、夏の夜の海の光景は神秘的だ。「一方、山のほうには、あたしが生まれたころにできた原発がある。ていうか、田舎に作ったほうがいいと都会の人が考えるすべてのものがこの町にある。原発。刑務所。少年院。精神病院。それから自衛隊の駐屯地。だからあたしたちはあんまり山のほうには近づかない」(19)。現実離れした戯画に対するような語り口は実は、堺港市という土地、空間を貫く権力関係を強調してもいる。なぎさは映画館の料金表に自衛隊割引の項目を発見し、こう述べてもいる。「お国のために多国籍軍に参加したりする一員になれば、映画も安く見れるのかぁ」(20)。なぎさの自衛隊への関心は明らかに境港市の地域性に根差しており、弾丸や兵士の比喩でさえ土地の身近なリアルに裏打ちされているのだ(注5)。

物語世界のリアリティというよりは、言語芸術としての象徴性に近しい観点になりますが、ふたりの姓――山田と海野――を念頭に置いたとき、堺港市が体現する海(神秘的なもの)と山(見たくないもの)という対照は意味深に感じられます。――雅愛の唄う曲の歌詞に登場する人魚のようにバラバラになった藻屑の死体は山へと遺棄されていました。――あるいはなぎさ(渚あるいは汀?)という名は、山と海、苦しい日常と美しい幻想の境域に身を置くこの語り手の境遇と容易に照応するものでしょう。

また「自衛隊の駐屯地」は他の施設以上にこの物語では重要に思えます。というのは、なぎさが求める経済的自立の像が自衛隊に入隊することであり、「実弾」や「砂糖菓子の弾丸」など、なぎさの語りでは子供の生活を自衛隊員(銃を持つ兵士)と重ねる比喩が重要であり、物語の終盤で兄、友彦が現に自衛隊に入隊することで「成長」したように描かれてもいるからです。

この兵士になる子供たちというテーマは、この作品が出版されたゼロ年代という時代性(自衛隊イラク派遣)と通じあうと共に、同時代のセカイ系作品とすらも通じあうように思えます。関連する自分のツイートを引用します。

この時期のセカイ系は、ファンタジー化した「戦争」を背景とした「純愛」作品群としても読み解きうるものだったのかもしれません(例えばイリヤやサイカノには、同時期の「難病」を背景にした恋愛もの、『世界の中心で、愛をさけぶ』や、『半分の月がのぼる空』、あるいは「死」の要素が色濃いティーンズ向け作品、『しにがみのバラッド。』『シゴフミ』そして『地獄少女』などとすら、通じ合うところを見出せるかもしれません)。――以下に示した「ある人生の充実に向けて」以後の記事では、セカイ系と関連付けるかたちで、ふたりの社会からの脱出の情念を再び考えなおしました。

視聴したMVの話02[2020.09.11]

これは、視聴していたMVに触発された徒然を書く趣旨の記事ですが、ここでは大きな狙いとして、自分の「セカイ系」などへの関心を、自己分析することを志向していました(前島賢『セカイ系とは何か』など、関連する様々な先行文献があったのですが、自身が執着する幾つかのモチーフと、そこに自分が何を見出したがっているのかという記述に力点があったこともあり、ほぼ、参照できませんでした)。関連個所を、以下に抜粋します。

――私が、セカイ系や感傷マゾといった言葉を用いてなされる感情の動きの語りに見出したがっているのは、改めて考えてみると、桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(2004)を読んだときに私の心が動くときに、通ずるようなメカニズムだったのかもしれません。――暴力と叙情、回想と痛み。藻屑の嘯く「人魚」たちに倣った、「とにかく、ここじゃないところ」への旅立ち、理想郷、「どこか遠いところを夢見て」EXITすること、その失敗。

私は、一種のガール・ミーツ・ガール小説としても読みうるであろう『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が私の心を動かすメカニズムは、「落ちもの」や「セカイ系」のみならず、ひょっとすると「感傷マゾ」にさえ通ずるようなものなのではないかと思ってしまいます。どうも遭遇した少女への恋着というテーマには還元しきれないものがそこに含まれているように思います。例えば、桜庭一樹『ブルースカイ』(2005)がゼロ年代にセカイ系として受容されてもいたことなどを念頭に置けば、こうした捉え方も相応に検討の余地があると言ってよいようにも思えます。すでに言説の蓄積があるとはいえ、「落ちもの」「セカイ系」「感傷マゾ」といった言葉で語られる心の動きの記述や諸作品の関連付けには、まだ掘り下げていく余地があると思います。考えてみれば、TV放映版の最終話サブタイトルが(ハーラン・エリスン作品の題名を捩って)「世界の中心でアイを叫んだけもの」だったアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(TV1995-1996)の取り上げられ方に比して、片山恭一の小説で映像化もされ受容されていた『世界の中心で、愛をさけぶ』(2001)があまり掘り返されない(難病と早逝という要素ゆえに、住野よる『君の膵臓を食べたい』(2015)のような恋愛物語と比較もできるはずです)といった、今日の状況を念頭に置くだけでも、この辺りのジャンルの系図のつくり方には、まだ様々なヴァリエーションが残されていると言ってもよいように感じられます(私の不見識ゆえに、おそらくすでに提出されているはずの様々な系図を見落としている面もあるかとは思いますが、それでも)。私自身はここまで、「落ちもの」を軸として、世界の激変(社会の度外視)にも通ずるような一種の駆け落ち願望(とその失敗や不可能性、それらに由来するトラウマ的追想)の行方として「セカイ系」や「感傷マゾ」を位置づけようとしてきたのだと思います。こうした見立てを取ることで私は、己の執着する情感を催させるように思える作品を、すでにあるジャンル用語と、うまく接続させることができるようになってきた気がしています。

こうして振り返ると、2年近く前に「さようなら、百合男子(前編)」で論じていた観点に、戻ってきていたと気づかされます。どうしてもケリをつけたいような何かが、このあたりにあるのかもしれません。――でも、そこにケリをつけたら、また新しく、もう少し、読みこみたいところが、浮上してくるのかもしれません。

ひとつの物語に触れ、このように時間をかけ、読みなおし、考えて、書いていけることは、とてもさいわいなことだと改めて思います。こうした作品にまたどんどん出会っていきたいですし、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』についても、また、書きたくなったら、書きたいと思っています。

[了]

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