メモ(加速主義の浅瀬で)

※ジジェクと小泉義之の本に関する私的な思い出をちょっと書いた感じなのであまり踏み込んで紹介とかできていません。

小泉義之「資本主義の軛」(『闘争と統治 ― 小泉義之政治論集成 II 』月曜社2021年7月所収)で『闇の自己啓発』が引用された、しかも自分の書いた箇所が引用されたと知ったとき、私は心密かに思い描いていたある事態が到来するのではないかと考えていた(『闇の自己啓発』第1章注30「加速主義」の説明は私が書いていた)。次の指摘を誰かから受けることだ。すなわち、日語版のロジャー・ゼラズニイ『光の王』においては「accelerationism」が「加速主義」ではなく「促進主義」と訳されているではないか(訳者は深町眞理子)という指摘を。このことについて触れられなかったのは心残りのひとつだった(心残りは他にも色々。例えば校正をしている期間に刊行されていた森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』を紹介できなかったことなど)。

もうひとつ白状すると、こんな胡乱なやつ(江永)に任せていられるかと英国で批評理論を専攻するベンジャミン・ノイズ Benjamin Noysの著作『悪性の加速MALIGN VELOCITIES』(2014,ZeroBooks)を紹介するひとが現れるのを待っていたりした。それで「資本主義の軛」を読んだが、私の予感は予感のまま潰えてしまった。ちなみに現在の日本ではノイズが加速主義を「ポスドク小児病postgraduate disorder」と診断した逸話だけが流布しており(日語だと「大学院障害」と訳されがちだがレーニンの「左翼小児病」をもじった表現なのと日本の学究界で就活ほか労働市場へ適応せよとする諸々の圧にやられて大変なのはポスドクの時期だという話が出がちなのでこの方がニュアンスが伝わるかと思う)ノイズが加速主義の系譜を批判的に辿る一方「私は加速主義の、特に美的なものとしてのそれの魅力を否定しきれない I can’t deny the appeal of accelerationism, particularly as an aesthetic」(『悪性の加速』前書き)と述べる書き手でもあると知られていないのは遺憾にも思う (ただの加速主義(者)おちょくり芸人ではないのに)。小泉「資本主義の軛」に話を戻す。

実は「資本主義の軛」の初っ端から、ベンジャミン・ノイズの「ベン」が抜けて「ジャミン・ノイズ」と書かれていて(『闘争と統治』347頁)私は、びっくりしてしまった。私が『闇自己』で書き間違えていたか、そういう略称があるのかと確認したが、たぶん脱字だと思う。電波妨害でいうノイズ・ジャミングにあやかった筆名と解した結果なのだろうか、などと憶測した。とはいえ論考「資本主義の軛」の内容自体は、加速主義を資本主義に対する「褒め殺し戦術」と見た上で、ありうべき事例を挙げ、加速主義への常識的反論が「反動的で保守的な未来論」(349頁)に過ぎないと述べて斥け、加速主義の難点がどこにあるか指摘しつつも、「「資本主義」の危機を「企業」の危機と読みかえ」(353頁)その程度で事足れりとする流れには棹差すことなく「支配層の夢と加速主義の夢の闘いこそが、「空白期間」を終わらせ資本主義を病死に導き、終に「前史」を終わらせ新たな歴史を始める(マルクス)ということになろう」(358頁)とぶち上げており、元気になるものだった。

ちなみに小泉義之がどれほど加速感あるかというと、例えば医薬品開発や診療などを完全に自動化できるなら人件費も専門家権力も消し去れて万々歳であるし「そのとき、医師による支配に代えて、機械による支配が始まるかもしれないが、どっちもどっちとしか言いようがないだけではなく、仮にそれに抵抗するとしたなら、医師を破壊するより機械を破壊する方がはるかにコストはかからないから楽であり、その意味でも機械化は民衆の利益にかなうことになるだろう」(『闘争と統治』348-349頁)と書きつけたりする程で、流石は『倫理学』(人文書院,2010年1)でジジェクの身振りをそしてまた行動に込めるものを肯ずる書き手だった(あんな舌鋒では毒舌芸人扱いされるのも宜なることとは認めつつ)。こんなツイートがあったのが記憶に残っている。

ジジェクは何を言うかよりどのように言うかで印象に残る手合いだと一般に認識されているはずだ。また、ものすごい勢いで著述を発表する点も印象深いだろう。それはジジェクが言葉を届けるために本気だということなのではないか、と私は思うことがある(もちろん書けるから書いている側面もあるだろうが)。実際、あるとき百田尚樹『日本国紀』とユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』が平積みになっていた、とあるカルチュア・コンビニエンス・クラブ関連の書店にも、ジジェク『パンデミック2』は、並んでいた。私は、選書や企画内容に美学なり使命感なりを感じる(しばしば地域密着型の)小規模な古書店もスタイリッシュな大型書店もよく利用するが、かつての私が辿りつけたのは(しばしば志の欠如を批判される)ある種の新古書店やコンビニなどであって(あと図書館や図書室など公共施設にも恵まれていたのだが)、またこの手のブログ記事であって、だから自分が何か書くときはかつての自分みたいな手合いに届くだろうかと、気になったりする。

もちろんジジェクは喩えを喩えで説明したり理論を理論で説明したりする箇所も多く、全体としてどんな体系が提示されているかぼんやりしたまま、残るのは面白い個々の挿話の記憶とやたらキレのいい皮肉(逆張り?)と全体的なトーンないし姿勢だけといった読後感を残すこともままあり、だから、そういうのが無理というひとが敬遠するのもわかる(もっとも、ジジェクの著述の品の無さや雑駁さが嫌だというひとが、別の事柄に関してならそれと同じ程度に品が無く雑駁な言葉に飛びつくといった例も間々見られたので、正直、自分が好きな推しか嫌いなアンチかが先に来ていて、美意識や理屈や志の評価は後付けなんじゃないか、と疑わしくなるときも間々ある。自分がいつでもそれを免れていると思えるほど他人事でもない話だけれど)。ただ私の場合、ジジェクがラカンについて述べていた一節が(ラカン読解ないし精神分析理解としての精確性と別に)、ふと頭に浮かび、試した実践が本当にうまくいってしまったと感じた記憶があり(傾聴だけではどうにもならないときにオウム返しをしたら悪い話題のループが止まった)、なので現に役に立ったものの枠にジジェクの言葉が(少なくとも少しだけ)入っている。派手な大見得、ガチャガチャな言葉の渦が、生をほんとうに変えてしまったり支えてしまったりする。例えば小泉義之に関してもそういうものに映る。

私は十数年前のとき学校で自分をいじめてきていた級友(「×ね」「エ×ズ」「×××菌」などと言われたりした)の頭を椅子で殴ろうとして教員に羽交い絞めにされた体験(止めてもらったことは本当に感謝している)に囚われていた頃に(あのときどうすればよかったのか? 私はいまどういう責任を負っているか、そもそも責任を負っているのか? 次に似たことが起こったらどうするべきか? 等々)、小泉義之の「自爆する子の前で哲学は可能か」(『「負け組」の哲学』人文書院2006年7月所収)を読んで救われた経験以来、どうしても小泉著作に、元気にさせられてしまう(学校でいじめを受けたり、家庭で諸々あったりして、元々やってしまいがちだった自傷が悪化した程度である、曲がりなりにも経済大国育ちの人間が、自分を「生き残ってしまった」ような人間だと考えるのも、おこがましい話かもしれないが)。他方、小泉の特筆点はこの手の話をしつつ「学者」や「批評家」を長年きちんとやってきたことでもある。とすると手の平を返すようだが、詩画を能くする士大夫よろしく、農民や田園の代わりに貧者や無力な者のいる風景を格式高く詠んできた官吏のような人物に過ぎないのではないかと、論難をできてしまうような気もする(この点、ジジェクは潔い。手元にないので記憶頼りだがアメリカのシンポジウムで「あなたがアメリカでヒッチコックの話をするのが混迷を極める今のユーゴスラビア情勢にどのように役に立つのか」みたいに訊かれたジジェクはぶちギれて「じゃあおまえがアメリカでヒッチコックの話をするのが今のユーゴスラビアにどのように役に立つのか?」と返したはずだ。確か『快楽の転移』か『幻想の感染』で述べていたと思う)。私はしかしやはり「穢土たる資本制に対する厭離を取りまとめ」る挙措の到来を、私がそれを肯ずるか否むかはそのときまでわからないが、己なりに、待ってもいる(小泉義之「戦いから祈りへ、観想から霊性へ」2021結びから引用)。

で、加速の話。ノイズは、加速主義をこう評価している。資本主義下の労働というものを「エクストリームでこじらせた愉楽のある現場 site of extreme and perverse enjoyment」として取り上げるのが加速主義であり、そしてそれは「労働の悲惨と喜びというものに体験として注意を払う pays attention to the misery and joys of labor as an experience」のだ、と。だから政治理論としては失敗の(とノイズは診断する)加速主義(的な感受性とその表現)が、今尚、資本主義下の労働の問題性を剔抉しているのだ、と。つまり、加速主義(者)は、社会病理の原因ではなく、症状なのだ、と。とすると加速主義に惹かれがちな私は私の眼に映る風景を語るべきなのだろうか。ある「病者の光学」として? もっとも「病」の当事者の発言が「病」の発生機序を言い当てうるのかは怪しい。だが太陽の沈む位置が昔とはズレてしまったとの北方のインディアンの迷信じみた証言が実は大気汚染の影響の反映だったとの話(ブライドル『ニュー・ダーク・エイジ』所収)に励まされもする。「病」の当事者なりに傍迷惑さを減らし困りごとをなくすためのDIY的工夫を同じような「病」の者向けに喋る、以上の何かが可能かもしれない、と思う。

これも遺憾なことだが、私は『悪性の加速』も読み終えてない。私は加速主義の浅瀬にいるに過ぎない。だが言えることも多少はあろう。白状すると私がCCRU(サイバネティック文化研究ユニット)の諸テクストを翻訳しもしてきた書き手である桜井夕也の『HAKENKREUZ HALLUCINATION』を手にしたのは2010年代前半のことであったはずで(桜井さんにこれを言いそびれてきた。ここに謝する)、私は10年程のあいだ、いうなれば加速主義の浅瀬をうろうろしていたわけである(水やネット小説その他を大量に摂取しつつ)。

加速主義は労働の悲惨と喜びを捉えるという。例えばそれはストロングゼロ文学だろうか。強度ゼロという洒落じみた話だけではない。アディクション的な消費、その見せびらかし、それによる集団づくりからなる文化。それはファスト時事評論の総本山たるTwitterでのおしゃべりと似ている。ストゼロの飲みっぷりをきっかけに人気者になるVTUBERを主人公にした小説がラノベとして発売されるようにもはや現実の時事評論とネット小説の諸描写とはぐちゃぐちゃだ(「親ガチャ」や「ムリゲー社会」とネット小説内のボキャブラリにどれほどの隔たりがあろう?)。私が加速主義に関心を持つ理由の一端は、私がネット小説で摂取してきた主題と同じものが語られていると感ずるからである(批評理論や文化研究としての関心その他の関心もある)。ノイズほど割り切れないにせよ、ネット小説の主題群に私の病みつきを探り、私なりの加速主義(者)への目配せとするだろう。私のような感性がどうして生じ、それに何ができるか、一方では理論を他方では作品を検討し、またそれらに触れた私に体験するところを吟味して考えるだろう。

[了]

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