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広島に軍隊の乗船基地があったことを教えてくれた『暁の宇品』(堀川惠子 著)は、一級のノンフィクションである。

なぜ、広島に原爆が落とされたのか。著者の疑問から軍隊の乗船基地「宇品」の存在が浮かび上がる。軍港の「呉」を知る人は多いが、「宇品」を知る人はほとんどいないだろう。
「宇品」は物資や兵隊を輸送する日本一大きな輸送基地だった。だから、原爆投下の候補地に選ばれたのか。そもそも、そこに置かれた陸軍船舶司令部とはどんなところだったのか。船舶司令部を通して、日中戦争から太平洋戦争、敗戦に至るまでを見事に描いた、読み応えのある一冊である。

 私は歴史に詳しくなく、日中戦争や太平洋戦争がどういうものだったのか、よく知らなかったのだが、本書を読むと、いかに無謀な戦争だったのかがわかる。日中戦争は、地理的に近いところだったこともあり、兵士や物資の輸送もなんとかなったが、それでも船舶は不足し、上陸用舟艇の開発も遅れていた。いってみれば、付け刃、出たとこ勝負の戦争だったのである。

 宇品の船舶司令部で新しい舟艇の開発を指揮し、兵隊や物資の輸送を指揮していたのが田尻昌次である。彼とともに舟艇の開発をしたのが技術者の市原健蔵だが、私と同郷の山形県酒田市の出身だという。ズーズー弁で話をする木訥な人物だったようだが、この2人の出会いがなければ、舟艇の開発も進まなかっただろう。

 私は、かねがね、日本はどうして南方にまで手を広げたのだろうと思っていたのだが、日中戦争が続く中で、資材の不足が露呈し、「じゃあ、南方で調達しよう」ということになったらしい。
 しかし、中国と違い、南方は遠い。船舶も必要だし、戦地への食料も運ばなくてはならない。しかし、日中戦争を始める当初から船舶は不足気味だった。造船は民間に任せていたため、日本軍が使える船舶はあまりなかったのだ。

 田尻は「現状ではとても南進に必要な船舶を用意できない」と軍中枢部に意見具申する。捨て身の申し入れである。
 しばらくして倉庫で火災が起き、その責任を問われ、諭旨免職されてしまう。不審火が原因だったのだが、その背後には田尻を現場から遠ざけようという思惑があったようだ。

 こうして田尻は軍隊を追われてしまい、現実を見ようとしない軍中枢部は「ナントカナル」と南方への進軍を決行してしまうのである。   

 田尻の退官後、船舶司令部には何人かの司令官が着任するが、印象的なのが広島の原爆を目の当たりにした佐伯文郎である。
 
 原爆が投下された日、佐伯はすぐさま広島市内に兵士を送り、現状を調査する。刻一刻と状況が変わる中、火災の鎮火活動、人命救助、物資の支給と矢継ぎ早に対策を立てていく。

 そのあまりの手際によさに著者は「どうして災害救助の知識があったのだろう?」と疑問を持つのだが、佐伯の軍歴を知ることで納得する。彼は関東大震災のときに東京で救助に当たっていたのだ。
 もし、彼に災害時の対応の心得がなければ、広島の被害はさらに甚大になっていたにちがいない。

 近年、自衛隊への紛争地での活動が期待され、「国内の災害救助は自衛隊の任ではない」という人もいるが、そもそも軍隊は国民の命を守るために組織されている。災害救助もまた自衛隊の大きな役割の1つといえるのではないだろうか。

 著者は広島の出身である。それでも「宇品」の歴史についてはほとんど知る機会がなかったという。歴史の彼方に消えつつあった船舶司令部の存在を世に知らしめたのは大きな功績といえるだろう。
 

       

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