「法然と極楽浄土」逝く者と遺される者、ボクとツマ

見に来ていた皆様方、結構気さくに楽しまれていたのが印象的で、ボクとしては、当麻曼荼羅という織物でできた極楽浄土の有り様を描いた作品がとても迫力があってとても気に入ったり、六文字の名号もやっぱり素敵だなぁ、色々な法然上人の顔があって法然上人はこんな顔をしていたのだなぁと思いったりした一方、

帰りに二人で他の作品の話をしてハッとした事を記そうと思う。

法然上人が往生される間際を、お釈迦さまの大涅槃図に準えて描かれていたものが沢山あって、まあ乾いた表現をすると床に臥し亡くなられるときの絵と言っていいのだろうか。

とにかく、弟子たちや動物たちも臥した人の周りで色々な表情で悲しんでいるの。

独学かつ浅学で恐縮ではあるけれど、僕からすると往生とは阿弥陀様が迎えに来てくださり極楽浄土に生まれかわる事であって、涅槃とは悟りを永遠に持続する事、悟りの完成という解釈なのだ。

どちらも生き物としての不自由な肉体を離れ、痛みも苦しみもなく思い悩むことも二度とない世界に逝くという有り難い至上の幸せで救いなのだ。押し付けるつもりはないのだけれど。

さてさて、帰りに妻はぽつりとこういったのです。
周りの人が皆んな悲しんでいる事を何回も何回も見させられて辛かったと。

それを聞いて僕はそうか、遺された一人一人の気持ちを大切に感じていて、もしかしたら、妻は彼らに自分を重ねていたのではないかと思ったのです。

確かに多くの人が悲しい顔をして、泣き咽ぶしていて(寝込んでしまっている様な人もいた様な気もする)気の毒な可哀想な気持ちも湧いていました。

日々タイムラインを見ているだけで不安に思ったり哀しみで涙が溢れることもあります。

一方で何故か歴史上の宗教上の方々に対して、僕は逝く者の立場と何か高いところから偉そうな目線で見ていたのではないかと思ったのです。

話を戻すと、とにかく妻にそう言われると、皆を遺して逝く事が比較リアリティな僕としては、それはそれで込み上げるモノがあるのです。

(然し乍ら、その刻は阿弥陀様が迎えにこられて其の様な心の煩いを消してくださるのです。其処には痛みも恐れも悲しみもないのでしょう)

末筆ながら、改めて師匠を探してもっともっと勉強させていただいて正しく理解し実践しながら、永く長く生きて往たいと思うのでした。

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