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「め」METAFIVEから小山田圭吾について

 私の仕事は年度末に絞め殺されるくらいに忙しいため3月は更新がかなり滞ると思います。みなさんの記事を読みながらエバの公開が始まっていたり、欲しかった雑誌が一瞬で売り切れてしまっていたりと中々に世間から切り離されている状態です。朝5時おきの6時終わりくらいでしょうか。だいたい毎日12時間労働です。。。。

さあ、そんなことはもういいでしょう。今日は自分お好きなことを書くのだ。

今回は稀代のビッグバンドメタファイブについて書こうと思います。最近メガバンドって無いよなあって記事です。

メガバンドとは

 芽がバンド?目がバンド?最近の変換ソフトではもはや打ち込んでも上手に変換してくれない。なんならメガって最近は見ないですよねえ。MBって書いても読めない人の方が多いんじゃないですか??

メガバイトってある程度パソコンとかいじっている人とか、昔の携帯にミニSDカードを差していた人は読めるだろう。今やメガはすごい単位ではないんですね。dLとかと同じようにメガなんて今やどこで使ってるんだろうねえとか言われそうなもんです。

昔の定義としてはものすごい巨大なものにメガ〇〇みたいな感じで名前の頭に付けたりしていましたね。メガテリウムとメガ牛丼とかやってましたよねえ。

その一つにメガバンドなるものがあったのです。

っていう風に私は使っていたんですが今更ちゃんと調べるとあんまりちゃんとした定義もなくて、曖昧にタワレコのレコメンドくらいでコソコソ使われていた単語みたいですね。いやはや恥ずかしい。

まあ、もう600字くらい書いてしまったのでこのまんま突っ走ります!!

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たまに自分しか知らない言葉で喋ってしまって??って顔されるのあるあるですよね。自分自身田舎者なので怒ったときに二人称を「おめえ」って言ってしまうし、青たんのことを「あおなじみ」って言う。もう、こればっかりは神様くらい優しかったおばあちゃんでさえ二人称が「おめえ」だったし一人称は「おれ」だったのでしょうがないのだ。もう、言葉遣いって難しいんですよねえ。

完全に脱線。

そんなメガバンドってものの定義ってものは私の中では、恐ろしいほどのキャリアを重ねながら、その雄達が各々集まって組んだバンドという感じだ。例えるとすると、ウィー・アー・ザ・ワールドのメンツでバンドも組んじゃう?みたいなノリで組まれた音楽ファンからすると垂涎物となるバンドなのだ。スーパーバンドとも言ったりするだろうか。

このバンドもそうである。

では、バイオグラフィーを。

METAFIVE(左から:高橋幸宏、LEO今井、砂原良徳、TOWA TEI、小山田圭吾、ゴンドウトモヒコ)
それぞれが日本の音楽シーンに特別で、独特な存在を築いてきたレジェンドの集合体である、まさに夢のバンド。2016年1月にオリジナルアルバム『META』をリリース。同年8月には、アルバム発売直後に行われたEXシアター六本木でのライブを全曲完全映像化した作品『METALIVE』を、11月にはオリジナル曲5曲を収録したミニアルバム『METAHALF』を発売。2020年7月、約4年ぶりとなる新曲『環境と心理』をリリースした。
cinra net より

要は各々の歩んできた過去に恐ろしいほどの栄光があり、それによってリスナーもハードルを高くしてしまうがこのバンドは優にこれを超えてしまう。まずはこれを聴いてほしい。

本来ならば、オリンピックが開かれるはずだったときに合わせてリリースするはずだったのだろう。ただし環境はコロナ一色になってしまった。その中で各々世代を





までが今年の三月に書いていた記事になります。

まさか、小山田圭吾がこんな形で取り上げられるとは、、、ということで今回は自分なりの彼に対する意見を述べていこうかなと思います。

切り売りパートに代わって:音楽と人間性について

 いい音楽と作る人はいい人間であるべきなのか。よくそんなことが議論に挙がる。私はいつも思っているが、いい音楽を作っているからと言っていい人間である必要は無い。なんなら所謂世間において駄目だと烙印をされているような人のほうが何かしら欠点を持っている。それを魅力として音楽をしているんではなかろうか。自分と人を比べたときに人は何かしらが足りないということをいつか自覚する。その欠点について歌っていたり、そんな欠点もいいじゃないかと肯定してくれたりする。そんな歌に最近の人は拠り所として音楽を聞いているんではなかろうか。つまりは、自分のできないところ駄目なところこそ個性であり、それを見つめ直し曲にしてきた。

しかし、彼は強者であったのだ。

現代における音楽のメインストリームはイケてるというよりは、ナードなんだけどクールのような影が必要なように感じる。星野源など時代を代表するような人々はスクールカーストにおいて低も低といって失礼にならないか怖いが、それが魅力になっている。

そんな音楽シーンにおいて小山田圭吾のいじめインタビューについての記事はセンセーショナルすぎた。

しかしだ、音楽オタクというかロキノンと言われるような人々はきっとそうだったと思うのだが、「ああ、ばれちゃったかあ」というのが正直な意見だ。この小山田圭吾の記事はネット界隈ではここ十年ずっと言われてきたことだ。ただし、音楽的に行っていることが先進的であり、僕らの敬愛する細野晴臣さんたち率いるYMOにもサポートで参加していることから黙認というか、なんというか違和感はありながらも受容されて来てしまったのだと思う。そこに彼もあぐらをかいてしまったのだろうか。そこは彼のみぞ知る世界である。

つまりは、常々爆弾を抱えてきた人のものがついに爆発したかというくらいの感想である。

しかし、いじめっ子が音楽やってたってバレてないだけでお前もやってたんじゃないの?って問い詰めてみたい。

人はそんなに綺麗じゃない。それはさっきまでも書いてきた。しかし、それには上と下が存在する。私は学生の頃その枠が嫌いで嫌いでしょうがなかった。しかし、上にも欠点は存在する。まあ、上だからこそクソみたいな欠点があるのだ。あの頃のいじめっ子どもよいつかバレてしまえと思ったものだ。

そんな、モヤモヤとした感情と無形となるインターネットの魔法によってエクスプロージョンが起きたんだろう。

しかし、小山田圭吾はあなたたちのいじめっ子では無いんだよ?とも思うんだ。小山田圭吾について批判ができるならあの頃やってきやがったあいつらに一発かましてやらないか?という提言で今日は終わろうと思います。

まあ、傍から見てるやつが書いていることなので何いってんだよ!とかいろんなことを思う人もいるでしょう。しかし、ここにこんなことを書くということも踏まえて言いたい。私はみんなを愛したい。いろんなことを踏まえてこんな記事に引っかかってくれた人たち。そう、あなたという存在に感謝と敬意を込めて。数ヶ月も記事を書いてないこんな自分の記事を開いてくれたあなたに愛を込めて。

人を傷つけるより、優しくしていこうよ。

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