折に触れて

 人に迷惑をかけないこと、一見ネガテイブに見えたり旧態依然なコンサバテイブなことのように見えるが、実は社会生活を送る上で最も大切な感覚だと思われてならない。個々人のセンス特に時間感覚によってその現れ方が違うが、この感覚は従来日本人が得意としたアイテムであり、判断の根拠であった筈である。今一度、この感覚を思い出しては如何であろうか。


 目先のことから考えるとその場では人に迷惑をかけないことでも中長期的に見れば、そうしたことを続けると先ではドカンと他人に災難をもたらすようになる、そういうことは世の中に数多存在する。

 知識や経験が人間に知恵をもたらし、目先では耐えるがその時間にこういうことをしておけば災難を回避することが出来る、そんな事例が多数存在するのが歴史を見ればすぐにわかる。

 何かの事象に対面したときには、冷静に現状と経緯を見極め、将来的にどうすることが最大限の効果をもたらすかを考え、そのベクトルに向けて短期計画、中期計画、長期計画をもってベクトル上を紆余曲折しながら地道に努力を重ねてゆくことこそが必要に思われてならない。


 考えてみると、自分のために生きている人生は意味の無いことのように思える。殊更、そんなことを思わなくても生物である以上は自分のために栄養補給し、血族を残し、それなりに知識を蓄積しようとしている。生物として本能がそうさせているし、アドレナリン、ドーパミン、テストステロン、、、等々の物質が身体を駆け巡ってその瞬間瞬間の反応をもたらしている。


 そう考えたときに、自分の人生の意味というものがあるとしたら、それは何か?自分が生きたことによって、他人、特に後輩の誰かが「いいことをしてくれたね」と思ってくれるような爪痕を残すことかな?とこの頃はつくづくそう思う。

 子どもに資産を残せば愛する子どもたちに争いの種になったり、健全な精神・進退の成長の妨げになったりもする。楽に生きることが幸せという価値は自分の奮闘の結果なら真だが、不労所得で楽に生きることは単なる徒食だと思う。

 また、地位を目標に処世のノウハウに生きるのも何か虚しいように思えてならない。地位は他人のために努力する精神と能力に与えられるべきであり、自分が望んで得るものではないと思う。


 個人の日々の生活にしても短絡的にパブロフの犬の反応のように動くことばかりを続けてゆくと果ては支離滅裂な人生を送り、いったい自分は何のために生きているのか分からなってしまう。それもいいと思う人にはそれでもいいことではあるが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?