折に触れて(戦国大名への脱皮)

ある意味、両上杉が手打ちをして合体したことで伊勢宗瑞にとっては踏ん切りがついたというところだったのかも知れない。北条記という後北条氏のことを書いた本にはこういう夢物語が書かれている。「2本の大きな杉の木を鼠が根本から囓っている。やがて杉は2本ながらに倒れてしまい、鼠は虎に変化する。」伊勢宗瑞は子年の生まれだから山内・扇谷両上杉ともに後北条氏に倒されるという夢のお告げだという話である。
確かに立河原の戦いで勝ちすぎてしまい、山内上杉の力を見くびって油断した部分はあるだろう。ただ、山内・扇谷の両上杉にしろ古河公方にしろ、この時代にあっては根拠が乏しくなった既得権益にすがっているに過ぎない。既に伊勢宗瑞自身は堀越公方家という権威だけで実体のない存在を葬り去っている。この上は自分が権威となって権力を行使してゆけば良いのだ、と改めて覚悟を固めたように感じる。1506年、戦国大名の走りに相応しく相模の統治地域で本格的な検地を行なったことが伝えられている。優秀な事務方官僚上がりの経歴に見合う卓抜した民政能力もチラチラと見せ始めたのもこの頃である。
立河原の戦い以降、京では永正の錯乱(1507年)が起こり、山内上杉氏を後押しして今川や伊勢の動きを牽制していた細川政元が暗殺された。また、実兄の山内上杉顕定を後援して越後から軍事的にも経済的にも支えた上杉房能が守護代長尾為景に守護を上杉定実(房能の養子)に替わるよう強要され、争った挙げ句に殺されるという事件が起こる(1507年)。幕命によって越中の神保征伐に赴いた父長尾能景が戦死したことに長尾為景は遺恨を感じていたことが引き金になったと以前にも述べた。今まで何かと今川や伊勢の動きを牽制していた勢力が京や関東の裏座敷である越後で弱体化したことは伊勢宗瑞にまた追い風を吹かせたことになる。彼は相模東部の併合に向けて動き始める。
1509年7月山内上杉顕定は関東の将兵を引き連れ、上越国境を越えて越後に攻めこむ。これを見て伊勢宗瑞は8月に扇谷上杉の拠点である江戸城を攻め、武蔵の沿岸部まで達して相模東部を封鎖しようとする。山内上杉の後詰めに上野まで達していた扇谷上杉朝良は武蔵に急いで戻り、翌年まで伊勢と扇谷上杉の鬩ぎ合いが続く。扇谷上杉には山内上杉からも援兵が送られて来来るので伊勢宗瑞は押され気味になる。陸路の交流を封鎖されかねなかった三浦半島の三浦氏が小田原を狙って来るという局面さえあった。伊勢宗瑞は扇谷上杉と一旦は講和し、態勢の立直しという選択を行なう。講和がまとまって一安心したところで大きな変化が訪れる。越後出兵中の山内上杉顕定の戦死である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?