折に触れて

3.11の蔭に隠れていたが、第二次大戦時の1945年3月10日に東京は初め
て本格的な空襲を受け、墨田区や江東区中心に甚大な被害を受けたという。大阪は3日後の3月13日から14日にかけてグアムから飛来した米軍機に初回の空襲を受け、その後9回(最終は終戦の前日8月14日)にわたって反復して空襲を受けた。都合1万人にも上る死者を記録した。

 就職が決まって亡き父と、父の知人にご挨拶に広島に出向いたことがあった。時間に余裕があり、原爆記念館を見学した。多くの遺品や現場写真はとても正視出来るものではなく、戦争の悲惨さを余すところなく伝えていた。特に被災者の遺体の写真には目を驚かされたが、その様子を見ていた父がボソッとつぶやいた。

「大阪の死体もこんなもんやった。」

 9次にわたる大阪の空襲の中で父は第6回(7月10日)の堺空襲で死線を彷徨ったという。大阪市内に用事があり、泉州の祖父母の家に帰ろうとして南海電車に乗り帰途についた父は堺駅で空襲の警報に遭遇した。多くの乗客はホームの下の隙間に入り、防空壕代わりに爆風と爆弾の破片を避けようとしたという。

父はホーム下が定員オーバーなのを見て、ためらわずに海辺に向かって走った。そのころの南海電車の堺駅は今と違い、海辺は駅から数百メートルのところにあり、防潮堤があったのでその堤防を使って身を隠し、爆風や爆弾の破片を避けようと思った。無我夢中で火を避けながら走りに走った。焼夷弾が近くで花火のように弾け、堺の街は瞬く間に火の海になった。父は海が近く、水が近いことで火に追われても安心だと一息ついたらしい。

 B29が去り、堺駅の方に戻るとあちこちに焼死体が転がっていた。堺駅のホーム下に逃げ込んだ人たちは燻製のようになって黒いボクサースタイルの人形になっていたという。同じ日の空襲を和歌山の御坊で受けた母は、洞窟に逃げ込んだ同じ学徒動員の生徒が焼夷弾を見て「わぁ綺麗だ。花火みたいだ」と洞窟からふらふらと出たところを焼夷弾の破片に直撃され、血だまりを残して跡形もなく消えた。父と広島から帰ったその日にそう話してくれた。


 父は死ぬまでアメリカには好意を示さなかった。東京にしても大阪にしても目的地点には最後に投弾し、最初はその周辺部から投弾していったという。一般市民を標的にした明らかな戦略的殲滅爆撃だった。周辺部を炎で覆い逃げ場をなくした市民を最後にまん中に投弾して殲滅する。戦後、その空襲の指揮を取ったルメイ将軍に日本は航空自衛隊の育成に多大なる貢献をしたと勲章を与えた。父が最後まで悔しがっていた「恩讐の彼方に」である。


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