折に触れて

改革開放の始まった頃に頭をもたげて来た人物に胡啓立がいる。北京大学で
物理学を専攻し、1956年まで北京大の共産主義青年団の党書記であった。同時期には全国学生連合会の主席も務めていた。文革中はこういう知識人のお定まりの下放(地方に出されて労働と思想改造)に遭い、辛苦の時期を過すが、1977年鄧小平の復活とともに日の当る場所に戻り、清華大学共産党青年団を経て中国共産主義青年団中央書記処書記、全国青年連合会の主席になる。筆者の中国体験は天津と非常に縁が深いが、胡啓立は1980年から天津市党書記と市長を兼ねて、1976年の唐山大地震からの復興がままならぬままの天津市を復興させ、当時北京と上海に並んで直轄市であった天津の復興に活躍した。1982年にはその功を認められて北京の党中央書記処書記になり、胡耀邦総書記を支えることになる。そして1987年には若手のホープとして政治局常務委員に上り詰める。この時点で政治局常務委員は5名だから中国トップ5の一人に数えられたことになる。


 胡啓立がトップ5になった1987年の第13回党中央委員会は後から見れば歴史の潮目にあたっていた。後に触れるが、胡耀邦が従来の社会主義に未練を残す保守派長老グループとの軋轢で党総書記を解かれた後の改革開放を推進するグループと保守派の勢力が微妙なバランスを何とか保った結果の人事だと思われるからだ。趙紫陽、李鵬、喬石、胡啓立、姚依林がトップ5になる。このうち李鵬と姚依林はバックに陳雲・李先念などの保守派長老が存在し、趙紫陽と胡啓立が改革開放推進派、喬石は中間派という構成になる。このトップ5に就いた時から文革期に続きまた胡啓立のジェットコースターが下り坂に入る。


以前に「八老治国」に触れたことがある。鄧小平・陳雲・彭真・楊尚昆・薄
一波・李先念・王震・鄧穎超がそれにあたる。鄧小平を含む全員が文革中に何らかの迫害を受けた老幹部であるが、この中でも考え方がかなり違う。陳雲や李先念は社会主義の計画経済に執着が強いし、彭真や薄一波にもその傾向がある。鄧小平はいうまでもなく改革開放の言い出しっぺであるが、国の最高実力者と人に言われる立場にあり、自分で言いにくい部分を楊尚昆や王震が代弁する形になっていたのではないかと思われる。鄧穎超は周恩来未亡人で,周恩来の威徳で政治協商会議の主席に名誉職となっていたようだ。但し、周恩来が国共内戦の過程で友人が亡くなった時にその息子の李鵬を養子にしていたので、鄧穎超が李鵬の義母にあたる関係は見過ごせない。
政治局常務委員よりも強い八老に配慮しながら、保守派の若干強いバランス
の中で改革開放を進める趙紫陽のサポート役には胡啓立は若く非力であった。


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