折に触れて

鄧小平は1977年7月の第10期3中全会で、党副主席、国務院常務副総理、軍事
委員会副主席兼人民解放軍総参謀長になり華国鋒党主席、国務院総理、軍事委員会主席を支えることになった。8月には第11回党大会において、文化大革命は正式に終結となる。毛沢東の権威を存在の基盤とする華国鋒には最初から押しまくられた形である。華国鋒は1980年に国務院総理を趙紫陽に明け渡したものの、それでも1981年6月6中全会まで粘り続ける。同会議ではついに党主席を胡耀邦に明け渡し、軍事委員会主席は鄧小平に奪われる。

 華国強から総理の座を奪った趙紫陽は河南省出身。日中戦争~国共内戦時に共産党青年団に入り活動。若い頃は広東省で陶鋳の部下として活躍し、陶鋳が中央に出た後を受けて全国最年少の党書記として広東省のトップとなる。しかし、文革で陶鋳は鄧小平の代理人として広東省で仕事をしたと見られたことにより、そのまた代理人と見られた趙紫陽も失脚する。その後、林彪の事件が彼にも春風を吹かせ、広東省長に復帰し、四川省長を経て1975年には四川省の党書記になる。四川省で「農家経営請負制」を導入し、画期的な生産増大をもたらす。同じ頃安徽省党書記として農業改革に成果を出していた万里と並べられ「食糧が欲しければ趙紫陽を、米が食べたければ万里を探せ」と讃えられた。


そして、1980年に2人は趙紫陽総理、万里常務副総理として国務院を支えるコンビとなる。


 党主席は華国鋒から胡耀邦に代わる。彼は1933年に入党し、共産党青年団に入って活動。建国後は陝西省党書記などを務めたが、1967年に劉少奇や鄧小平の実権派と見なされ失脚。1972年に一旦復活するが、第一次天安門事件でまた鄧小平とともに失脚する。鄧小平が再度復活すると今度は中央党校副校長や中央宣伝部長を歴任し、主に理論的に鄧小平の活動を下支えする面で活躍した。


とりわけ、華国鋒の「二つのすべて(毛沢東の指示は守らねばならず、毛沢東の指示には忠実に従わねばならない)」を、簡単に言えば毛沢東の権威によってのみ正当化できる華国鋒政権の脆弱点を、攻撃し「実事求是(実践こそ真理を検証する唯一の基準である)」という新概念を提示して鄧小平の路線を理論づけた。その結果、華国鋒は国務院からも党からも過去の人の地位を与えられることとなった。


 華国鋒が去った頃、鄧小平は「天が落ちてきても胡耀邦と趙紫陽が支えてくれる」と語った。軍には自分が睨みをきかせ(軍事委員会主席)、胡耀邦が党務を改革し(党主席⇒党総書記)、趙紫陽が実務を処理する(国務院総理)形のトロイカ体制が10年強の寄り道を取り戻すべく動き始めた。


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