折に触れて (日露戦争 5)

日露開戦から遡ること約1年、1903年4月に京都の蹴上、南禅寺近くにある山県有朋の別邸無鄰庵に時の政府首脳が集まり、対露政策の進め方について激論を交わした。山県有朋・桂太郎・小村寿太郎らの主戦派と伊藤博文・井上馨らの避戦派が意見を戦わせた。この会議で①満州はロシアの優越権を認めるが、朝鮮は日本の優越権を認めさせる、②この目的を達する(朝鮮だけは日本の優越を認めさせる)ためには戦争も辞さない、という方針をこの時点の政権実務者である桂太郎や小村寿太郎は維新以来の元勲である伊藤・山県・井上に認めてもらう。これで開戦してでも朝鮮は確保し、ロシアが日本本土に食指を伸ばさないようにする、という方向性が定められた。
 1903年8月に日露両国の外交交渉が始まり、満韓交換論を提示し、満州はロシアの優越権を認めるので、朝鮮の日本優越を認めてほしいとする日本側に対し、ロシアは朝鮮に構築し始めているロシア権益を手放すのは惜しいと渋る。代わりに朝鮮半島の北緯39度線以北を中立地帯として軍事施設など軍事目的の使用を禁じようとの提案を行なった。これでは意味がないと日本は納得しない。ロシアにとっては戦争になったところで極東の小島の猿どもに大したことが出来るはずもないと思ってこれ以上の譲歩は全く考えない。交渉は暗礁に乗り上げて物別れに終わる。かくて1904年2月6日に日露両国は国交断絶を通告し、8日に開戦に至る。
 余談ながら、1855年の日露和親条約において、千島列島は得撫島と択捉島の間で国境を画定したが、樺太は決められずに両者が共に混住するままに任せた。そうなると既得権を確保するためにロシア人、日本人、アイヌ人が入り乱れてどんどん移住したことから摩擦・紛争が絶えなくなり、国境を決める必要が生じた両国は1875年に両国がとった方法は、千島と樺太をバッサリ分けて千島を日本、樺太をロシアが領有するという千島樺太交換という方法である。これで決められたのが千島樺太交換条約である。日露戦争前にも満州と朝鮮を分けて一方をロシア、一方を日本の勢力圏とする考え方が示されたのは面白い。ちなみに樺太は日露戦争の結果、南半分を日本が領有するようになり、第二次世界大戦の結果で樺太全土と千島列島全島をロシア(ソ連)が領有することになって今日に至る。
 2月の遼東半島で日露戦争は始まる。この時期の中国東北部や朝鮮半島の寒さは正に身を切る寒さである。地球温暖化の進む今日においても「痛い寒さ」を何度も実感した。日本人の兵士たちは戦闘以前に寒さと戦ったことだろう。

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