折に触れて~江沢民

 中国の最高実力者人事では誰もが予測しなかったあっと驚くことが何度かあった。周恩来死後に華国鋒が後継総理に指名され、毛沢東死後の最高実力者になったのもそれであり、第二次天安門事件の後に趙紫陽から江沢民に交代した党総書記人事もそれである。いずれも45天安門事件、64天安門事件が関係し、天安門が歴史を作っているのも面白い。


 当然ながら、次期の最高権力者は現政治局常務委員から選ばれるのが常識である。その意味では華国鋒は1975年には国務院副総理を確保できているので自然に総理になり、その後党も抑えたという意味では辛うじてそれらしき段階を踏んでいると思われるが、江沢民はそういったこともなく、あっという間に党総書記を射止めた。江沢民とはいかなる人物であろうか。

 江沢民は1926年に江蘇省揚州に生まれたという。父の江世俊は汪兆銘の政府に勤めた官吏というからこの時点では親日傀儡政権の人間であった。この事実を江沢民は一貫して隠し続ける。その反動であろう、彼の執政期間は反日運動や愛国教育を通じて現在に至る反日をある意味で国策の基本にした時代となった。文革時代に紅衛兵などの追及を逃れるために生命をかけて隠した事実がその後の彼のスタンスを決定づける。上海交通大学卒という学歴には南京中央大学が交通大学に吸収された事情が裏にある。南京中央大学は日本軍が関係した大学である。ここに在籍した江沢民は日本語に触れており、日本語がある程度理解できる。酒が入ると炭坑節も歌う。そういう反日人士なのである。

 大学卒業後、上海で食品や石けんの工場を技術者として経験した後に1953年には上海第一工業部傘下で電力専業科長となる。その後、吉林省の長春第一汽車(中国最大の自動車工場)に移り、李嵐清(江沢民時代の副総理)と出会ったりする。そして、ロシアへ自動車技術の研修に出たり、上海に戻ったり、武漢に転勤したりするが、何故か「革命烈士の息子」と称し、文革時代に酷い迫害を受けた形跡はない。

 1970年、北京中央の第一工業部に入った後、1982年には新設の電子工業部の副部長に抜擢され、翌年には部長になる。このあたりの人事には汪道涵の推薦が大きく影響したと言われている。後に上海市長になった汪道涵は自身の後任の上海市長にも江沢民を推薦し、1985年には上海市長になり、1987年には上海市党書記という上海のトップに躍り出る。汪道涵は2005年に死去するが筆者の友人の上海人の話では汪道涵はは死ぬ前には江沢民を恨んだという。1991年の両岸海峡関係協会という台湾問題のトップにしたのを最後に汪道涵を表舞台から遠ざけた江沢民を恩知らずと感じていたという。

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