折に触れて (北関東の切なさ)

多感な十代後半の頃、萩原朔太郎の風景を眺めたいと群馬の前橋まで行ったことがある。予備校の大学受験セミナーが東京で行なわれるのに合わせて、夏休みの時期に行ったのであるが、高校生でもあり持ち金は多い訳ではない。特急料金も惜しんでゆっくりと八王子を回って八髙線に乗って高崎乗りかえで前橋に着いた。
 関西ではお目にかかれない形の赤城山や榛名山などの山々が見え、群馬は風光明媚なところだと感動したことを覚えているが、何より前橋の図書館の方が丁寧に西の方からぶらりと訪れた一人の高校生に対応して下さったのが印象に残っている。前橋は郷土が生んだ萩原朔太郎という詩人を本当に大事にしているのだと恥ずかしながら文学部に入りたいと文学青年を気取っていた自分にはモチベーションが上がる思いがした。
 朔太郎は「利根川のほとり」という郷土望景詩にある小品では「ある甲斐もなき我が身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ」と詠っているが、実際に利根川を眺めていると何かしら「ある甲斐もなき我が身」が身にしみて来るような想いがした。坂東太郎が千古の昔から変わらずにこうして流れてゆく。その変わりなさの傍らで人は変わり、花は毎年咲いては落花する。センチメンタルな年頃の自分に何かしら無常というものが芽生えたような気がした。
 また、北関東では就職してから仕事で足利や太田を訪れたことが印象に残っている。足利と太田は想像以上に近い距離にあって、足利氏と新田氏の根拠地はこんなにも近いのかと驚いたことは南北朝時代をシリーズで述べたときにもそう書いた。このあたりを流れる渡良瀬川を眺めていると田中正造が頑張った鉱毒事件なども思い起こすが、前橋で眺めた利根川とはまた違った種類のもの悲しさを感じた。こういった感覚は関西で日頃目にする川辺の風景とはまた違ったものであるとそのときも今もそう思っている。
 後年、森高千里の「渡良瀬橋」を聞くと現地の情景が目に浮かんで来て、壮年期を迎えた自分に苦笑することが再三あった。実際に現地を訪れたのは夏も冬もあったが、やはりあの歌には冬が似合う。冬の冷たい空っ風に吹かれて、渡良瀬川の夕日を眺めていると切ない気分になるだろうなと変に納得したものだ。こういうのを共感というのなら、正に共感したということだろう。「渡良瀬橋」を北京で(歌が非常に上手い)カラオケ小姐(シャオチエ)が歌うのを聞いたことがあるが、厳寒の北京で中国人が歌うのを聞くとやはりどこか違和感があった。あの切なさには北関東の情景が似合い、日本人が似合う。

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