折に触れて (日露戦争 7)

 1905年5月27日の日本海海戦の後、日本の要請によりアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は仲介の労をとり6月6日に両国に講和の韓国を行なう。12日にロシアも同意し、その条件を詰めるためにアメリカのポーツマスで両国の全権代表が会合することとなった。日本は講和会議を行なうまでの間に樺太に出兵し、樺太全島を占領し実効支配する。これが講和条件において日本の北方領土の条件を有利にする。
 1905年8月10日に両国全権代表による講和会議が始まる。9月5日まで甲論乙駁が続くが、9月5日には両国の妥協がなされて条約が締結される。主な内容は以下のとおり。


1. 遼東半島南端(関東州)の租借権・東清鉄道の長春~旅順の支線、朝鮮半島の監督権は日本にあることを明確にした。
2. 日露両国の満州からの撤兵。但し、日本の鉄道守備隊は除く。(この鉄道守備隊は関東州の守備隊とされて後に関東軍と呼ばれるようになる)
3. 東清鉄道の長春~旅順の支線に付随する鉱山の採掘権は日本に譲渡。
4. ロシアは樺太の北緯50度以南を永久に日本に譲渡。
5. ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本に与える。

 当初の日本の目的は1項の朝鮮半島への優越的な監督権であり、一か八かの大博打を打った成果はこれで達成されている。但し、多くの人命と長年の臥薪嘗胆をして来た国民感情は賠償金を得られなかったことなど、到底この内容では不満足だと感じた。奉天会戦や日本海海戦は大勝利だったと信じ込まされて来たことも拍車をかけたのであろう。日本国内は日比谷焼き討ち事件などの暴動が起こる事態となった。
 日露戦争の結果を当時の日本にとってのプラス面とマイナス面を整理したい。まずプラス面であるがイギリスとの関係が深化し、日英同盟は攻守同盟に強化される。そしてイギリスのインド支配を日本は承認し、イギリスもまた日本の朝鮮半島支配を承認する。また、仲介人のアメリカとは同様にアメリカのフィリピン支配を日本が承認し、アメリカが日本の朝鮮半島支配を承認することとなる。加えてアメリカが1911年日米通商航海条約を改訂し、関税自主権を日本に与えたことで各国はこれに倣い、日本は幕末以来悲願の条約改正を実現することになる。敵であったロシアとも急速に関係を回復し、北満州はロシア、南満州は日本の勢力範囲とし、外蒙古ではロシア、朝鮮では日本の特殊な権益があることを相互に認めるようになる(第二次日露協約)。

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