折に触れて

 やはり胡耀邦は特異な中国の指導者だったのであろう。言い替えれば中国特有の匂いを持つ毛沢東の対極にあった人物とかも知れない。清末の康有為的にその時点の中国の体制を急速に根底から変えようと無理をしたようにも見える。政治改革は完全に頭にあったのであろう。経済改革は行政のプロの趙紫陽の得意とする部分だから四つの現代化の三つ(農業・工業・科学技術)は趙紫陽総理に任せて、自分は党総書記として軍と5つ目の現代化(として頭にあった)自由・民主主義を中国に取り入れようと心に期していたように見える。


 実は日本人よりも中国人はアメリカに憧れている。今でも共産党の高級幹部の多くの子弟がアメリカに移民しているし、留学なんて話は当たり前すぎる話である。小金を貯めたら早く中国を離れてアメリカ移民しようと必死になるのが中国人であり、少なくとも西側の国にどんな手を使っても居着こうとしている。薄煕来がまず起こして習近平が真似たのが「打黒」や「唱紅」といった毛沢東に回帰する運動だが、そういった彼らの息子や娘が住むのはアメリカである。こんな指導者たちが愛国や中国の夢を言ったところで誰が真面目に取り合うのだろうか。表は反米、実は親米。うまくアメリカに行った者に嫉妬、、。


 中国人の表裏の心理を知るが故に、大胆な胡耀邦としてもアメリカとの急速な接近はあまりにもリスクが高いと考える。そこで間の日本と友好的に付き合おうとする。この時期に日本の企業が中国にどんどん進出し、それにともなって、膨大な生産技術と生産管理のノウハウが中国に流れていった。世界の工場と言われる中国の基礎はこの時期の日本の協力なくして確立しなかった。胡耀邦が日本との友好をベースに諸外国との協調の道筋を引き、それを実務家の趙紫陽が形にまとめて行くというパターンがこの時期には存在した。胡耀邦が中曽根首相と「21世紀プロジェクト」と銘打って日本と中国の青年の千人単位の交流をアレンジしたのもこの時期である。北京の日本大使館の対面に「中日青年交流中心」があり、併設のビジネスホテルが21世紀飯店といって筆者の定宿になっていた。この21世紀プロジェクトの実務責任者が胡錦濤であり、江沢民の後の総書記になる。また、作家の山崎豊子に「大地の子」の取材を許し「中国の暗部も欠かさずに書いて下さい」と頼んだのも胡耀邦である。


 しかし、胡耀邦は急速に追い詰められて行く。陳雲たちには改革開放が鳥籠を飛び出してインフレを引き起こしたと趙紫陽とともに叱責される。「若者を甘やかして民主化の希望を抱かせるから各地でデモになる」と鄧小平までが叱責する。そして日本との癒着を疑われる。1986年の靖国参拝を中曽根首相は中止する。胡耀邦の泣きつきがあったのだ。だが、既に大勢は決していた。

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