折に触れて

さて、1959年毛沢東に代わり国家主席に就任したのは党内序列2位の劉少奇
である。そして実際に実務を取り仕切って大躍進以後の惨憺たる状況を回復しようとしたのはその当時総書記をしていた鄧小平である。4500万人と言われる餓死者だけではない。大躍進政策の時期には乱伐による森林資源の枯渇があり、土法炉の煉瓦を取るために様々な建物が壊されたりしていて、自然環境から人間の心に至るまで全面的な「荒廃」が現出した。その荒涼たる大地に劉少奇・鄧小平は直面し、彼らなりに懸命に復旧を図った。

 人民公社は「生産大隊」といういくつかの村が集まった単位を中心に実務面を管理していたのを「生産隊」に権限を下ろして村くらいの規模での運用にした。これにより、地域毎に柔軟な活動を可能とした。そして、各農家には自留地(自家の土地)を認め、その土地での収穫の扱いは自由にするとした。工業面では鉄鋼生産などに傾斜し過ぎた過度の重工業化を改め、速度を緩めるようにした。ある程度の自由裁量権を認めて、個人の欲望を部分的に開放することで経済の復興を図ろうとした。公共の「大食堂」で食事することから自家での食事へ戻る方向性も容認されるようになりつつあった。鄧小平の有名な放言「白猫でも黒猫でも鼠をよく捕るのがいい猫だ」はこの頃の話である。


 そういった一連の政策を毛沢東は苦々しく見ていたようである。劉少奇夫人の王光美は毛沢東と劉少奇はこういうやりとりをしていたと文革後に明かす。


 毛:「右翼日和見主義に陥っているのではないか。(共産党の)足下がぐらつき始めた。どうして支えようとしないのか。俺が死んだらどうするんだ。」


 劉:「飢えてお互いが食い合っているような状況なんです。歴史に悪名を残していいのですか。」

 実際に大躍進~文化大革命の時期には「食人」があったということがいくつかの文献に記されている。春秋戦国の時代から「食人」の例は多く、籠城戦で兵糧が尽きてきたときには「子を取り替えて食う(自分の子は流石に食べにくいので、子を交換して親が肉を食べる)」などと史書に記されている。もちろん、こういった状況は誰にとっても正常なことではない。避けても、避けてもどうしようもなくなった極限の状況である。毛沢東が何を考えていたのか、彼の頭の中は分からない。自分の考える社会主義・共産主義の道には犠牲はやむを得ないとでも考えていたのだろうか。後に米国との対立で核戦争もあるという状況下で「アメリカ帝国主義は張り子の虎」「核ミサイルで中国の人民の半分が死んでもまだアメリカよりも大きい人口がある」と語った感覚だろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?