折に触れて(リーダー不在)

ビューロクラシー(Bureaucracy)、なかなか覚えられないスペルだが、英語で官僚政治をこういうらしい。官僚政治には悪いイメージが強く、権威主義、形式主義などが付随して語られるのが常であり、果ては秘密主義や隠蔽工作が合わせて語られる。何か政治変革があるとそれにともない組織が生み出される。例えば会社を新たに立ち上げる場合を考えるとよく分かる。販売会社ならまず売り子が必要となり、営業部門が生まれる。仕入れをするためには購買部門が必要だろう。製品の修理や据付けをするサービス部門もいるだろう。そして現場を走り回る連中を管理する経理や総務の部門が必要になって来る。小さな会社の間は様々な部門を1人が兼任したりするが、売上が増えて会社が大きくなるとそれではやってゆけなくなる。そうなると例えば営業部門では販売は分かるが、購買の難しさは分からない、製品が故障するなんてあまり考えていない間はサービスを軽視したりする、管理部門なんてつべこべ五月蝿いと考えたりする。営業部門に限らず至るところでそんな自分の部門のことしか分からない人間がどんどん生まれることとなる。
所帯が小さい間はいろいろな部門を兼任していた者が多いこともあって、多少なりとも風通しがあったが、大きくなると加速度的にそうはいかなくなってゆく。困ったことに各部門で成績を上げれば上げるほどに他部門の労苦には目が届かなくなり、他人から指摘されるのを恐れて自分たちに都合の悪いことを隠蔽することも行なわれるようになる。並行して自分を守るために事細かくマニュアル化したりして内部統制を行なう。コンプライアンスを喧伝している昨今の風潮は保身意識の表れであろう。法規遵守の誓約書を組織内で成員たちから回収したりするが、江戸時代に遊女が熊野牛王印の裏に起請文を書いたのとどれほどの違いがあるだろう。かくて保身から形式主義が進み、上司の目(つまり権限、特に人事権)だけを恐れる権威主義が蔓延る。
リーダーはそれ故に各部門の意見をよく聞き、纏めてゆくべきだが、殊更に聞く力をリーダーが売りにするのは如何なものであろうか。リーダーは「自分は~をしたい」と明示してそれを他者に説得して物事を進めることに存在意義がある。そのために信念が必要であり、厳しい中でも取捨選択して決断する覚悟が必要となる。他人の都合や意見に耳を貸さない独裁国家が暴走するのに対し、効果的な打ち手が出てこないのは欧米でも日本でも信念を持って決断するリーダーがいないからだろう。ただ、そのリーダーを選ぶのは国民である。今の状況は欧米日の国民に信念や覚悟を見抜く目がないということなのだろう。


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