雑記#001 公開するということ

◾️ルックバックの修正
『チェンソーマン』の原作者・藤本タツキさんの新作読切『ルックバック』が単行本化する前に、表現の一部修正が入った。

公開日や物語の展開からは、京アニ事件を連想させるシーンがあったが、そのことが差別を助長させるおそれがあるとして、作者の意向により決断されたらしい。

単行本化した後に問題となって回収する羽目になる前に先手を打ったと言える。

修正後のものは誰も傷つけない丸い作品になった気がするが、修正によって抽象化した結果として、作品の迫力のようなものは下がったような印象は拭えない。

◾️迫真性
作品の迫真性は、詳細な、個別具体的な生の事実に宿ることがある。

とはいえ、表現物を公開するのであれば、表現物それ自体の迫真性だけを追求すればいいとは限らない。
それは、共感を呼び、人を深く感動させるだけでなく、直接にまたは間接に、人を傷つけることもある。

真に迫る表現にはそれだけの力があり、人に影響を及ぼす表現であれば尚更、見る人たちがどういう人であるかを踏まえて、力を加減する必要があるのかもしれない。

◾️雑記を公にすること
こんな弱小雑記であっても、表現であるからには、同じ問題を孕んでいる。

下手に身内に宣伝すると、意味もなく知っている人の顔色を伺ってしまうので、自浄にもならない、何かを取り繕うような文章になってしまう。
しかし、それでは私が自浄として雑記を書き連ねる意味はない。
特に誰に宣伝するわけでもなく、ひっそりとnoteを書き始める理由は気楽に文章をアウトプットできる場を求めた結果である。

また、身内が見ていないとしても、雑記としてnoteに公開するとなれば、さすがに何でもかんでも詳細に書くわけにはいかない。

自浄のための日記を書くためには、それだけ赤裸々に書き連ねることが求められる。
しかし、赤裸々に書けば書くほど、特定される恐れもあるし、迷惑をかける可能性もある。何よりそんなこと考えているのかと引かれたり心配されたり、読む気が失せたりする可能性が高い。

結果として、先日アップした#000も(3桁にした意味が発揮されるほど長く続くとは思われないが)、内容はかなりオブラートに包んだものになっている。

◾️行き着く先は
新型コロナウイルスのワクチン集団接種会場で、パンダの映像が流れていたところがあったらしい。
誰も傷つけない表現を模索した先に行き着くのがパンダの絵というのは、案外納得がいく。

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