映画『君たちはどう生きるか』について個人的な感想

積み木について

最後の、悪意のない積み木を積むか元の世界に帰るかの選択が、この映画でもっとも重要だったと思う。積み木を積むということは、理想的な一人の世界に閉じこもることを意味すると思った。

積み木を積んでいる大おじさまは、毎回すごく遠いところにいて、いつも独りだった。逆に眞人は、青サギとかと一緒に行動していたし、元の世界に戻ったら友達を作ると言っていたから、大おじさまとは対照的である。

僕だったら積み木を積む方を選んだかもしれないと思ってヒヤヒヤした。

ところで、吉野源三郎の方の『君たちはどう生きるか』は、端的に言えば天動説から地動説への考え方の転換(コペルニクス的転回)についてが主題だったが、天動説を自己中心的、地動説を他者を意識した考え方と捉えれば、この主題は映画の方にも通ずると思う。

なぜ積み木だったのかについて考えると、積み木は子供のおもちゃであることから、幼少期を象徴しているとも捉えられると思った。青サギは「あっちの世界のことはそのうち忘れる」「積み木を持ち帰って覚えているやつもいる」「一度あったことは忘れないものさ」のようなことを言っていた。眞人は最後に積み木を一つ持ち帰っていることで幼少期の不思議な体験を一つ持ち帰ることができたのだと思う。幼少期の体験を後で思い出してそれが心の支えになることってあるなと思った。

幼少期の不思議な体験といえば、トトロもそういう存在だと思った。

眞人は積み木を積まない決断をして大人になったのだと思う。

積み木が木じゃなくて石だ、と眞人が気づいたのは、木は生きていて、石は生きていないということと関係がある気がする。積み木を積むことは、生ではないという気づきなのだと思う。

オウムについて

大おじさまの世界のオウムたちは妙に人間くさいと感じた。「もしかしたらこれが人間だったかもしれない」と思わせるような描写だった。人間と異なる点を挙げるならば、人間よりも規律が取れているように感じた。権力に従順で、あまり自分勝手に生きている人がいないように見えた。

オウムたちが人間の世界に来た時に、ただの鳥の姿になってフンを大量に落としていったのは面白いと思った。高校の国語の授業で『羅生門』をやったときに鴉の糞が何か意味をもつと先生が言っていた気がするが、はっきり思い出せない。生を意味すると言っていたような気がする。関係ないかもしれない。

オウムが、ナツコはお腹に子供がいるから食べない、眞人は子供がいないから食べていい、と言っていたのはなんなのかよくわからない。そういう謎の掟ってあるよね。

青サギについて

眞人は青サギにあっちの世界へと導かれていて、青サギは仲介者のような立ち位置だった。今僕は村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を読んでいて、それに出てくる「羊男」に似ていると思った。

あるいは、眞人が青サギを追いかけて茂みの中に入っていく様子が、『となりのトトロ』でメイちゃんが小トトロを追いかけて茂みに入っていく様子に似ているとも思った。

なんかそういう、世界どうしをつなぐ役をする存在っているよね。

眞人と青サギははじめ敵対していたのに最終的に友達になるのも印象的だった。眞人が青サギを友達と言ったときに青サギは驚いたような嬉しいような顔をしていた。わかる〜〜〜と思った。

田舎の描写について

僕はわりと田舎の出身であるから、田舎の描写について思うことがいくつかあった。

まず、田舎の小学生がみんなほぼ同じ顔をしている。同じ顔に描くということは、興味がないということだと思う。田舎にいる一人一人の生活なんて気にしていないことが伺える。

また、東京から来てすぐに不思議な体験をし、体験が終わったらすぐ帰るというのも、なんか田舎が不思議な体験のためだけに存在しているみたいに感じた。

田舎が不思議な体験をして大人になるための装置のように扱われていると感じた。それに対して東京とは帰る場所であり現実である。この構成になっているのは、宮崎駿が東京出身であることが理由の一つだと思う。

全体について

映画の宣伝が全然なくて、前情報もほとんどない状況で見る映画は初めてかもしれないのでとても楽しかった。

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