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古代個人名の「老人」

古代日本には「若」や「老」という字・言葉を名前に持つ人が少なくありません。若菜若葉のように「若」がつく名前は現代にも見られますが、「老」はまったくと言えるほど使われることはなく、もし子供の名前につけようものなら虐待扱いされる可能性があります。

しかし古代においては、溌剌・壮健のイメージを持たせたい時には「若」が、成熟・博識のイメージを持たせたい時には「老」が、それぞれ良い意味の言葉として命名に用いられています。大宝二年(702)の美濃国戸籍には国造族祖父(くにのみやつこのうから・おほぢ)という個人名の人物が見られますが、彼は当時16歳の少年です。生まれたての子供に「老」や「祖父」という名前をつけることは普通に行われていました。

さて、この「老」という人名要素ですが、これを何と読むのかは実は判然としていません。というのも「老」を含む名前が、万葉仮名など別の文字で表記された例が見当たらないためです。ただし読みの候補は二つあります。老(おゆ)老(おきな)です。

上記の通り、「老」を含む名前の同一人物が別表記をされた例はないのですが、それはそれとして万葉仮名で意由(おゆ)意伎奈(おきな)と書かれた名前の人物は存在します。具体的には「日本古代人名辞典」、「平城宮発掘調査出土木簡概報」、「飛鳥藤原宮発掘調査出土木簡概報」の中に、「おゆ」が6人、「おきな」が5人です。「おい」はいません。ここから「老」一文字の名前は「おゆ」または「おきな」、「老麻呂」という名前は「おゆまろ」または「おきなまろ」、「子老」という名前は「こおゆ」または「こおきな」であろうと推測されています。

「老」のつく名前では「老人」と書くものが比較的多く存在します。上記三資料中には35人認められ、「老」のつく名前の中で約20%を占めます。古代では一般的な人名だった様子です。これも老人(おゆひと)または老人(おきなひと)と読むと考えられます。しかしこの場合、「老人」二文字を一つの熟語と捉えて、まとめて老人(おきな)とも読めるのです。

国語国文学者の鈴木棠三氏は著書『言葉と名前』の中で、「老人」という人名は外見の情報から熟語と捉えてはならず、あくまで「老」と「人」の組み合わせと解するべきであり、この名前はあくまでも老人(おゆひと)であると唱えています。同書には明言されていませんが、「老女」という名前も熟語「おみな」ではなく「おゆめ」であるという主張も内包されていることでしょう。

結果形から熟語であると即断してはならないという点は傾聴に値しますが、「老人」という個人名は一律「おきな」ではないと言うには根拠に欠けていると思えてなりません。

反駁の足掛けとなるのが、『万葉集』1534番歌の詠み手・石川朝臣老夫の存在です。近現代、人名に「夫」が使われれば隆夫(たかお)秀夫(ひでお)のように夫(お)(歴史的仮名遣いでは夫(を))と読むことが一般的ですが、古代においては万葉仮名の夫(ふ)夫(ぶ)として使われるのが大半であり、夫(つま)夫子(せこ)膳夫(かしはで)など他の例を探してみても、夫(を)と読むことはまずなかったように見られます。

ここで特に注目したいのは、「膳夫」のように「意味は添えるが音には表れない」用法です。他に例を挙げれば、「大夫」は音読みで「たいふ」(あるいは音変化を起こして「たゆう」)と読まれることもありますが、古訓では大夫(まへつきみ)であり「夫」字の音はどこにも反映されていません。

『万葉集』の3794番歌には「端寸八為 老夫之歌丹 大欲寸 九児等哉 蚊間毛而将居(はしきやし 翁の歌に 大欲しき 九の子らや 感けて居らむ)」と、歌本文に「老夫」が含まれており、これは読み下しの通り「翁(おきな)」と解されています。

すなわち、「老夫」はこれで一つの熟語的表現であり、一文字ずつ「おゆ・を」と読むのではなく、全体として老夫(おきな)と読むのが適切であると、傍証から判断できます。石川朝臣老夫の名前も「いしかは・の・あそみ・おきな」なのでしょう。

ここから翻って考えれば、「老人」という名前が絶対に熟語ではないと主張することは難しくなり、むしろ熟語で老人(おきな)であるケースもあると考える余地が生まれます。そして「老女」もまた「おゆめ」ではなく、老女(おみな)であるケースもあると言えるでしょう。

無論、「老」の字を「おゆ」と読んだと強く推量される例もあります。美濃国戸籍に見える婢・老売の場合、「売」は万葉仮名の「め」として音読みする他なく、「老売」を一つの熟語と見なすことはできません。また「おきな」とは「老いた男性」を意味するため、女性名に含まれる「老」を「おきな」と訓ずることも考えにくいです。よって「老売」の読み方は老売(おゆめ)であると断じられます。なお、この老売は当時10歳の少女です。

『万葉集』1034番歌、2582番歌、3791番歌、4094番歌には「老人」という文字列が含まれますが、三拍の老人(おきな)と解するといずれも五七のリズムに合わなくなるため、四拍の老人(おゆひと)または老人(おいひと)であるとするのが適切になります。

さらに別の例として「老子」という人名も見ておきたく思います。ここまで述べてきたことに従えば、この名前は老子(おゆこ)老子(おきなこ)と読むことになりますが、現在「老子」と書けば道教の始祖とされる老子(ろうし)を意味することがほとんどです。中国の人名(しかも本名でない)をそのまま日本の人名にすることに違和感を覚えるかもしれませんが、事実として「正倉院文書」などの史料には衣縫造孔子、春部孔子、敢石部孔子、若田部孔子、秦人孔子など孔子(こうし)という名前が散見されます。奈良時代の日本に『老子』が伝わっていたかは定かではありませんが、個人名の「老子」を「ろうし」と読む可能性を排斥することは現時点ではできないでしょう。

今回、あらゆる史料を渉猟して精密な検証を行った訳ではありませんし、結論も「古代人名『老人』には『おゆひと』と『おきな』の両方のケースがあった」という曖昧なものです。しかし「すべての『老人』は『おゆひと』である」あるいは「すべての『老人』は『おきな』である」という牽強な考えは持つべきでないと改めて感じ、観察してみる価値はあったかと思っています。

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