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野望への返信──腕凍る・サムサののちに

大天使ガブリエル以下、天界の聖霊すべてが一斉に上の前歯を下唇にあてがって、有声唇歯摩擦音すなわち「」の発音を試みたかのような轟音で目が覚めた。

3月も暮れに差し掛かってなお、前日に深々と屋根へ降り積もった淡雪が大挙して地表に滑り落ちていった音だと気づくまで、数分を閲した。そもそもからして屋根に近い2階の寝室に据えられた、2段ベッドの上段、ほとんど天井ぎりぎりの空間に眠っているものだから、外界の音がじつにクリアに飛び込んでくる。
降り注ぐ雨が奏でる変奏曲にハミングをあてる日があれば、カラスが不毛に飛び跳ねるカツン・カツンに心中穏やかでない日もある。疾風吹きまくる夜はいつになくうずくまって眠り、ウグイスがのびのび謳歌する朝は大の字で眠る。
したがって平生からいろんな屋根サウンドに慣れ親しんでいるわたしだが、積雪が一掃する轟音にはゾッとした。顔色を失った心臓が「なんや。なんや」と早鐘を打っている。まったく、『蟹工船』の冒頭のような朝だ、とおもった。

「おい地獄さ行ぐんだで!」

——蟹工船

安穏とはほど遠いグッド・モーニングを迎えて、ボンヤリと煙っている脳裡に、きょう一日のプランが像を結びはじめた。「なんか、勇敢アホなことしたいな」。3月が暮れるということは春休みも同じく終盤を迎えつつあることを意味する。休暇中になにか壮大な野望を果たしてのけたかというと、だいぶ心許ない。盛岡行ったぐらいかもしれん。ほかには地震でオロオロ右往左往した憶えしか無い。
その日その日の欲求で、野良猫さながらに小回りの効いた散歩はやたら重ねたけれど、自家用車で九州旅行を敢行した友人のような大規模アクションにはどこかしら「劣る」ような気がする。小さくまとまっていいのか、手前テメエ

——そういうわけで、しゃにむに免許証を握り締め、原付に跨った。

昨年の春先に免許を取得して以来、ふだんから原付を用いているとはいえ、自宅と最寄り駅までの数キロを往復するだけで、国道を走ることもなくうかうかと過ごしてきた。交通量の乏しい畦道をぽくぽくと走るのもいいけれど、たまには遠路はるばる駆けてみるのも面白いんではないか。訪れたことのあまりない隣町の地理情報をグーグルマップで軽く下調べして、原付に飛びついた。国道やら県道やら、山道やら複数車線やら、いろいろと交通の難所が待ち受けていることも、冒険の醍醐味とおもって喜んだ。自車校(自動車学校の略称)で学んだ知識を活かす機会よ。

ブウゥ——・・・——ン・・・———
いざ、発進。
街路からは、きのうの積雪はほとんど溶け去っており、薄く差した陽光で水溜りが照り映え、美観を呈している。3月らしく吹きつける涼風が頬に心地よい。
いつも駅へ向かうさい直進する路を、左に曲がったときは、未知を冒して進むオトナの快感に酔いしれた。軽い接触事故があったらしく警察官が行き来する現場を走り過ぎながら、オ、気をつけようと襟を引き締めた。スイカメット出川哲朗の番組よろしく、これから先の道のりがトテモ愉快なものになる確信が胸に湧いた。

法定速度を遵守しながら商店街を走り抜け、……ついに国道に差し掛かる
赤信号で停車し観察する。さすがは国道というべきか、モノスゴイ交通量に加え、モノスゴイ往還の速度である。猫のトムが放つ散弾銃のような忙しなさである。オトナの愉しみを味わうためには、ちょっとぐらい試練も必要さ……言い聞かせ、頷いていると信号が青ざめた。わたしは音高くアクセルを噴かし、ライフルの弾丸諸君のあいだにちいさく身を滑り込ませた。

弾丸の法定速度は何キロだったろう。50? 60?
とにかく彼らは原付のわたしを次々抜かしていく。肘のあたりを間一髪追い越す軽自動車にハッとしたかとおもえば、ダンプがそれに続き、巻き起こった風が車体を揺らす。しかも対向車線にも大型トラックの車列が飛び交い、それはそれで暴風が吹きまくるから、揺れる。強風の折はガニ股になるべしという父の教えを守ってもちっとも安定しない。左へ、右へ、右へ、ひだ、右へ、左へ。
さっそく意想外の事態に襲われ歯をガチガチいわしているわたしの前途に、黒々と、次なる関門が口を開いて待ち構えていた。隣町との境にあるトンネルである。
以前自転車で走ってみて、絶えず渦巻く砂埃と、えらく増幅される車両走行音とにほとほと閉口した場所だ。しかしマップを手繰っていた折、「自転車はキツかったけれど原付なら……」と高を括ってもいた。

前方を驀進する大型トラックに付き従いながら、トンネルめがけ突き進む。
あまりに怖いので、咄嗟に思いついた「ヴンダー、発進」のセリフを呟く。エヴァンゲリオンのミサトさんの御言葉である。間髪容れずにヤシマ作戦のBGMをハミングしつつ、まっすぐ、トンネル圏に突入した。全長1キロ

瞬間、わたしのハミングなんて軽く無に帰すような轟音が耳をつんざいた。
すさまじい砂塵に視界は煙り、息が詰まる。思わず黙る。本能が警告を鳴らす
国道走行時とは桁違いに風が荒れ、それゆえ車体が激しく振動する。
構わずびゅんびゅん追い越す四輪自動車が風向きをいちいち歪め、寸時の安定も許さない。ハンドルを握る手がぶるぶると震えはじめた。体の震えは即座に車体に反映される。車体の揺れを、すなわち「恐怖」として脳が認識し、なおのこと腕が震える。相互作用は、一秒走るごとに増幅するようである。
あ……事故る」おもわず囁き、薄く笑ってしまったところで待避所を見つけ、左ウインカーを点灯、ふらふらと滑り込んだ。わきを弾丸諸君が出口めがけて走り去っていく。ひとつ、重く嘆息を漏らす。オトナになるって、大変だ……

ようよう息を整え、体の震えが収まった。後続車両の絶えたのをみてとって、再び走り出す。両親が運転する自家用車に乗っているときはなんともおもわなかったのに、原付で町の境を無事に越えたとき、無量の達成感が胸に沸き起こった。
トンネルを潜り抜けると、どんよりと重く垂れ込めた雲に覆われた隣町の姿があった。日射が絶えたことで、家を出たときよりグッと体感気温が下がっている。

ヘルメットのほかは、ヒートテックの薄い上下に薄いスウェットを重ね、上層にバーバリーの薄いトレンチコートをあてがっただけの、簡素極まりない装備でここまで来てしまった。ゆえに、めちゃくちゃ寒い。総句を費やしたくなるほど痩躯がソウ・クール。トンネル内での恐怖体験ですっかり肝まで冷え切っている。
勇敢アホなことをやりたい」「オトナな冒険をしたい」
ここまで息巻いて来たという経緯・義務感と、寒くて帰りたいという生理的欲求のあいだで葛藤しながら、とりあえず隣町の畦道を疾駆する。ここまでは以前自転車でも来たことがあるのだ……ここで帰っては「成長」も新たな「収穫」もない。

地震の影響でめくれ上がった舗装を乗り越えて小道を進んだり、漠然とした記憶で編み上げた脳内グーグルマップに頼るあまり見知らぬ山麓で迷子になりかけたり。
これといった目的地もない孤軍走行で苦難を嘗めまくるなかにも救いや学習はあった。まず、シバリング(全身を震わせること)の有用性だ。すごくあったまる。歩いたり走ったりしているときと違い、原付走行中は体を動かす機会に乏しい。それでも、少しでも意識的に震えると体温の維持にスバラシイ効果を発揮する。
リュックに「貼るホッカイロ」を一枚備蓄しておいたことも、凍えへの心強い対策になった。出発前、そろそろ無駄だろうサと置いていくところだった。危ない。

また、トンネルで底抜けの地獄を見ただけに一般車道を走るとき余裕が感じられた。一級河川の阿武隈川やちいさい川といった素朴な景勝をふんふんと眺め、旅の滋味をしみじみと覚えた。雪化粧した雄大な蔵王連峰も遠くに望める。
我らが出川は日本各地を走りワァーと破顔しているが、さもありなんとおもう。

道すがら、阿武隈川沿いにある観光物産店に立ち寄った。
入店早々にふなっしーのミニ人形と目が合って驚いた。ここは船橋市ではない。
ここでは阿武隈川の舟下りを観光客向けに提供しているそうだが、値段表を一瞥して、乗船を諦めた。年がら年中、小学生のお小遣いぐらいしか持ちあわせていないんである。それに、この薄着で船に乗ったら土左衛門になる恐れもあらあ——
お手洗いを借りた手前、なにも買わずに去れないナ……と店内を物色して回ると、柿渋染めに関連した物品のコーナーが目についた。赤子の頬のような、暖かな色味を湛えている。寒空のもと走ってきただけに嬉しくなった。それで、柿渋染めシルクの眼鏡拭きを購入した。このごろ『養蚕と蚕神』という人類学資料を読んで絹に関心があったので、なおのことピンときた。肌触りがヨイ。

積極的なシバリング作戦を敷いて調子がいいのを喜んで、隣町をひたすら北へ走り、さらに隣の市へ移った。林道を駆け抜けては、葬儀会場と老人ホームが道一つ隔てて向き合っている奇観に胸打たれたり、かつて通った自動車学校を遠くに望んでは、きつく叱られた思い出に浸ったりした。先生、いまではこんなにできます。

シルク眼鏡拭きで所持金が払底していたのと、さすがに寒さを完全に誤魔化すことはままならなかったため、暗くなるまえに家路に就いた。
体が冷え切っていた。それこそ芯まで冷えている。膝から下は感覚を喪失したようでさえある。肘から先もスッカリ怪しくなっている。

いつも危難に遭ったとき唱える般若心経を再び念じ、隠し味にミサトさんの名セリフを足して、もう一度、例の全長1キロのトンネルに挑んだ。いざ!
……そんな気はしていたけれど、ほうぼうからの乱気流に巻き込まれて、復路でも待避所に落ち延びた。今後、どんなに原付の運転に習熟してもトンネルだけはもう懲り懲りである。ここは四輪で走るべきところである。

過呼吸をなんとか抑えトンネルを出て、曇天のわが故郷に帰り着いた。
注文の多い料理店「山猫軒」帰りかとおもうぐらい、寒さと恐怖とで震えていた。

自宅に滑り込んでイの一番に入浴した。
きょう一日の全てが、お風呂タイムを最大限に味わうための下準備だったのじゃないかとおもうぐらい、快く感じられた。熱々に追い焚きした湯に浸かり、茹でダコのように頬を火照らせた。落雪にびっくりしてからの弾丸破天荒ドライヴが、この春休みを決算するときにどう感じられるかは分からない。しかし、いまシルク眼鏡拭きを撫でつつ虚心に振り返ってみるに、まア生きているしいいか、と認めてやろうという気ではいる。
そう遠くない日、また原付で旅をしたい。


タイトルはカフカの名作『変身』主人公、グレゴール・ザムザより。
凍傷で腕が「変身」するような沙汰にならなくてよかった。


I.M.O.文庫から書物を1冊、ご紹介。 📚 東方綺譚/ユルスナール(多田智満子訳)