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卵かけご飯に端を発する、食の省察

中学時代、オーストラリアから来たALTのルークに、母の手料理でなにが好きか訊かれてサニーサイド・アップエッグと即答した。カレーとかグラタンとか、手の込んだ献立を答えるものと予想していた彼はオーウと笑って手を叩いた。ところがこれが冗談ではないのだよルーク。小中学生にとって平日の朝とは、いかに前日から入念に準備したって必ずどこかのタイミングで遅延や不都合が生じてしまいドタバタの騒擾が渦巻くハードな時間帯である。あいにくだが、のうのうと朝食に時間を割くことはできない。そんな多忙な日々に寄り添う食事というものは、完食までの行程や時間が明快であることが望ましい。だから、ウマいのは分かるが金目鯛や秋刀魚はいけない。骨の処理がもどかしいったらない。こうした不可測の事態は朝食以外にも雨霰と降り注ぐものなのだから、少ないに越したことはない。それで、最適解はサニーサイド・アップエッグ——目玉焼きということになる。ドンブリに盛られた熱々の白米のうえに、醤油をかけたソレを猛然と載せ、混ぜる。その朝の副菜がなんであろうと、目玉焼きという強力な「ご飯の友」を得た食事はぐんぐんと捗る。仮に副菜がなければ海苔か納豆か焼肉のタレを召喚する。あらゆる状況に対応しうる点で間違いのない献立といえる。仏教徒が坐禅というフォーマットを日々実践することで悟りへの境地を目指すように、たとい忙中にあろうとも定式化された食事を摂っていると、沈思黙考する余地がいくらか生まれる。持っていくべき宿題はなんだったか、もしかしてきょうは日直だったか、席替えするならどこがいいかな、給食着忘れそうだから注意しよう——金目鯛に齷齪していたらきっと忘れられていたに違いない給食着の存在を、卵かけご飯という名の瞑想時間は照らし出す。ここで断っておくが、母の手になる料理はおしなべてウマい(ニョッキ除く)。そんな百花繚乱のデリシャスのなかで一つスペシャルを選べと云われたら、中学時代の余は、際立って簡便性と完全性を帯びた目玉焼きを推薦する。ルークも母も不本意だったらしいが、小中学生の自分にとって学校生活は神聖にして不可侵の絶対的主軸であり、それを疎かにしない心強いサポートをしてくれた目玉焼きは本当に偉大であった。よくnoteに卵かけご飯が登場するのは当時の思い出がよほど根深いことを証している。もちろん、歳を重ねるにつれだんだんと魚の骨の処理に長け、学校生活をそこまで重視しなくなると目玉焼きの重要度は落ちていった。しかし、小中学生の朝に匹敵するほど忙しい大学受験期や入学後の研究活動を迎えるとその役割がカロリーメイトに引き継がれていったというように、目玉焼きが与えてくれた円滑な食事スタイルは今なお息づいている。研究室の面々にとっては恐るべき奇異に映るらしいが、忙しかったりキンチョーする場面に慣れ親しんだ秩序を導入するシンプルな方法が余の場合は食にあるのだから、仕方ない。カロリーメイトは空腹時に4本食べるとちょうどいい。眠くもならないし、空腹もそこそこ癒える。「いつもコレを食べるのだ」という固定軸が一本あると、たまに時間的・金銭的・心理的余裕があるときに食べるイレギュラーな外食がひときわ輝いてみえる。それこそ金目鯛とかね。寺山修司の唱えた一点豪華主義、こういうところで地道に実践しています。また鮨勘で「大将……おすすめ握ってくれや」って呟きたいワ。

I.M.O.の蔵書から書物を1冊、ご紹介。 📚 かくれた次元/エドワード・ホール(日高敏隆・佐藤信行訳)