「女の子っぽいね」という呪縛

年の瀬、再び私は引っ越しをして世田谷区へと舞い戻ってきた。「また誰かと同棲を始めたの?」と、友人からは言われたが、ええ、そうです。しかし、まもなく齢24の私は、18や19の頃の同棲とはわけが違う。

いや。本当は何も違わないのだけれど、それでもそれなりに覚悟をしてこの家に引っ越してきた。

初めに言っておくと、今この家で一緒に住んでいる人と結婚する気は、ない。そして、向こうも私と結婚しようなどとは思っていない。これは相手から明言されていることであり、私もそれを承知で同棲した。

それに、この条件は私にとってもむしろ都合がよかった。来るはずのない「結婚」という未来をムダに待たずに済むし、「ねえ、私たちもう30だよ? 結婚する気あるの? 仕事と私、どっちが大事なの?」という常套句を相手に吐かずに済むから。

こういった女性の描写は、なにかしらの漫画で散々読んできた。そのたびに私は、正直「こうなりたくないな」とも思っていたし、こんな惨めな思いは絶対にしたくなかった。

それに幸い、私の両親は「孫はまだか?」「結婚はいつするのか?」といった愚問を訊いてくるタイプではないし、上記の漫画の続きのような親族関係の厄介な問題(「○○ちゃん、まだ結婚してないのね。子ども産めなくなっちゃうわよ?」ってやつ。そんなステレオタイプがまだ存在してるのかは知らんけど)は、とりあえず避けられる。

しかし、私も最初は結婚したくないという旨を告げられた時、「うわ! これ、あれやん。『結婚とかいう制度に縛られなくても、俺たちの関係は何も変わらないじゃん。だったらこのままでよくね?』的な、責任を避けたいヤツが言うセリフと一緒じゃない!?」と、思った。

そして何より、制度に守られない不安定な関係のいったいどこを信じて生きていけばいいのか、私にはわからなかった。

「法に守られないから、あなたが死んでも私には何の権利もないよ。それって寂しくない?」などと、一時は反論した。しかし、私がタラタラと反撃している間に、「女の子っぽい考え方だね」と一蹴されたため、私は議論することを諦めた。

そういえば、私は昔からよく「女の子っぽいね」と言われる。別に私は「女」として生きていきたいから間違ってはいないのだけれど、必ずその行間には皮肉が込められていた。クヨクヨしてるとか、内向的とか、控えめだとか。

だから私は、「女の子っぽいね」と言われた瞬間に議論を諦める。それはもちろん、内面的なことに関して形容された時だけれども。「あぁ、こういうことを言っちゃうタイプとは競ってもムダだ」と、脳がシャッターを下ろす。そして、心が遠ざかっていく。一瞬で心が凪になる。

なんなんだろうね。あの、怒りとは違うけど心に凪が訪れる瞬間。たぶん「諦め」が一番近いんだけど、悲しさとかやるせなさみたいなものも、少なからず孕んでいるあの感情。あれ、嫌い。自分でも自分を救えなくなるから、めっちゃ嫌い。

ともかく、新居にて新たな生活を初めたわけですが、実際はうまくいかないことばっかりで毎日嫌になります。でも、私が決めてここに来たわけなので、この生活に責任を持たなければなりません。

しばらくは今の家に暮らし続けること、家賃をちゃんと払うために仕事を続けていくこと、生活費が上がったので自分の嗜好品を控えること、とか、諸々の責任ね。

あー、めんどくさい。カリブ海でビーチチェアに寝転んで、何もせずに暮らしたい。

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