ALL EYES ON RAFAHは日本人には向いてない

今大きなムーブメントが起きていますね。
AI画像というところが議論になっているようですが、これは人それぞれの解釈だと思いますので触れないでおきます。

このムーブメントについて初耳学だよという方はこちらの記事を見れば大体の概要は掴めると思います。

早速ですが、タイトルです。
こちらのムーブメント、何故か日本ではあまり見かけません。
海外セレブのインスタにはバンバン流れてくるのに、日本のセレブたちは声を上げることにあまり関心が無さそう。
世界的問題や、政治に興味のある一定数の友人は当たり前のように反応を示していましたが、私の友人の中でも、このムーブメントに乗っかる人は少数派でした。
(単に私の友人が、興味のない人が多かっただけなのかもしれないけど。。)

ここで、私が長年思っていた疑問が再度思い浮かびました。

日本で意識高い系の発言をすると、問答無用で「イタイ人」と呼ばれるのはなぜだろう。

ナシ自身昔から海外に興味があったことも高じて、社会問題や世界で起きていることについての興味は強く持っていました。
日本の性教育の遅れ、性差問題の遅れ、「外人」などの排他的思考、選挙参加率の低さ、etcetc…
海外の文化に憧れていたからこそ、日本の文化との違いをなんでなんでとほじくり回していました。
しかし、そんな私に付いたイメージは、海外かぶれのイタイやつ
海外かぶれというところには反論しませんが、イタイやつ、というところには至極納得がいきません。

今となっては世間の流れがそうなので、性教育がどーの言い出したところでそこまでの言い方はされないでしょうけど、それでも一度アツく語り出してしまったらイタイやつ認定。
もしくは、〇〇ちゃんってそんなことまで考えてるんだ!すごいね!という他人事のような称賛を受ける。

なぜなのでしょうか。

一つの例を挙げてみます。
ナシはラランドのサーヤさんが好きなのですが、ある時サーヤさんのyoutubeチャンネルを見ていてこんなコメントを見つけました。

「サーヤは、サブカル風のちょっとイタイ感じある」

サブカル風のイタイ感じ、、とは??

熱量がすごくて早口で話し倒すオタク、みたいなイメージなのでしょうか。意見を押し付け、相手の話は聞く耳も持たないような、そんな感じ。

しかし私が思うに、彼女は相手の意見をしっかりと受け入れる幅を持っている方だと思います。(まあだって相方ニシダですから。)
もしこれでサーヤさんが社会活動に傾倒していたり、正論をただ人にぶっ放すような方だったら、ニシダの隣で10年も相方はやっていられないと思います。

そのコメントからは、サーヤさんの出ている色んな動画をしっかり見ているような雰囲気を感じました。
それでもなお、サーヤさんはサブカル風のイタイ感じ、なんて言われてしまう。
なぜなのでしょうか。

おそらくそれは、彼女に自分の意見がしっかりとあって、それをしっかりと伝える能力があるからなのだと思います。
彼女は、さまざまな問題に対して、公の場で誤魔化すことなく答えています。彼女の中で芯の通っている意見で、色んな質問をぶつけられてもそれはぶれません。

ナシも、彼女には共感が出来ます。
私も、さまざまな問題に対して自分ごとのように悩み、自分の意見をしっかりと持ち、相手に伝えることは得意です。

しかし、ナシの経験上、身近でない問題に対しての意見を、きっちりしっかり伝えてしまうと、大抵の場合相手は萎縮をします。そして称賛をします。

求めているのはそこじゃない!

称賛して欲しくて言っているのではないのです。
ただ、自分の意見を伝えているだけ。
そして、あなたの意見を聞きたいだけ。

私の知る限りの日本人の場合、自分が思っていることをそのまま外に出す、という習慣がないために、自分の意見と相手の意見を対面させる、ということがどういう意味を持つのか、がわかっていないんだと思います。

相手の意見と自分の意見が違う場合、それは押し通した方の意見が正解になる。声が大きい人が勝利する。
自分の意見に疑問を投げかけられた場合、疑問=否定であり、自分の意見は否定されていると思う。

義務教育では無個性を求められ、出る杭は打たれる。
皆、同じを求められる。

まあそりゃそんな考えになりますわな。

つまり、先のコメントをされた方は、自分の意見をはっきりと持っていて、はっきりと言える人=押し通す人、という偏見があるのだと思います。
そして、この偏見は日本の義務教育を受けた人間皆の心に潜むものなのだと思います。

海外ではWhat I feelが重要です。つまりは、自分が何を思ったか。
自分はこう思った!と、そう外に向けて発信しているだけ。
自分の発信がまず先で、相手の意見を受けて疑問に思うなら質問するし、共感するなら共感する。合わないなと思ったら離れていきます。
しかし日本では、what we feelが優先されます。皆同じ気持ちでいたほうが安心、皆どう思ってるのかな、否定されたくないな、brabrabra..

討論や自分の意見を持っていると言うことに対して、良いイメージがないのです。

そんな日本で、このムーブメントは果たして流行るのでしょうか。

まずは、相手の意見を受け入れる、という工程を普及させなければいけない。そして、皆違って皆良い、という認識も普及させなければいけない。

日本では、多様性を理解する、という言葉が多用されますが、これは誤解を与える言い方だと思います。
当人でない限り、理解は出来ません。色覚異常の方の視野は、どう考えても分かりませんし、自分の色覚が正常かどうかも実は分かりません。カントが切り捨てた哲学なのです。そういうことです。
ただ、自分にはこう見えていて、相手にはこう見えている。その事実を、ただそのまま受け入れることは出来ます。
なるほどね、そう見えるんだね。
それだけです。

反対意見を恐れず、受け入れる心を持って、ここは一つ小さな一歩を出してみませんか。

虐殺への沈黙は、後世の教科書に載せてはいけません。
興味を持ってみませんか。



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