見出し画像

令和3年 敦煌への旅

学生時代に中国語を学びながら”シルクロード”、”河西回廊”との言葉を聞いてなんとも言えぬ古代西域へのロマンを感じたものだ。仕事で20年近く中国各地に駐在したが敦煌には行く機会がなかった。定年退職後に夫婦で海外旅行を始めたが、昨今の事情で自由に動けなくなった。昨年8月から北京に来て高齢の岳母の入院、看病そして葬儀と慌ただしく時間が過ぎ、やっと落ち着いたので中国の国内旅行に出る事にした。中国から海外への旅行は厳しく制限されているが国内旅行は解禁されている。妻と相談して二人とも以前から興味はあったがまだ行ったことのない敦煌、莫高窟への旅へ出ることにした。令和3年(2021) 4月のことである。

1. 事前準備

<私人訂制>
北京から敦煌へはフライトもあり高速道路も通じている。自分で飛行機の切符を買ったりレンタカーでドライブして行くことも可能だが、折角西域へ行くのだから近隣の観光地も多く観たい、河西回廊も巡りたい、現地のガイドが欲しい、移動は専用車にしたい、夜は当地のグルメを味わいたい、などの我儘な要求が沢山あり、土地勘のない個人では手配が難しい。そこで『令和元年、ロシアの旅』でお世話になった大手旅行会社「携程」に相談を始めたら担当からすぐに連絡があり”私人訂制” (オーダーメイド)のプランを3案出してくれた。それぞれのルート案を地図を片手に検討したが一番気に入ったのが、青海省西寧から入り時計回りに廻って甘粛省へ入り、敦煌から河西回廊を東へ渡り張掖から北京へ戻るルートの8日間プランだ。車はトヨタのRAV4、専属の運転手兼ガイドが空港出迎えから見送りまでやってくれる。年寄りの我儘な要求がほぼ満たされた旅程となり費用は二人でRMB11,800元。往復のフライト、現地での全行程車代(高速、燃料代込み)、ホテル代(7泊朝食付き)、莫高窟のA切符代(256元)を含んで一人約9万円、日本の九州や北海道旅行と同等レベルである。

画像1

(ルートマップ: 赤線が飛行機、黄色線が車、西寧からゴルムド経由で敦煌、嘉峪関、張掖と廻る)

<日程>
4月9日 11:55北京/大興空港→14:30西寧/曹家堡空港 東方航空.MU2428便 西寧・ “凯宾国际酒店” 泊
4月10日 ”タール寺”、"青海湖"、"茶卡(チャカ)塩湖"、茶卡・"金恒大酒店" 泊
4月11日 茶卡-都蘭-格尔木(ゴルムド)車移動約500Km、格尔木・"美豪酒店" 泊
4月12日 格尔木-大柴旦/“翡翠湖”-当金山-敦煌 車移動約630Km、敦煌・"艾斯仃酒店" 泊
4月13日 "莫高窟"、"鳴沙山・月牙泉“、敦煌・同ホテル泊
4月14日 敦煌-嘉峪関 車移動約320Km、“長城第一墩”,“ 悬壁長城”、嘉峪関・”天商酒店” 泊
4月15日 嘉峪関-張掖 車移動約200Km、”张掖七彩丹霞“, ”平山湖大峡谷“ 張掖・"都城暇日酒店" 泊
4月16日 12:55 張掖/甘州空港→15:55 北京/大興空港 連合航空.KN5676便

<敦煌の歴史>
まずは敦煌の歴史を勉強をせねばならない。有名な井上靖の小説『敦煌』が映画化されているのでアマゾンでレンタル(324円)して鑑賞した。宋の時代に科挙の受験に失敗した趙行徳(佐藤浩市)が西域に興味を持ち現地へ行くが、西夏・李文昊(渡瀬恒彦)の攻撃から敦煌の鎮護府にある仏典や書経を守る為に莫高窟の秘密の祠に埋めてしまう。何故数万点もの書経が埋められたのか、という歴史背景が良く分かったが、最近では西夏ではなく近隣のイスラム国の攻撃から守る為に仏典を隠したとの説もあるらしい。次に中国のテレビやネットで”敦煌”を検索すると大量の情報が出てくるが、文書の記録に残るのは前漢の衛青、霍去病将軍が西域の拠点として建設したのが最初で、以降2,000年以上の長い栄枯盛衰の歴史が有ることがわかった。予習はここまで、詳細は現地入りして莫高窟の歴史と共にお勉強することにした。

<PCR検査>
中国では新規の感染者は殆どいなくなったが、予防措置は続けており国内旅行にはPCR検査の陰性証明書が必要である。岳母が入院していた病院へ行って一人80元の費用で検査を予約したが、妻の友人の女医さんが知り合いのクリニックで無料で検査してくれる事になり変更した。どこの世界でも医者の紹介とは貴重なものだ。昨年8月に広州の隔離ホテルで受けて以来のPCR検査だ。早速クリニックに検査に行くと、前回と同様に長い綿棒を喉の奥に突っ込んでの検体採取だが、あの甘酸っぱい香りはしなかった。検査の結果は書類ではなく携帯に”電子証明書”が送られてくる為、クリニックで事前に検査アプリをダウンロードして結果通知に備える。出発前日の4月8日午前11時頃に携帯アプリに”陰性証明書”が送られてきたが、証明書の効力は一週間以内らしい(有効期限の記載はなし)。旅程最後の8日目は有効期限が切れてしまいホテルでトラブルかもしれないな、と少し心配したがどうしようもない、なんとかなるだろうと腹を括って出発した。結果、陰性証明書の提示を求められたのは7泊したホテルの内一軒のみで他はノーチェックだった。観光地のゲートでは北京の携帯アプリ「健康宝」の青色を提示すればOKだった。

<高山病対策>
青海省は海抜が高く、場所によっては3,000mから3,600mの高所になる為高山病(酸素不足)が心配である。1980年代にチベットのラサへ出張に行ったことがあるが、ホテルで3桁の部屋番号を何度聞いても覚えられないとか、ビール1本を飲んだだけで頭がクラクラしたことを覚えている。若い頃は無鉄砲でも済むが年寄りが酸素不足で倒れては周りに迷惑をかけるので事前に薬を飲んで行った。妻が知り合いの女医さんから聞いて「紅景天」というアンプル剤を出発一週間前から1日2本ずつ飲み始めた。出発後は現地でも服用できる同じ薬の糖衣錠を持参した。そのお陰かどうかよくわからないが現地では殆ど発病せず、せいぜい夜に寝つきが悪い、熟睡できないくらいだったが、これは誰にでもあるらしい。

2. 青海省

4月9日 08:15 タクシーで”北京・大興国際空港”へ向かう。初めての空港だ。従来の”首都空港”のみでは増え続ける航空需要をカバーできず、政府の肝入りで2014年に着工、2019年9月に完成した最新鋭の大型国際空港だ。市内から60Km以上あり成田空港(東京から70Km)へ行くような感じだ、まずは四環路、五環路と過ぎて南下、更に六環路を通って空港専用道路に入る。片道約1時間、09:20 に到着した。空港に入るのに携帯アプリ「健康宝」の提示は求められたが陰性証明書は特に求められなかった。出発ロビーは3階と4階に分かれており、東方航空は4階なのでエレベーターで移動する。搭乗手続でも陰性証明書の提示要求はなし、ちょっと肩透かしを食らったが、よく考えれば健康アプリ「健康宝」は毎日更新されており、万一危険地域、危険人物との接触があればすぐに赤色に変わるので、空港側もアプリの青色さえ確認すれば安心のようだ。

11:10 B31ゲートからMU2428便に搭乗、中国のフライトはいつも満員、一席の空きもなく定刻に出発。乗務員はマスクはしているが防護服は来ていない、制服のスカート姿に一安心。乗客も全員マスクはしているが緊張感はない。機内食も飲料も普通にサービスされた。なんだか疫病はもう解決済のような雰囲気で、3回目の緊急事態宣言が出された日本とは少し違和感がある。

14:08 定刻より早めに青海省の省都西寧・曹家堡空港に到着、空港出口には旅行社が手配したドライバー兼ガイドが待っていた。25歳の回族のおとなしい青年だが問題は車がトヨタのRAV4ではなく”カローラ”だった。高山地帯と砂漠地域を2,000Kmも走るのにSUVでないと不安だ、早速旅行社に連絡して車の交換を要求したら、「契約のプランには”RAV4か或いはその他車種”と書いている」とか、「中国製のSUVなら手配できる」とか言い訳を始めたが、最後は妻の交渉力が強く、何とか翌日からはホンダのCR-Vに変更してもらった。

15:50 空港から直行して1時間で”塔尔寺(タール寺)”に到着した。チベット仏教寺院で、ゲルク派の開祖・宗喀巴(ツォンカパ)を記念してその生誕地に1379年に建てられた。有名なダライ・ラマやパンジャン・ラマもゲルク派に属する。

画像2

(西寧:塔尔寺(タール寺)チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパの生誕地)

寺院内には黄金の瓦で葺かれた"大金瓦寺“や”小金瓦寺“、”八宝如意塔“などがあるが、圧倒的なのは御本仏ツウォンカパの像だ。高さ10m以上もあり金色に輝き宝石が散りばめられている。写真撮影禁止なのが残念だが宗派の開祖を如何に尊敬奉っているかが良くわかった。

画像3

(西寧:塔尔寺(タール寺)八宝如意塔)

19:30 ホテル“凯宾国际酒店” へチェックイン、夕食はホテル受付に地元の名物を聞いて近所の”清真(回教徒専門)”のレストランで”炕鍋羊肉“を食べる。鍋に羊肉と野菜のバーベキューを盛り合わせた料理で日本のジンギスカン鍋のようなものだ。主食は”面片”と呼ばれるラザニアのような四角い小麦粉料理で西寧の名物らしい。お酒は売っていない、これから一週間は禁酒で羊肉ばかりと覚悟を決める。

4月10日 08:30 ホテルへホンダ・CR-Vが出迎えに来た。ドライバーも交代、33歳の経験豊富なやはり回族で人の良さそうな馬(マー)さんだ。まずは高速に乗って”青海湖”へ向かう。中国の高速道路網は近年発達しており、特に首都北京からは全国津々浦々の大都市へは全て高速で移動できる。青海省には<G6・京蔵高速>という北京とチベット・ラサを結ぶ幹線高速が東西に横断していて、快適なドライブをエンジョイできる。

画像4

(馬さんのホンダ CR-V : '12年型モデル、6万Km走行、運転歴10年以上)

11:20 青海湖の南湖畔、”二郎剣景区“に到着、面積4,345Km2、中国最大の塩水湖だ。東西に100Km、南北に60Km、見渡す限り真っ青な湖面が続く。ドライバーの馬さんに「周りが陸なのになぜ”青海”と呼ぶの?」と聞いたら「この辺は大昔は海だったのが土地隆起で高原になった、昔の海だった部分を"青海”と呼んでいる」との説明で、青海湖がなぜ塩水湖なのかも理解した。ふと一昨年行ったロシアのバイカル湖を思い出したが、あちらは淡水湖で世界最深、最大貯水量で面積も31,500Km2ある。世界最大の塩水湖カスピ海もロシアにあり日本列島がすっぽりと入るくらい大きい。ユーラシア大陸には大きな湖がたくさんある。

画像5

(西寧:青海湖 正面に見えるのは魚雷発射試験台と説明があった)

写真を撮って次に向かう途中で”橡皮山”という高さ4,451mの山を超える。今回の旅ルートで最高海抜地点だと運転手の馬さんが教えてくれた。iPnoneのコンパスで海抜を見ると3,800mもある、富士山よりも高い場所を車で通っている。あらかじめ飲んで来た薬のお陰か、頭痛や呼吸困難の高山病は出なくて助かったが、周りは一面雪景色、寒くて風も強い。
13:50 道路沿いの食堂で遅めの昼食、馬さんが紹介してくれた”炮仗(爆竹)”と呼ばれる太い麺の焼きそばを食べる、麺の腰が強く美味しかった。
15:00 ”茶卡(チャカ)塩湖”に到着、湖の中に大きな塩の採取場がありトラムで沖まで行ける観光地となっている。青海省は海抜3,200mの高原大地にあるが大昔は海底だった為に各地に塩水湖があり塩が豊富に取れる。4月というのに気温は0度で寒い、持参したジャンパーを重ね着して身支度を整えて観光トラムに乗り込む。沖合まで約20分、ガタンゴトンと揺られながら列車の中から両側に広がる採塩場を見る。降雨量が少ない為毎年少しずつ干上がって岸辺の塩が地表に出てくる。その上にレールを引いてトラムを走らせていた。若い観光客はビニールの靴カバーを履いて(売店でレンタルしている)岸辺から塩道に入って記念写真を撮っている、あたかも湖上にいているような効果が出るのが人気のようだ。

画像6

(茶卡(チャカ)塩湖:白く見えるのは氷ではなく塩)

17:30 ホテル “金恒基大酒店" にチェックイン、湖畔の景色が窓から見える洒落たホテルだ。寒さ疲れもあったので夕食はホテル一階のレストランで”酸辣湯面(汁そば)” で簡単に済ませたが、西域の小麦は寒い地域でできる為か麺類が美味しい、昨晩の”面片”と言い、本日お昼の”炮仗”、夜の”湯面”と言い麺に腰があり美味しい、楽しみが一つ増えた。

4月11日 08:00 ホテル一階のビュッフェで朝食を取り、持参したドリップ・コーヒーを飲んで09:15 に出発、青海省の西玄関、“格尔木(ゴルムド)”を目指す、距離は約500Km、東京〜大阪間の距離だ。高速が工事中の為午前中は一般国道 <G109>を走るが片道一車線で大型トレーラーが絶え間なく走る。馬さんが時々対向車線にはみ出て追い越しをかけるので少し心配になる。
11:00 2時間走ってトイレ休憩、11:30に“都蘭(ツーラン)”着、スタンドにて給油(92号ガソリン、RMB7.6/L、40L)、距離が長いので毎日給油が必要だ。
12:10 ドライブインにて昼食、昨日に続き”炮仗”と呼ばれる焼きそばが美味しい。13:10 昼食後”香日德“から<G6・京蔵高速>に入る。片道二車線の高速道路は西に向かってどこまでもまっすぐに続いている。北京から呼和浩特、銀川、蘭州と走って来る<G6>高速は青海省の西寧とゴルムドを通ってチベット自治区のラサへと辿り着く、全行程3,710Kmでその内の500Kmを今日1日で走る勘定だ。

画像7

(G6・京蔵高速:北京〜ラサを繋ぐ高速、西へずっと一直線)

14:40 “諾木洪”SAで休憩、路標を見ると2435と書いている。恐らく北京から2,435Kmの地点との意味と思うが、1日500Kmとして5日間かかる。今回北京から車で行こうかと思ったがちょっと遠い、飛行機で良かったと思う。
16:10 “格尔木東”の出口で高速を降りてゴルムド市内に入る。観光予定は無い。
16:40 ホテル "美豪酒店" へチェックイン、一日中車を運転してお疲れの馬さんにはゆっくり休んでもらい、夫婦で近所の食堂街を散歩した。今晩の夕食は”羊肉串”、長めの金串に小さな羊肉を数個刺して焼いて食べる。北京にも売っているが旅先の本場の羊肉が何とも言えぬ美味しい。ビールが無いのは寂しいが”清真”のお店なので仕方なし。ホテルへ戻る道から南側に崑崙山脈が遠くに見える。山の向こうはチベットだ。西へ行くと新疆ウイグルのタリム盆地へと続き、シルクロード(西域南道)へと繋がっている。北へは甘粛省の敦煌経由で西域北道(天山南路、天山北路)と繋がっている、ここゴルムドは西域交通の要衝なのだ。

画像8

(ゴルムド:南側に崑崙山脈が見える、山の向こうはチベット)

4月12日 08:00 ホテルで朝食後に出発、いよいよ敦煌に向かう。距離は630Kmもあり、今回の旅程で一番長い移動距離だ。途中で観光予定もあるので早めに出る。まずはスタンドでガソリンを給油(92号,@RMB7.65/L, 37L)、08:20 ”格尔木北”から<G3011>高速に入り一路北上して敦煌を目指す。入り口で聞くと工事中の為、途中の”当金山口”までしか開通していないらしい。南北を5,000m級の山脈に挟まれた巨大な“柴達木盆地”(チャイダム盆地)を車はひたすら北上する。盆地とは言え海抜3,000m以上もあり草木は生えない土漠が続く。馬さんがこの辺は”無人地帯”だと教えてくれたが、正に猫の子一匹出てこない。時々風力発電塔の大きなプロペラが無数に続くのが目に入る程度だ。
09:00 “察尔汗”を通過、右手に製塩工場が見えた。周りには大きな塩湖があり原料には永久に困らない。高速道路の横に鉄道が走っている、西寧とラサを繋ぐ有名な”青蔵鉄道”だ。世界一標高の高い場所を走る鉄道として2006年に開通、青海省とチベットの境界にある”唐古拉山“(タングラ山)を横切る際に「最高海抜5,072m」と書かれた記念の石牌が立っていて列車の中から見えるらしい。一度乗ってみたい鉄道である。写真が上手く撮れなかったのでネットから拝借する。

画像9

(青蔵鉄道:平均海抜3,000m以上の世界一高い場所を走る。出典・”百度百科”)

09:30 "錫鉄山”料金所を通過、09:50 "小柴旦”を通過、10:15 "大柴旦”で高速を降りて”翡翠湖”に向かう。塩湖なのだが塩に含まれる化学成分と太陽の光で湖水が翡翠の色をしている珍しい湖だ。入場料も駐車場もフリーだったが、5月からは有料になるらしい。

画像10

(大柴旦:”翡翠湖” 白い部分は塩、20カ所以上あり全て回りきれない)

3. 甘粛省

11:50 <G3011>高速に戻り再び敦煌を目指して北上する。昼食は時間節約の為車内でビスケットとドライフルーツなどを食べる。12:15 ”魚卡“料金所を過ぎて、13:50 遂に青海省境界を通過、甘粛省へ入る。14:00 "当金山口”料金所を出る。高速道路はここまで、後は一般国道<G215>を走るが片道一車線の山道、しかもずっと下り坂で危険度が高い。時々道路の路肩にブレーキ故障車用の非常退避地帯がある、箱根のターンパイクにあるのと同じで砂利の登り坂になっている。
14:30 ”阿克塞”に到着、敦煌までもう直ぐだ。”石油小鎮”という映画の撮影村を見学、’50-'60年代に”冷湖”(ロンフー)という油田があったが資源枯渇した為ゴーストタウンとなりその廃墟を利用して映画村にしたものだ。

画像11

(阿克塞:”石油小鎮”  廃墟を利用した映画村)

16:30 遂に敦煌に到着、朝08:00に出発して630Kmを8時間半、途中で二ヶ所観光しているので、実質6時間半で走破した。今回の旅の最重点目的地である。まずはホテル ”艾斯汀酒店“ (AISTING HOTEL)へチェックイン、一休みして、17:30 馬さん推薦のお店へ一緒に行き、ご当地グルメ”手抓羊肉“の夕食を取る。大皿に盛られた茹で上がったばかりの骨付き羊肉を手掴みで豪快に食べる。主食は”清湯面片“、スープに入ったラザニアだ。車の長旅の疲れが吹き飛ぶ。食後元気が出たところで、これも馬さんの推薦で敦煌と莫高窟の歴史を紹介する演劇『又見敦煌』(敦煌での再会)を鑑賞に行く。敦煌へ来た人は必ず見るらしく、入場券(@RMB298/人)も彼が予約してくれていた、運転手兼ガイドの本領発揮だ。ホテルから車で20分程、郊外の大きな常設劇場へ行くと駐車場には大型バスが次々と到着、全国的に有名な演劇で観客も多い。20:00 入場するが座席が無いのに驚く。真っ暗な広間に立ち見で待っているといきなりライトが点灯、スポットライトを浴びて古風な服装をした役者が一人づつ出て来て何かを語りながら中央の花道を横断していく。観客も立ち見なので自由に花道の横で一緒に移動できる。最初の人物は前漢の張騫(ちょうけん)だ、紀元前139年に敦煌から西域へ出て大月氏国等を廻って12年後にやっと長安へ戻る、東西の交易を開きシルクロードを最初に作った人物だ。

画像12

(敦煌:演劇『又見敦煌』前漢の張騫が2000年を超えて現代に語りかける)

その後西晋の索靖将軍、唐代の詩人王維、玄奘和尚、張義潮節度使、悟真和尚、清朝の王圓簶道士など敦煌に関係する人物が次々と現れて現代の観光客たちに話しかけて来る。第二幕は清代末、莫高窟で数万点の仏典書経を発見した王道士の物語。1907年にイギリス、フランス他の外国人探検家から国宝級の書物を売ってくれと頼まれて良心の呵責を感じるが、荒廃しきった莫高窟の修理費用をなんとか捻出したいとの思いがあり結局安く売ってしまった。後悔の念を懺悔するが経典の中から菩薩が出て来て寛容な心で王道士を許してくれる。一般的には国宝を海外流出させた売国奴との評価だが敦煌の演劇では菩薩が許してくれた。

画像13

(敦煌:演劇『又見敦煌』莫高窟の王道士と仏典中の菩薩とのやりとり)

その後何幕か敦煌の歴史を作った人物達の演劇があり、最後は着席で舞台上に役者全員が揃ってのフィナーレ、美しい王朝絵巻が展開された。中国で有名な女性映画監督、王潮歌がプロデュースした演劇だが、敦煌2100年の歴史を1時間半で体験できたのは良かった。

画像14

(敦煌:演劇『又見敦煌』フィナーレの華麗なる王朝絵巻)

4月13日 09:00 ホテルでビュッフェ朝食後に出発、莫高窟へ向かう。市内から東南方向へ車で20分ほど走ると”莫高窟・数字中心”の大きな駐車場に到着、予約と発券、映画館、バス発着ターミナルの総合センターだ。パスポートを提示して旅行社で予約している”A切符”を2枚受け取る。1枚238元で映画2本と石窟8個の見学が含まれるが、1日6,000枚の限定販売で観光シーズンには予約を取るのが大変らしい。”B切符”は100元で1日12,000枚発行されるが石窟は4個しか見れない。先ずは隣の映画館に入って映画を2本見る。1本目は敦煌の歴史を紹介、昨晩演劇『又見敦煌』で見た前漢の張騫以来2100年の歴史をおさらいできた。2本目は360度のパノラマ・スクリーンで莫高窟の歴史と内部の仏像、壁画を紹介する映画だ。五胡十六国の時代、366年に”楽僔”和尚が敦煌に来て西方の三危山頂に金色に輝く千万の仏像が出て来たのを見て聖なる地と確信し、山の壁面に洞窟を掘り仏像を供養して修行をしたのが最初で、以降歴代の王朝で僧侶達が洞窟を掘って仏像、壁画を供養し修行を続け、8世紀の唐代までに”千仏洞”と呼れる規模となり、更に五代、宋、西夏、元の時代まで掘られ続けて来た。だが明朝になると国境を嘉峪関まで下げて敦煌を保護せず、海のシルクロードも開けたので莫高窟は寂れる一方となった。

画像15

(敦煌:莫高窟 楽僔和尚が万仏の姿を見た三危山、北部の石窟群)

4世紀から14世紀まで千年間に渡って増え続けた石窟は現在735個あり、2,415体の仏像、4.5万m2の壁画が保管される世界最多、最大規模の仏教芸術の遺跡となっている。10:30 ターミナルから莫高窟への専用バスへ乗車、すぐに両側は砂漠になる。20分ほど西南へ走ると前方に三危山が見える。砂漠の真ん中を横切る小さな川の上の橋を渡ると莫高窟への入り口に到着、バスを降りると赤いマントを来た女性説明員がやって来た。A切符の客、約20名を集めて1グループにして改札口を通ると「この20名が私のグループです、私から離れないで下さい」、「石窟内は全て撮影禁止です、遵守してください」とマイクで喋る。皆でゾロゾロとついていく。

画像16

(敦煌:莫高窟 20名1グループで赤マントの説明員(左端)の後に続く)

最初の石窟は第328番だ、全ての石窟に通しの番号がついていて入口上部に金札が貼っている。彼女についていかないと施錠された石窟に入れないし説明も聞けない。現場では撮影禁止だが、後から仏像や壁画をゆっくり見たい人には『敦煌研究院』の公式HPで詳細な説明が読めるQRコードも貼っているのが有難いサービスだ。

画像17

莫高窟:328窟 唐前期・釈迦と弟子、菩薩像。出典・『敦煌研究院』公式HP)

最初の仏像を見て驚いた、法隆寺金堂の釈迦三尊像によく似ている。唐前期と言うのは西暦618−704年らしく、法隆寺の方は推古31年(623年)なのでほぼ同時期であり、中央の釈迦仏の髪型、手足の印、袈裟が似ている。両側に弟子の迦葉(右)と阿難(左)の立像を挟んで、二体の菩薩が脇侍して三尊像を構成しているのも同じだ。中国から日本に仏教が伝来して来たのを実感できた。

画像18

(参考:法隆寺金堂 ”釈迦三尊像”  中央に釈迦如来像、両側に脇侍菩薩が二体。出典・ウィキペディア)

合計8個の石窟を回ったが番号と内容のみを簡単に記録しておく。『敦煌研究院』または学術記事のリンクを貼っておくので興味のある人は後で詳細を閲覧できる。
莫高窟:329窟 唐前期(7-8世紀)飛天の天井画他。
莫高窟:332窟 唐前期(7-8世紀)釈迦三尊立像、涅槃像他。
莫高窟:340窟 唐前期(7-8世紀)四重の塔天井画、十一面観音壁画他。
莫高窟:17窟(蔵経洞)唐後期(9-10世紀)王道士が経典等を発見した洞窟。
莫高窟:257窟 北魏(5-6世紀)釈迦説法像、弥勒菩薩像、九色鹿物語壁画他。

画像19

莫高窟:96窟 唐前期(7-8世紀)  ”九重の塔”の中に高さ35.5mの大仏(弥勒菩薩)があり、莫高窟のシンボルとなっている。)
莫高窟:148窟 唐中期(8-9世紀)14.4mの釈迦涅槃像が横たわる。

説明員による洞窟内部説明は以上で終わりだが、出口への途中「ここが一番有名な洞窟ですが本日は見れません」と言って45窟の外観のみ教えてくれた。後で『敦煌研究院』発行の画集や公式HPで見ると確かに美しい仏像や菩薩像が並んでいた。昨日の映画紹介でも何度も出てきたし、よく見ると売店で買った絵葉書の表紙もここの菩薩像だ。敦煌の人気ナンバーワンらしいので記念に『敦煌研究院』公式HPの写真を拝借して貼っておく。次回には是非とも拝謁したいものだ。

画像30

莫高窟:45窟 唐中期 中央に釈迦、左に阿難、右に迦葉を挟んで菩薩と天王が一対づつ並んでいる。いずれも保存状態がよく最も美しい仏像と言われている。出典・『敦煌研究院』公式HP)

売店で画集や絵葉書を買った後、説明員さんが是非とも見ていく様にとアドバイスのあった『敦煌石窟文物保護研究陳列中心』でレプリカ展示の石窟を見た。原寸通りに本物そっくりに作られた石窟で迫力満点だがこちらも写真撮影が禁止、番号のみ記録しておく。将来的には観光客が観れるのはこちらのレプリカのみになるとの噂もあり本物を見るなら今のうちかもしれない。
莫高窟:217窟、249窟、275窟、276窟、285窟、419窟、榆林窟:29窟。
入り口近くに、日本との文化交流の歴史も紹介しており、東京芸大や平山郁夫画伯との交流の写真が紹介されていた。

13:15 専用バスで数字中心ターミナルへ戻り、馬さんが待ってくれていた駐車場でCR-Vに乗り換えてホテルへ戻る。近所のレストランで馬さん推薦の地元料理、”驢肉黄面“(ロバ肉そば)で遅めの昼食をとる。肉が少し硬いが黄色の麺とつゆの味は十分美味しかった。

16:00 敦煌での次の観光地”鳴沙山・月牙泉”へ行く。砂漠の真ん中に永久に枯れない泉がある、三日月の形をしているので”月牙泉”と呼ばれている。先ずは砂漠の方に入り、駱駝に乗って”鳴沙山”の中腹まで登る。

画像31

(敦煌:鳴沙山 山の麓から中腹まで駱駝にのって登る)

山の頂上から砂ぞりに乗って下まで滑って降りてくる遊びがあるのだが、頂上までは駱駝も無く50mほど砂山を歩いて登らねばならない為にギブアップ、また駱駝に乗って山を降りて来た。

画像21

(敦煌:鳴沙山 山の中腹で客待機中の駱駝の群れ)

山の裏側に回るとオアシスの泉”月牙泉”に出る。河西回廊の南側にそびえる祁連山脈は5,500m以上の高山地帯、山頂の雪溶け水が地下水道を通って湧き出て来るので永久に枯れないらしい。それにしても砂地でどうやって水が貯まるのか不思議だったが泉の底に繁殖している大量の水草を見て納得した。砂の目が細かく池の周りを歩くだけでも靴に砂が入る、公園の入り口で10元で買ってきた靴カバーが役に立った。

画像22

(敦煌:月牙泉 永久に枯れないオアシス、周りは砂漠の山・鳴沙山)

旅行社プランでは泉の辺りに座って”砂漠の夕焼け”を鑑賞するアイテムがあったが、西域の陽は長い、落日までまだ相当時間があるし朝から歩き疲れてお腹も減ってきたので”花より団子”、馬さん推薦の”敦煌夜市”へ夕食に向かった。夜市はさすがに東西交易の中心場所、回教徒以外にも色々な客が来る様で”大肉”と呼ばれる豚肉の中華料理やお酒を売っている店も多い。久しぶりのビールを飲んで羊肉料理で腹ごしらえしたが、観光客相手で値段は高く味ももう一つ、期待はずれだった。

4月14日 09:00 2泊した敦煌のホテルを後に”嘉峪関”へ向かう、約320Kmの距離だ。市内を出て東に向かって走ると右手に”敦煌空港”、左手に”敦煌駅”が見える。その昔、西域からシルクロードを通って来た隊商一行は敦煌で一休みして、この道、河西回廊を一路東に向かって長安を目指したのだろうと思うと感慨深い。09:30 敦煌入り口から<G3011>高速道路に入り、1時間ほど走ると分岐点の"瓜州”に着く。左(北)へ行くと新疆ウイグル自治区のウルムチ方向だが、我々は直進、<G30>の本線に入り蘭州方向へ向かう。中国で最も距離の長い<G30・連霍高速>は東シナ海に面した”連運港”から徐州、鄭州、西安、蘭州、ウルムチを通って”天山北路”を横断、西隣りの国カザフスタンとの国境、”霍尔果斯”(ジャルケント付近)までを繋ぐ全長4,280Kmの高速道路、正に現代の”陸のシルクロード”とも言える幹線道路となっている。
12:10 ”玉門市”から”赤金”を過ぎて、13:10 ”黒山湖”料金所から出て嘉峪関市内に入る。14世紀、明代に作られた”万里の長城”の西端の関所、"嘉峪関”に到着した。

画像23

(嘉峪関:地上からの高さ30mもあり圧倒される)

ジンギスカン以来の蒙古民族の元朝を倒して明朝を開いた朱元璋(洪武帝)は北方の蒙古との戦争に苦労し国境に巨大な城壁を築いた。三代皇帝の朱棣(永楽帝)は首都を南京から北京へ遷都し、蒙古に5回も遠征し国境の城壁を整備した。それらが現在遺跡として残っている”明の万里の長城”である。此処嘉峪関から北側蒙古境界の尾根伝いに城壁を築き東の果て”山海関”まで続き、渤海湾の秦皇島で海に入る。現在の距離で4,000Km以上もある万里の長城の西端である。

画像24

(嘉峪関:高さ10.7mの城壁の上に3棟の三階建の楼閣が建っている、右端が西域からの入口、左端が”明国”内への入口だった)

15:00 車で北へ50分ほど走ると険しい山脈に当たる。当時の蒙古との国境で山の尾根伝いに何キロもの城壁が目に入る。嘉峪関から出て来た平地の城壁がここから山に登って行く。坂が急で45度もあるので”懸壁長城“(岸壁の長城)と呼ばれている。北京で何度も行った”八達嶺”や”慕田峪”の長城と何千Kmか先で繋がっていると思うと感慨もひとしおである。山頂まで歩いて登れるが往復する体力の自信がなく遠慮した。

画像25

(嘉峪関:懸壁長城 険しい”黒山”の山腹を登って行き東端の山海関まで続く)

16:40 嘉峪関のホテル”天商酒店”へチェックイン、夕食はホテル近所の”大唐美食街”という食堂街を散歩しながら”清真”料理の店へ入り、羊肉の串焼きと骨付き腿肉を堪能した。勿論ビール・酒は売っていない、お茶で楽しむ。

4月15日 09:00 ホテルでビュッフェ朝食の後出発、最後の目的地”張掖”を目指す。距離は約200Kmで遠くない。昨日も走った<G30>高速に入り蘭州方向へ2時間も走ると張掖市に入る。前漢王朝が河西回廊に設置した四郡の一つで、武威(涼州)・酒泉(粛州)・敦煌(沙州)と並んで張掖(甘州)には長い歴史があるが、現在では遺跡よりも大自然の雄大な景色が有名となって全中国から観光客を惹きつけている。”張掖七彩丹霞”、英語で"Rainbow Mountain" と呼ばれるカラフルな珍しい山がある。11:00 ”張掖丹霞”の出口で高速を降り一般国道を30分ほど南へ走ると祁連山の麓に広がる”張掖七彩丹霞公園”の入り口に到着した。入場券売り場で”団体バスコース”か、値段が3倍ほど高い(368元/人)”少人数コース”かを選ばねばならない。”少人数”の方は専用車とガイドがついていて、回るコースも一番奥の洞窟まで行くらしい。折角ここまで来たのだからフルで見れるコースを選んで、フォードの小型バンに乗り込む。もう1組いて合計4人で専門ガイドの説明を聴きながら山間部に入っていった。

画像26

(張掖:七彩丹霞公園 赤、白、緑のコントラストが美しい山並み)

ガイドに何故地肌が赤いのかと聞くと、この辺は大昔は海底だったが隆起で地表に出て地中に含まれた鉄分が空気と接して酸化して赤くなったとの事、白い部分は海底の塩分で他にも様々な化学物質があり酸化により七色になったらしい。大自然が織りなす奇跡の色彩に感動して、iPhoneで何枚も素人写真を撮ったが絵葉書やネット写真ほど綺麗には撮れなかった。

画像27

(張掖:七彩丹霞公園 ”臥虎山” 虎が横たわる模様に見える山)

14:30 丹霞公園を出発して張掖市内を抜けて北へ50Kmほど行くと”合黎山”が見えてくる。内モンゴル自治区との境界で2,000-3,000m級の山並みが続きその中に巨大な峡谷があり観光地となっている。
16:00 "平山湖大峡谷”へ到着、西域は陽が長いのでまだ十分に遊べる。入り口の入場券売り場でまたも参観コースを選ばねばならない。一番高いA切符(263元)はジープで峡谷の底に降りてラクダに乗って移動、最後は600段以上もの階段を登ってくる周回コースで最も多く観れるとの説明で、またしても一番高い切符を買う。今回旅行社へ払った費用には入場料が含まれていない理由がよくわかった。行く先々で常に”松竹梅”のコースがあり、値段が3倍も異なるので、旅行者が現地で選んで自分で買う段取りになっている。最後だし折角来たので”松”のコース、A切符を2枚買う。最初はバスで山の尾根を走り”グランド・キャニオン”のような景色を上から眺める。

画像29

(張掖:"平山湖大峡谷" 壮大な峡谷が続く、山の向こうは内モンゴル自治区)

渓谷を山の上から眺めた後、大型のジープに乗って谷の底へ降りてゆく。ジェットコースターのような急勾配で降りるので少し怖い。谷底では両側の岸壁を見上げながら駱駝車に乗って移動する。

画像32

(張掖;"平山湖大峡谷" せまい谷底を駱駝車で進む)

最後は谷底から山頂まで100mもありそうな岸壁を螺旋階段を登って行く。途中で何度も休まねばならないほど息が上がってしまった。別のコースでは階段ではなく梯子(はしご)を攀じ登るらしい、若者向けアドバンチャーとしては良いが年寄りにはまず登れない。出口へ向かうバスの運転手が「何かご意見はありますか?」と聞くので「あの螺旋階段は年寄りには厳しい、年寄り客を期待する観光地にするにはエレベーターにすべきだ」と意見を伝えておいた。
20:30 ホテル”都城暇日酒店”に遅めのチェックイン、明日は北京へ戻るので馬さんへの労いとお礼を兼ねて一緒に夕食をした。地元の美味しい羊肉のお店を紹介してくれて、肉と野菜のバーベキューを大鍋に盛った”炕鍋羊肉“を中心に、“炮仗“(焼きそば)、”帯魚”(太刀魚のフライ)で最後の晩餐、”八宝茶”で乾杯をした。

4月16日 09:30 ホテルでビュッフェ朝食の後、出発、張掖・甘州空港へ向かう。約50分で到着、荷物を卸して馬さんの任務完了だ。7日間、2,000Kmの西域の旅を1人でCR-Vを運転して案内してくれた。本当にご苦労様、3人で記念写真をとった後にお別れをした。この後馬さんは1人で運転して西寧へ戻る、距離は約250Km夕方までには自宅へ戻れると嬉しそうに言っていた。

画像28

(張掖:馬さんのホンダCR-V、青海省と甘粛省を7日間で 2,000Kmを走った)

10:25 北京行き連合航空KN5676便に搭乗、PCR陰性証明書の提示もなく、普通に安全検査を受けて搭乗口までやって来た。機内は満員、全員マスクはしているが防護服はなし。 連合航空というのは初めて乗ったが、元は北京・南苑空港で営業していたが閉鎖に伴い、上海の東方航空傘下に入り北京大興空港専門に全国各地方へ発着するラインとなっている。
16:00 ほぼ定刻に北京大興空港へ到着、タクシー乗り場は空いている。首都空港と違って並ばずに乗れたのは有難い。6環路から5環路はスムーズに走ったが、4環路から市内へ入る道は退勤時間の渋滞に巻き込まれ、自宅へ戻るのに1時間15分かかった。料金も200元以上で首都空港からの倍の時間と費用がかかる。国際便は首都空港、国内便は大興空港と振り分けているようだが、首都空港でも国内便を飛ばしてもらいたいものだ。

エピローグ

4月9日から16日まで、8日間で青海省から甘粛省、河西回廊を2,000Kmのドライブで回って来た。毎回旅行から家へ戻って10日間ほど思い出に浸るが、今回も”西域ロス”が続いた。写真を整理しながら、敦煌で見た演劇や映画、莫高窟で見た仏像、壁画を思い出し、売店で買った画集、歴史書、絵葉書などを見ながら旅のおさらいをした。

<敦煌年表>
中国4,000年の歴史の中で敦煌は2,100年以上の歴史を持つ古い街だ。しかも東西南北、四方八方から異民族が集合離散する坩堝の街であり、砂漠の中の永遠のオアシスであり、そして現存する世界最大の最古の仏教美術、遺跡の街である。
売店で買った歴史の本を参考に敦煌の重要な出来事年表をまとめて見た。

紀元前139年 前漢の武帝が張騫を西域に派遣、シルクロードの始まり。
同119年 前漢の衛青、霍去病が西域を平定、敦煌鎮を建設、交易で賑わう。
西暦90年 前漢末の混乱を後漢の班超が平定するが後漢末にまたも混乱。
同231年 三国・魏明帝(曹叡)が倉慈を太守として派遣、平定し復興する。
366年 五胡十六国(前秦)楽僔和尚が三危山壁面に最初の洞窟を掘る。
400年 五胡十六国(北凉)敦煌を都として建国、経済文化が発展する。
439年 北魏が統一、仏教重視の政策で大量の仏像、壁画が献納される。
609年 隋煬帝が大部隊を率いて西域を巡回、河西回廊の安定、交易強化。
645年 唐・玄奘(三蔵法師)が天竺(インド)より大量の仏典を持ち帰る。
695年 唐・則天武后の詔勅で全国に大仏を建立、敦煌でも96窟の大仏建造。
755年 安史の乱で唐が混乱、吐蕃(チベット)が河西回廊を征服。
850年 敦煌で張議潮が反乱、吐蕃から唐朝へ復帰、西域への通路が再開。
914年 敦煌の節度使が張家から曹議金の曹家となり、唐以降の五代王朝へ帰属。
1036年 西夏の李文昊が宋の領地、敦煌へ攻め込み属領とする。
1227年 ジンギスカンが西夏を滅ぼし、元の属領となる。
1372年 明初・朱元璋が嘉峪関に国境の城壁を設置、敦煌は異境となる。
1524年 明朝は嘉峪関を閉鎖、東西の交通を遮断、敦煌は寂れる一方。
1900年 清末・王道士が”藏经洞“を発見、経典等を英仏等外国へ売渡す。
1987年 世界文化遺産の認定を受け遺産保護活動を本格化。

<漢詩に見る西域>
河西回廊と言えば”陽関”とか”夜光杯”などの漢詩の片々字句を思い出す。現地ではじっくり漢詩を味わう暇もなかったが、この旅行記のなかで写真を見ながら一杯飲みながら西域のロマンを楽しみたい、代表的な二首を記録しておく。

『送元二使安西』 (王維  701-761)
渭城朝雨浥(yi)軽塵、
客舍青青柳色新。
勧君更尽一杯酒、
西出陽関無故人。

『涼州詞』  (王翰 687-726)
葡萄美酒夜光杯、
欲飲琵琶馬上催。
醉卧沙場君莫笑、
古来征戦幾人回。

<次に行きたい場所>
今回行けなかったが、もう一度河西回廊を回るとすれば是非とも行きたい場所;
*玉門関:敦煌市内から西北方向へ90Km、前漢時代に作られた敦煌の西玄関。
*陽関:王維の漢詩にある”西出陽関無故人”を味わって見たい。
*酒泉、武威:河西回廊の粛州、涼州の重鎮都市、じっくり回って見たい。
現在外国人は訪問できないが、いつか新疆ウイグルの名所も行ってみたい。
*罗布泊(ロプノール):玉門関から更に西へ150Km行く、幻のロブ湖がある。
*楼蘭:ロプノールにあった幻の古代王国、4世紀に突然消滅した。

最後に今回の旅行で最も印象に残った写真を選んだ。河西回廊・敦煌を代表する写真で、莫高窟45窟の仏像群の中の”菩薩像”だ。現地の売店で買った絵葉書の表紙がこの菩薩像だったのでその写真を拝借する。敦煌の長い歴史の中で恐らく7世紀から8世紀が最も繁栄した時期と思う。最盛期の唐王朝が皇帝以下国を挙げて仏教を広め各地に寺院仏像を作らせた。莫高窟のシンボル、96窟の大仏はこの時期のものだ。関連は分からないが、奈良東大寺の大仏が作られたのもこの時期(天平17年・745年)で聖武天皇の発願による。全国、全世界から仏師が敦煌に集まり競うようにして作られた仏像、菩薩像の中で最も保存状態が良く美しいと言われるのがこの45窟の菩薩像だ。中央の釈迦に向かってS字形に体を捻っている。ギリシャ美人のような優しい顔つき、半開きの目にアルカイックスマイルの口元、敦煌芸術の代表作品と思う。

画像20

(敦煌:莫高窟45窟 菩薩像。 出典・『敦煌石窟』絵葉書)

今回、実物にはご拝謁できなかったが、次回また敦煌に行く機会があれば必ずや再会したいと願っている。

2021年5月12日  於北京

(完了)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?