別に辛くもないし嫌でもないけど

どうせ全部は書ききれないだろうから思い付いた分だけ書こうと思う。吐き出しているだけだから多少おかしな文章になるのは許して欲しい。

きっかけは昼に見たニュースだった。
3歳くらいで中国語を学習!教育ママに密着!みたいな。

『教育ママ
めちゃくちゃ好きじゃない言葉ではある。
今この現状に2人の教育ママが関わっているからかもしれない。
苦しくないし嫌でもないけれどモヤモヤの原因になっているのはほとんど確実だ。』

そのニュースを見て不快感を覚えたのを1人でどんどん深堀りしていったせいで今、爆発しそうになっている。


こう……なんというか、子どもの為に何かをする親みたいなものがそもそもどうなの?と思うところがあって、子どもが「何かをやりたい」と言った時に手助けしたり「何かをやりたい」と思わせることに対して何かをすることは良いと思っている。

ただ、「将来役に立つからこれをしなさい。あれをやった方がいいよ」みたいなことを言うのは本当に余計なお世話だと思ってしまう。

実際、中学高校の時はそう思っていたし「やっておいたらよかった!」と思ったことはそんなに無いのだ。
もちろん親が子どもの為を思って言っていることはわかる。

わかるんだけど、受け入れられるかどうかはまた別ではある。

また別の話。

親は「興味を持つ」と「やりたい」を混同している節があって、例えば昔「これ面白そう〜」と言ったことに興味を失っていることに気付くと「前やりたいって言ってたやん!」のような表現に変換してしまう。
過去を振り返ってみると経験してきたことの内、いくつが本当に興味があったのかわからない。

「これをやりなさい、あれをやりなさい」を断れなかった分もこの内に入っているので親からすると「あなたがやりたいって言ったことは全部やらせてあげたのに」みたいな感じらしい。

ただ高校2.3年くらいの頃に人生の主体性が本当に欠けていていることに気付いたので多分自分で決めたことはそんなに無いんだと思う。

今でもずっとそうなんだけど自己主張が全く無いかもしれない。
インターネットで胸の内をさらけ出す様にしてからは多少改善されたのでやっぱりそうじゃないかもしれない。
でもインターネットだけなのでそうじゃないかもしれない。

個人的なことを話さないといけない時に語ることが何も無い。
10年くらい通院しているはずなのにnoteだのはてなブログだのに綴ったようなことを話したことがない。
まぁこれは別の話なんだけれども。

その別の話について。

高校1年の時に躁鬱と診断されてから、カウンセリングを受け何か変わったかと言ったら別にそうでも無い。

そもそも診断された時点で「あーそうなんだ」くらいの反応しかしてなかったし、特段辛すぎて死にそうな訳でもなかった。

気分が落ち込んでいる時にブログだのなんだのを書き出したのもこの辺りだと思う。

1人で頭の中をグルグルと思考をかけ巡らせるのは結構楽しかった。
なんなら最近気分が落ち込むこともなくなってきて、そういうのが出来なくなってるのが不満なくらいには。

「あーそうなんだ」と思った理由としてもう1つ、その頃には全人類どこかしらには疾患を持っていてそれが表に出ているかいないかの違いでしかないと思っていたから。
これは今でもそう思っていて、価値観の基盤になっていそう。

ちょっとだけズレるけど関係して、人種も疾患も面倒くさそうなあれやこれやも全部ドングリたちが争っているくらいにしか思っていない。

そんなこんなで「躁鬱だからってなんか変わるわけじゃないし生活に支障が出るなら通院するか」くらいにしか思っていない。今でも多分そう。

受け入れてしまったまま10余年経ったせいで結構扱いは上手いけど別に治す気も持っていない面倒臭い人間になってしまっている。

結局、これまでにダラダラと語ったことって『人はそれぞれ生きててそこに干渉する必要は無い』ってことなんだけれど、かなりの人数はよくわからないらしい。

個人個人を完全に切り分けて考えている僕の程度が病的に近いことは理解しているんだけれど、それにしても健常者の人たちは群体として生きてるんじゃないか?って思うことがある。

SNSとか井戸端会議って自分と同じ意見の人が1人は必ずいるだろうからそこで「一般的な考えなんだ」ってやつが反射炉の如く増長してしまうんだと思う。

各々本当に怪物にはならないで欲しいと強く思います。

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