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オーストラリア日本語教師奮戦記141平和が一番!

イマニュエルカレッジ日本語教師2年目。Year 11 日本語クラス。大学受験学年1年目の生徒たちは大学入試の語学科目を日本語で受ける。イマニュエルカレッジで日本語の勉強を始めてから、前任の先生の指導を含めて今年で4年目になる。ひらがな、カタカナはもちろん漢字の読み書きもかなりのレベルのものをマスターしている。

今年から授業の初めの10分間、自分たちの身の回りのことを題材にして質疑応答をすることにした。私の方から話題を振ることもあれば、生徒の方から問いかけてくることもある。その中で出てくる難しい言い回しや単語の確認などが、生徒たちの日本学習の進み行きにプラス効果をもたらすことを期待していた。話題は3週間連続で「コアラ」。そしてその後2週間は「カンガルー」。そして「ウォンバット」、「クオッカ」、「エミュー」。その後はオーストラリアの州、都市談議。次はオーストラリアと日本の間にあった第二次世界大戦時の、私も知らなかった「カウラ事件」のことを説明してくれることになり、一回目、2回目、3回目と続き、今回が4回目になる。

生徒:S 私:K
S: ARAISENSEI NIHONJINWA DOOSHITE KYANPUKARA NIGEMASHITAKA SHIRIMASUKA
(アライ先生 日本人は どうして キャンプから にげましたか 知りますか) 
K: IIE YOKU WAKARIMASEN GUNTAINO KIRUTUKARA KAMOSHIREMASENNE
(いいえ よく わかりません ぐんたいの きりつから かもしれませんね)
S: GUNTAINO KIRITUWA EIGO NANIDESUKA
(ぐんたいの きりつは 英語 何ですか)
K: HAI GUNTAINO KIRITUWA army discipline DESU
(はい ぐんたいの きりつは army discipline です)
S: SOODESUKA YOKU WAKARIMASEN KYANPUWA TOTEMO free DE YOKATA IIMASU free WA NIHONGO NANIDESUKA
(そうですか よく わかりません キャンプは とても free で よかたいいます free は 日本語 何ですか)
K: HAI free WA JIYUU DESU
(はい free は じゆう です)
S: TAKUSAN JIYUUDE MINNADE farming SHIMASHITA YAKYUU SUMOO MAJYANO SHIMASHITA YOKATADESU farming WA NIHONGO NANIDESUKA
(たくさん じゆうで みんなで farming しました やきゅう すもう マジャンを しました よかたです farming は 日本語 何ですか)
K: farming WA NOOGYOO DESU
(farming は のうぎょう です)
S: DAKARA reason GA WAKARIMASEN reason WA NIHONGO NANIDESUKA
(だから reason が わかりません reason は 日本語 何ですか)
K: reason WA RIYUU DESU TOTEMO MUZUKASHII MONDAIDESUNE  NIHONNO GUNTAIWA OOSUTORARIANO GUNTAITO CHIGAIMASU
(reason は りゆう です とても むすかしい 問題ですね 日本の ぐんたいは オーストラリアの ぐんたいと ちがいます)
S: DONOYOONI CHIGAIMASUKA
(どのように ちがいますか)
K: NIHONNO GUNTAIWA HORYONINATTEWAIKENAITO OSHIERAREMASHITA
HORHOWA HAZUKASHIITO OSHIERAREMASHITA HORYONINARUNARA SHIO ERABUKOTOO OSHIERAREMASHITA
(日本の ぐんたいは ほりょになってはいけないと 教えられました ほりょは はずかしいと 教えられました ほりょになるなら しを えらぶことを 教えられました)
S: HAZUKASHII SHIOERABU WA EIGO NANIDESUKA
(はずかしい しをえらぶは 英語 何ですか)
K: HAZUKASHII WA ashamed SHIOERABU WA choose death DESU
(はずかしいは ashamed しをえらぶは choose death です)
S: SOODESUKA SOREWA HENDESUNE SHINJIRARERUDEKIMASEN
(そうですか それは 変ですね 信じられるできません)
K: HAI WATASHIMO SOOOMOIMASU SENSOOWA OSOROSHIIDESUNE
(はい 私も そう思います せんそうは おそろしいですね)
S:OSOROSHII WA EIGO NANIDESUKA
(おそろしいは 英語 何ですか)
K: OSOROSHII WA terrible DESU
(おそろしいは terrible です)
S: WATASHIWA SENSOO NAISEKAIWA SUKIDESU
(私は せんそう ない世界は 好きです)
K: WATASHIMO SOODESU HEIWAGA ICHIBANDESUNE
(私も そうです 平和が 一番ですね)
S: WATASHINOYUMEWA SEKAINOHITOGA NAKAYOSHINI IKIRUKOTODESU
(私のゆめは 世界の人が なかよしに 生きることです)
K: WATASHIMO HONTOONI SOOOMOIMASU
(私も 本当に そう思います)

自国語でも難しい話題を何とか日本語で話そうとする姿勢を誉めてあげたいと思った。実際にあった歴史上の悲劇をお互いに理解しようという気持ちがこちらにもひしひしと伝わってきて、生徒たちの成長がが感じられてうれしかった。わからない言葉はすぐに質問するという学びの旺盛さにも好感が持てた。

オーストラリアの捕虜収容所には、1944年8月のオーストラリア国内の捕虜数は、2,223名の日本人捕虜、14,720名のイタリア人捕虜、1,585名のドイツ人捕虜がいた。内1,104名の日本人がカウラ収容所にいた。

捕虜たちは、トマトやブドウの栽培、薪の為の伐採など、農業を行っていた。また警備は緩く、オーストラリア軍は負傷者・栄養失調者などを含む捕虜に、手厚い看護・介護を施した。日本人は人気の高い野球、相撲、麻雀などのリクリエーション活動が自由に許されていた。

収容所側は1944年6月3日、カウラに来て間もない日本兵捕虜が脱走を企てているとの密告を受け、これに危機感を感じていた。また収容人数が大幅に定員オーバーした事で、将校・下士官を除く兵士700名を、400km西に位置する別の捕虜収容所に移すことを計画した。兵士の分離を伏せていたが、警備兵の一人が口を滑らし、発覚した。日本兵にとっては、下士官と兵の信頼関係は厚く結ばれたもので、全体一緒の移送ならば良いが、分離することは受け入れることができない。それを契機として捕虜収容所からの脱走を計画することになる。

日本人捕虜はミーティングを開き、要求を受け入れるか、反対して攻撃をするかの議論を行った。「九死に得た一生だ。この命を大切にしたい。日本へ帰りたいし、肉親に会いたい。」といった発言をした者もいたが、「貴様らそれでも軍人か。非国民は俺が始末してやる」と下士官が喚き、場の空気が一変したという。捕虜全員の多数決投票が行われ、移送計画に協調しない、脱走することを決定した。当時の集団心理として、のけ者になることへの恐怖の心理が投票に強く働いて、ほとんどが脱走に賛成したという。

1944年8月5日の深夜の突撃ラッパを合図に、900名の日本兵は集団脱走を決行する。武器は身近にあるフォーク・ナイフなどの金属製品、野球バット、自決用の剃刀程度で、機関銃が配備されたオーストラリア警備兵に対抗できる状態では無かった。

当時の警備兵は、「日本人は何を考えているのか分からなかった。野球、相撲などのレクリエーションの自由もあったし、日本人は魚を食べるので、オーストラリア人とは別に、特別に魚を食事で支給されていた。脱走時の夜は田舎の満月で、とても明るく、人の影がよく見えた上に、わざわざ明るくなるように建物に放火をしたので、付近の様子が昼のように目視できた」と証言していたという。

結果、死者数は日本人234名、オーストラリア人4名、多数の死傷者という悲惨な結末で終わった。

オーストラリア政府は、当初カウラ事件を極秘情報として公にはしなかった。事件当時は戦時中で、日本政府に日本兵捕虜の多数の死を知られた場合、日本によるオーストラリア兵捕虜に対する危険の可能性を考慮した結果だという。

日本政府は、カウラ事件が起きたことを8月10日には国際赤十字を通じて報告を受けていた。しかし、日本政府は自国軍捕虜の存在自体を否定し、戦時中に発表することは無かった。


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