ブンゲイファイトクラブ タイセンE 感想(一部・随時更新)

 私は本戦の1回戦から決勝まで一応全作品の感想文を書いたのだけど、振り返ってみていろいろと反省すべきところや気付いたこと、学んだとことがあり、そういう意味でこの企画そのものや主催者、ファイター、観客に感謝している。

 そして本戦開催期間中にもタイセンEという面白そうなものがあるのは知っていたが、とても読む時間がないので捕まらないように距離を置いていたら、いつの間にか消えてしまった。

 別に失われたからという訳ではないのだが今さら気になって、親切にもtwitterで読めるようにと主催のDBS【1/24】さん(既にアカウント停止)が「#タイセンE」というハッシュタグを提案してくれたこともあり、検索をかけると出てくるわ出てくるわ。

 私の中のリベンジというつもりではないが、読んだものから順に性懲りもなく感想をあげていきたい。

「真ん中の公園のはなし 」宮月中

https://note.com/chumiyatsuki/n/n48326e35b15b

 徳島はどうか知らないが、大阪ではかつて「○○ニュータウン」という新興住宅地が次々できて、若い世代が流入した。ところがそれから数十年後、そこは高齢者世帯の集まりとなり、しかも坂道が多かったため引き籠もり状態となる人が多くなったという社会問題がある。この小説を読んで、まずそれを連想した。
 すり鉢状の土地。住む人たちの経済格差。最底辺の家や公園は忘れられたかのように放置されている。そんな場面設定にたまらぬ魅力を感じた。
「視線を感じてあたりを見まわすが誰もいない。家にはぽつぽつと灯がともりはじめていた。よくみると、家はみんなこちらを向いて建っている」など、光景がありありと目に浮かんでくる。まるで舞台で一人スポットライトを浴び、いるかどうかも分からない観客から注視されているかのような不安感をかきたてられる。
 後半は時間のトリックが効果的に使われて、過去と現在、行方不明になった幼児と語り手が見事に交錯する。そして大人になった語り手はかろうじてその蟻地獄のような団地の底から抜けだし、すり鉢の上から全体を眺めることができる。
 個人的な好みでは、すり鉢の上に立ってなお残る不穏な空気をもっと残して終えて欲しかった気もする。そういう意味では最後の三行が効果的だったのかどうか。そのような気もするし、違う終わり方もあったような気もする。

 さて作者が「蛇足」と言いながらわざわざ書くことには間違いなく重要な意味がある。私は「阿波しらさぎ」の時からこの人の作品を読んでいて、一言で言えば好きな作家だ。私自身、BFCの感想で「保守的」という自己認識を示したが、宮月さんの以下の考えに甚く共感を覚えた。
「奇想を狙ったり、難解だが見えやすい実験をすることはすごい覚悟と技術がいることだし、そういう小説はとても好きで -中略- 僕の小説は地味で凡庸で一見小説の既成概念にとらわれているように見えるかもしれないけれども、少なくともファイトスタイルについては矜持がある」
 私は宮月さん以上に上手くいったためしがないのだが、自分の形を見極め突き詰めていきたいと改めて思わせてくれる「蛇足」だった。


「魚のいらない水槽」紙文

https://note.com/km_kzr/n/n7800155e966c

 こういう雰囲気の小説は好き。どんな雰囲気かと聞かれると説明は難しいが、ストーリーに何かのメタファーが込められていたり、変に奇を衒っていなかったり、なんとなくしなやかさを湛えた感じがしたりとでも言おうか。構成としては後でも述べるが、p.2の「たぶん魚には理解できないのだ。わたしが何を悩んでいるのかなんて」とp.5の「わたし達は相手の横顔ばかり眺めている。まるで循環する三角形のように」の連携が素晴らしい。その間に挟まれた物語を通して、前後で主人公のわたしの変化が描かれる構図が分かりやすく心に浸みた。

 体の中に魚が住んでいるという不思議な設定。もちろん魚は何かのメタファーだろう。それは物心ついたときからいて、他の人は持っていないか持っていても言わない。自問自答の相手であるがその発言はわたしの思考の範囲内で、目を背けたい現実を突きつけてくる。
 これらの情報から魚は妄想や幻覚の類いではなく、わたしと別個の人格というわけでもないと分かる。それはわたしがずっと抱いてきた違和感、孤立感の根源で、誰にも言えず一人で抱えてきた悩みの相談相手でもあるのだろう。
 わたしは部活仲間であり親友小鹿の幼馴染みでもある聡に告白されたが返答できずにいる。とはいえ聡を嫌いなわけではなく、小鹿が聡に恋しているからでもない。付き合った先にある営みをわたしが怖いと感じているのだと魚は指摘する。それだけなら純情な少女の性への不安ともとれるのだがどうやらそうではない。それが分かるのがわたしの悩みは「たぶん魚には理解できない」という一文で、わたしの悩みって何だろうと思わせておいて話を進めるのが巧い。
 その答えは最後に小鹿も含めた三人の関係が「循環する三角形」「友情に擬態させておくのは限界」とあることから、わたしは小鹿に恋心を抱いている、つまりわたしが女性同性愛者であることに起因するものだろうと分かる。しかし同性愛者としての自分を自覚しながらも、それとは折り合わない異性愛者としての部分も皆無ではないと感じており、それが魚として体の中に違和感を生じさせているのだろう。
 部活の後に聡に告白の返事を求められたわたしは「魚の気配がする」、すなわち自己の性的アイデンティティーが不安定になるのを感じる。そしてキスを迫られたとき、わたしの「魚」がそれを受け入れる。
 ところがその後わたしは聡を避ける。そして三人のすれ違いを「今日までにする」と決心し、小鹿の聡への想いを自分に向かせようとある卑怯な策略を実行する。それは聡が無理矢理キスをしてきたということにして小鹿の聡への想いを断ち切ろうとすることだった。結果どうなったか。最後の一文は現在形で書かれているので、実際に小鹿の気持ちが私に向いたのかどうかは不明だ。しかし仮に幼なじみの男子に恋愛感情を持つ少女がその男子を嫌いになったとしても、恋愛対象が親友の女子に向くとは考えづらい。そもそもわたしからの、無理矢理キスをされたという話をそのまま鵜呑みにするものだろうか。はなはだ疑わしい。となると最後の小鹿とのやりとりは結局、わたしの妄想がかった一人芝居にも思える。ただ、タイトルの「水槽」はわたしの体だろうからそれが「魚のいらない」ものになるというのは、わたしが女性同性愛者として生きていくという決意表明のようなものがこの小説の主題だろうか。
 それにしても、聡かわいそう……。

 細かなことが気になるたちなので目に付くのだが、缶ジュースの口がプルタブなのが気になった。これは本戦準決勝の齋藤友果さん「いまもいる」の感想(https://note.com/imizu/n/n09c3349a8d85)にも書いたことで、そのときは若い人はステイオンタブのことをプルタブと呼ぶのかなと思ったが、本作では「プルタブをゆっくりとはがしていく」とあるから本当にプルタブなのだろう。だとするとこの話は現在のようにLGBTQが広く知られるよりはるかむかしの話で、わたしの性意識に対する違和感も今よりはるかに強かったのだろうと考えられる。ただプルタブが出てくるのは最後の方なので、初読ではずっと最近の物語として読んでいた。


「ある授業」冬乃くじ

https://note.com/fuyunokuji/n/n52fb0eeb7dd9

 絵のことはよく知らないがピカソの青の時代の自画像やサーカスの家族を描いた絵は好きだ。そういう写実的な時代を経て彼がキュビズムに目覚めるという背景を知ると、同じ絵でも観かたが変わってくる。一方で一枚の絵はそれ単独で評価されるべきという考えもあるかも知れない。背景や作者を知って下される評価は本当にその絵の評価なのか、と。
 これはまさに今回のブンゲイファイトクラブ(BFC)のことでもある。プロアマ入り混じった闘いで、既存の作品が公開されているプロと一見のアマチュアとを公平に比較できるのか、また2回戦3回戦と進むにつれ1回戦からの作品を踏まえて評価すべきなのかその回の作品単独で評価すべきなのか。観客として読んでいてそれは大いに悩んだところだった。
 そう考えると作者は雛倉さりえさんの作品をイメージした素敵なイラストを公開されていたし、プロフィールにもイラスト描きと書いていた。もしかしてこういった絵の授業を受けたことがあるのかなとか、なんなら授業をしている人なのかなとか、いろいろと想像が膨らむけど、果たしてこの作品を読むのにそういった作者の背景を勘案すべきなのか否か、などと考えてふと気付いたが、私は感想を述べているだけなのだから答えは明白だった。「まあええやん」だ。

 さてまたもBFCに絡めて話すが、作中の「絵は平面的なもの」には立体的なものを平面に落とし込むという意味が含まれており、これは現実らしさをフィクションである小説で表現することの換言だと読んだ。また「空間を認識している絵」と「していない絵」は後者の方がより発達段階初期の衝動や感性にまかせたものだが、前者を習得した者が描く後者の絵は計算された破格とでも呼ぶべき制御の利いたものだ。これを文芸に援用すると前者は構成のしっかりしたオーソドックスな文学的作品で、作者の1回戦の作品はこちらに近い。後者はあえて型を崩した、今回のBFCで言うと大滝さん、鵜川さん、金子さんとか、北野さん、蕪木さん、矢部さん、伊予さんなどなどの作品か。って冬乃さんが闘ったAブロックみんな入ってるやん。BFCではマイノリティーな傾向の作品でよくぞ健闘したと称えたい。

 そこでこの作品の講師は問う。
―― あなたが描きたいのはどちらですか ――
 しかし同時に商業的な制限についても言及する。
―― わざと常識はずれの絵を描くのはきわめて難しいことです ――
 とはいえ講師は描いてはいけないとは言ってはいない。「難しいこと」は避けるべきことの場合もあれば挑戦すべきことの場合もある。ここに作者の逡巡あるいは決心を感じる。今回、冬乃さんは空間を認識した絵で戦った。しかし次回もそれで戦うのかどうか。それは作者にしか分からないが、決勝戦が空間を認識した蜂野さん、敢えてそこからはみ出したかのような北野さんの作品になったことが、このBFCという企画の可能性を広げたような気がする。

 そんなことを思って読んだ前半の後、いきなり股間の話に移行する。読むと絵画技法において実に重要な話だと分かるのだが、股間という言葉を使うことでどことなくおかしさを醸し出す。さらに人体の絵の話かと思いきや、話題は二つの物の関係に移る。「非常に近いところに二つの物がある場合、その二つが自由に活き活きと動くためには、その間にほんの少しの距離が必要なのです」漠然とした言い方をしているがおそらくは二人の人間、特に恋人同士の関係性を示唆しているのだろう。そして恋人に股間を観察させてもらう部分は絶対実体験やろと思うほどのリアリティーで笑える。他にも「ほんとうにくだらない、愚かな社会です」「股間を観察されて筋肉痛になった彼」といった表現もクスッと笑ってしまった。
 この観察はBFCにおける作品の批評や観察を意味しているのではないだろうか。小説を公表するなんてことは、精神的露出行為に他ならないもので、そういう意味ではファイターたちや予選で敗れた者たちも、「一番弱い場所を観させて」くれて「感謝と尊重」に値するモデルであると言いたいのか。このようにあまりにBFCに絡めた解釈をするのは最初に言った作者の背景を知っているからに他ならないが、まあええやん。

 とここまでは絵画と股間の話に込めた文芸の話と思わせておいて、最後の段落でがらりと変えてきたのは作者の企みだろう。「人は近づきすぎると相手から自由を奪いがちです」これは股間を観察させてもらった恋人と、束縛したかされたかし合ったかの関係を言っているのだろう。そして最後の「だめだったのです」が過去形であることで、強烈なインパクトとしみじみとした悲しみを残す。詳しくは説明せず、さようならと去るのも余韻が残って良い。

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