ブンゲイファイトクラブ準決勝感想

時間がなくて読めていなかった。スマホのブラウザーに作品ページを表示させながら、いつか読める時をと狙い、電車の中で読みかけては寝落ちし、風呂につかりながら読みかけては水没させ(防水で良かった)、やっと昨日から読んだ。

どうやら結果発表もあったらしいけど、それを目にしないように読み終えて、簡単だが感想も書いた。

今回の二つの対戦は、主観だが割と簡単にどちらが好きかと選べた。

全部読んで痛感したのは、四名ともこれまで本当にたくさん書いてきたのだろうなということ。基礎体力を感じる。正直私は予選落ちで良かったとさえ思ってしまう。万一1回戦を勝ってたら、次の作品を書くことに飲み込まれて生活が破綻していただろう。

今晩には結果と審査員評を読みに行こう。果たして時間が取れるのか。


「小説教室」金子 玲介
 小説の冒頭部分を擬人化された小説が教卓で読み上げ、生徒らしき女生徒がダメ出しをする戯曲。これが教室なら、小説批評の教室ということか。
 つまり批評する側が教え、される側が教えられるという関係に異議申し立てるものか、もしくは批評家も作者に批評されるBFCというこのイベント自体を表現したものか。
 深読みすれば、一回戦で冒頭部分だけ読んで批評してtwitterで話題になった、あの人に対するメッセージなのかも。


「中洲の恐竜」北野 勇作
 これまたえらいもん送り込んできはったなあ。というのが第一印象。また金子さんとの対戦というのが面白すぎる。
 緻密に計算された構成と細部まで行き届いた言葉の選択。写実主義の絵画を見ているようだが、物語にはこれまでのようにファンタジーの要素が入っている。これまでの作品もそうだったが、読者の視線を誘導するのが非常に巧い。あと体感に訴えるのも。スピード感もあってついつい物語の中に入り込んでしまう。そしてまさかのラストに、ただのファンタジーでは終わらせない企みを感じた。
 これも深読みするなら、プロの世界で書いている作家のフィールドにBFCという道ができて、破壊的な威力を持つセミプロや素人にプロ達が食い殺されたこのトーナメントの隠喩なのかとも感じられた。


 この対戦は西洋絵画の世界に印象派が台頭した時代を思わせた。当初は酷い評価を受けた印象派がその後一大勢力となっていく、時代に変遷を文学の世界で見ているよう。
 両極の二作品に優劣をつけることはできないが、私の好みで北野勇作さんに一票。


「ブンダバランド」蜂本 みさ
 のっけからテンポの良い文章で漫談のようなリズム感。その中でリズムを外したオウムの言葉が混じってテンポを外す。この構成はお見事。
息子が旅に出て音信不通になった父親が、声だけでも似せた学習機能つきの発話装置であるおれを作った。しかしおれは息子の代わりとしては不十分で、今度は生命のあるオウムを手に入れてきた。おれは疎ましがりながらも自分の持てないものを備えたオウムに親近感あるいは一体感を抱くようになる。しかしそのオウムにも逃げられて親父は罵り、動けぬおれは半分を失ってしまう。そのときおれが思うのは、動けぬ己の悲しさか。それとも半分が自由になれた喜びか。
 プラトンの饗宴に出てくるアリストパネスの演説を連想させる。男女のペアではないが失われた二体一身の相手を求めるというのは、古典的なテーマだろう。しかしそれが機械とオウムというのは斬新だ。

 もうひとつのテーマは息子を手元に留めたいが叶わぬ親父の悲哀か。作った見世物小屋(?)の名前はドイツ語で「素晴らしき世界」を意味するWunderbar landだろうか。だとすれば一層親父の哀しみが深まる。
 機械は動けないがあれこれと考える。しかし言葉として発することができるのはブンダバランドの宣伝口上のみ。その口調が軽妙でリズミカルというのもまた哀しい。最後の段落ではそれまでのリズムが失われる。おれをおれとしてなさしめるものの半分が失われたためだろうか。

 よくぞこの文字数にこれだけのものを入れ込んだと驚く。また語ることと語らないことのバランスも良い。
 そしてブンダバランドの中の見せ物の魅力的なこと。

準決勝の四作の中で最も好き。


「いまもいる」齋藤 友果
 アルコール依存症の母とおそらくDV加害者の父と暮らす私。父のDVによって母がアルコールに逃れたのか、母の病気のため父のDVが始まったのかは分からないが、問題を問題と感じながら何もすることができない私の無力感が表現される。
母はアルコール性の急性膵炎で緊急入院したのだろう。自販機で買った缶ジュースを開ける音や口の中の液体をキューに現在と過去の記憶を行き来する。

 父が病院に来ていないのはどういうことか。「苦しそうな息継ぎ」だけでは病気になったとか死んだとかとは読み取れなさそうだし、まだ到着していないだけとか来る気がないと匂わせる部分も見当たらない。
また缶ジュースのタブがステイオンタブでなくプルタブとあるので、かなり昔の話なのか。それならそれを匂わせる描写か何か欲しかった。単なる間違いなのか、それとも若い世代はステイオンタブをプルタブと呼ぶのか?

 もやもやとした陰の感じる作品で、1,2回戦と今回の齋藤さんの作品の中では一番好きだったが、どうしてももっと長い作品の一場面を切り取ったように思えるのと、テーマに既視感がありすぎる嫌いがある。一場面を、というのが作品として悪いわけではないけれど、掌編で見事に完結させた北野さん、蜂本さんの作品には見劣りすると感じた。

この対戦は蜂本みささんに一票。

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