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コラム3 日本は誰のもの?

……でも第157回芥川賞某選考委員の「日本人の読み手にとっては対岸の火事」「当事者にとっては深刻だろうが退屈だった」にはさすがに怒りが湧いた。こんなの、日本も日本語も、自分=日本人たちだけのものと信じて疑わないからこその反応だよね。

 作家の温又柔さんは、台湾生まれ・日本育ち、日本語で小説を書く作家です。温さんの小説『真ん中の子どもたち』は、上海に留学した台湾にルーツを持つ日本育ちの主人公の話。幼少期に台湾から日本に移住し、日本語と中国語、台湾の中国語と中国の中国語、台湾と中国、そして日本の間で、居場所を探し続けてきた温さん自身に重なります。

 この作品は、2017年上半期の芥川賞候補作に選ばれました。ところが、選考委員の一人である作家の宮本輝氏による「これは、当事者たちには深刻なアイデンティティと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事」という選評に、温さんは、「どんなに厳しい批評でも耳を傾ける覚悟はあるつもりだった」と前置きした上で、ツイッターで、冒頭の指摘をしたのでした。

 この社会に暮らす多様な背景をもつ人びとの物語を、「日本人の読み手」とは立場の異なる「当事者たち」の話と線引きし、「対岸の火事」、「他人事」、「退屈」とぼやく、宮本氏の「選評」は、選評以前の、文学者としての資質さえ問われるものでした。事実、温さんの投稿は瞬く間に多くの人にシェアされ、宮本氏の選評に批判が集中しました。

 宮本氏の見方では、「当事者たち」と「日本人の読み手」に線引きがなされ、前者は後者にとっての「対岸」と位置づけられています。あたかも「当事者たち」は向こうにおり、「ここ(日本語を使う日本社会)」にいるのは「日本人」だというように。しかし、そうした日本社会の日本人/対岸の「当事者たち」という二分法こそ、温さんが小説で問い直そうとしたものでした。なぜなら日本語は「日本人」だけのものではないし、日本も「日本人」だけのものではないからです。

 ただし同時に、その結びつきを常に問われるのが「当事者たち」、つまり移民や移民ルーツをもつマイノリティです。「日本語が上手ですね」、「いつから日本に住んでいるの?」、「(国には)いつ帰るの?」、これらは、移民や移民ルーツのマイノリティにしばしば投げかけられる言葉ですが、「日本語が流暢なのは日本人であるはず」とか、「日本社会に住んでいるのは日本人であるはず」という想定が前提となっています。その想定とは異なるため、こうした言葉が発されるのです。それは、「日本人」には「日本語が上手ですね」や「いつから日本に住んでいるの?」と言わないことからも明らかです。

 いうまでもなく、この社会にはさまざまな国籍、ルーツ、バックグラウンドをもった人びとが暮らしています。その事実にこの社会は気づいているはずなのに、真に向き合うことはできていません。それは、「日本」にいるのは/いるべきなのは「日本人」である、という幻想にいまだに縛られているからです。社会保障も、働く権利も、まずは日本人が優先されるべき、という発想が根強くあります。参政権や公務就任権などに至っては、日本国籍を持っていなければ与えられなかったり、あるいは限定的にしか認められないという状況があります。

 この社会が、ここに暮らす一人一人の人権が保障され、尊重される、あたりまえにあるべき共生社会へと発展していくには、まずは、多様な人びとがすでに「ここにいる」ことを認識し、「ジャパニーズ・オンリー」、「日本人ファースト」の価値観から脱却していくことが必要です。

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