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近鉄バファローズ愛~『2004年のプロ野球 球界再編20年目の真実』を読んで

このnoteに麻雀の話は出てきません。
敬称略。


書いて昇華させたい。

書く以上、読者を意識すべきだが、これは吐き出さざるを得なかった夢の残骸。読むことも、自身で読み直すことさえ想定していない。とにかくこの腹の底に溜まっている腐敗した何かを取り出したい。だからこのnoteは、自分の口に手を突っ込んで腹の底から無理矢理取り出したもののようにグロテスクかもしれないが、10年に渡って懸命に応援してきた「推し」の消滅の感想である。

私は近鉄バファローズファンである。
(過去形で書かない)
もう今は存在しないプロ野球チームである。

小学生の時、一緒に習い事に行っていた近所のおにいちゃんの影響で近鉄ファンになったが、なんと父も近鉄ファンだった。父からそれまでに近鉄の話を聞いた記憶はない。関東で育った私は、以後近鉄ファンだという人に会ったことがない。これは一体どれほど小さい確率だろうと、のちに何度か思った。

巨人ファンの友達が、学校で朝、私の教室の後ろの扉を開けて、

「近鉄負ーけ!」
と叫んで逃げていく。

同じクラスの女の子が、
「近鉄??」
と呟く。

ほとんど毎朝だった。いつも負けていた。

1314ヘルツ、ラジオ大阪。近鉄バファローズナイター。
ごくたまにNHKが中継する以外ではテレビ中継などもちろんない。
火水木はバファローズナイターを聴いていた。
当時私が住んでいた茨城県日立市はラジオ大阪の受信エリアではなく、雑音が酷かった。ラジオのアンテナの角度を微調整しながら、時にアンテナを握りしめながら聴いた。
火水木以外の西武戦は、文化放送ライオンズナイターを聴いていた。西武贔屓だがやむを得ない。

「大きくなったら大阪でタクシーの運転手になる」
と言ったりした。クリアな音でいくらでもラジオが聴けると思った。

「タイガースに代えろってお客さんに言われるよ」
と母に言われた。

1988年は伝説の10.19の年。10.19の話を書き出すといくら書いても終わらないので、ここは我慢。
学校から走って帰って1試合目の結果を母に聞いた。

「すごい試合で・・・」
という返事を拳を握って聞いた。

今でも変わらない私のヒーロー像の原点はこの時の阿波野。
翌年の優勝を決めた阿波野もいい。最後の打者を三振に取った瞬間のあの姿は最高だ。
でも私にとってのヒーローは10.19の阿波野だ。
翌年の歓喜の姿と違って、象徴的な映像はない。だが完投から中1日でダブルヘッダーを連投して、あとほんの一歩及ばなかった悲劇性が、私の中のヒーロー像として定着した。わかりやすいところでは『あしたのジョー』型である。私の価値観を形作った。

全然関係ない話だが、ラジオ大阪のハガキコーナーで、マウンド上の阿波野を「ヒヨコが怒ってるみたい」と表現した人がいた。「そうだ!」と思ったことはないのだが、時々思い出してしまう。

1989年は悲願の優勝。優勝を決定づけた西武とのダブルヘッダーは録画してある(再生するものがないが)。
背表紙に手書きで「西武をしずめるラルフの4連発」とか、中二病っぽく書いた。当時中学生だ。
優勝決定翌日のスポーツ新聞をあるだけ全種類買った。以後3回引っ越したが、捨てられずに今も持っている。

大学に入り、東京で一人暮らしを始め、ケーブルテレビに加入した。今まで観られなかった中継が存分に観られる。
全試合観た。予定がある時は録画して観た。負けてばかりの暗黒時代も観た。

月水金の18時~翌朝8時までの深夜アルバイトをしていた時は、録画してバイトに行き、帰って寝ずに録画を観て、少し寝て次の試合前に起きてまた観た。

前置きが長くなった。1987年~2004年の18年間、小学生から大学を卒業し、就職・結婚までの期間、生活の一部(かなりの部分)として近鉄バファローズがあった。

『2004年のプロ野球 球界再編20年目の真実』を読んで。近鉄消滅前夜の状況。

当時私は大学生。近鉄球団の赤字がどうもマズイらしいというのは、当時の私も聞いていた。
だが『2004年の~』を読んでまず思ったことは、私は圧倒的に子どもだったということだ。

近鉄よりも先にダイエーホークスの経営危機があったが、当時の私にはまったくの対岸の火事だった。『2004年の~』を読めば、単にダイエー1球団の問題ではなく、かなり早い段階から1リーグを含めた球団再編にまでつながるきな臭い話が出てきていることがわかる。圧倒的子どもの私は経済の動きとしてそれらを捉えることができず、そもそも積極的にそれらの情報を得ようともしていなかった。
無論私が知ったからといってどうにかできたわけではない。そんなことは当たり前すぎるくらい当たり前でわざわざ言うまでもない自明なことだが、それでも!あれだけの危機が明白にあるのに、それを認識さえしていなかったことは、何の影響もないとはいえなんだか悔しい。

近鉄の球団名のネーミングライツの話が出た時は、さすがに本当にヤバそうだと感じたことを覚えている。だがそれでも、当時の私は本当の危機感を抱いてはいなかった。近鉄が駄目ならどこかの企業に身売りするだろうと思っていたのだ。10.19の年に阪急ブレーブスと南海ホークスがオリックスとダイエーに身売りした。当該チームのファンにとっては様々な思いがあると思うので軽々に言えないが、私はネガティブなイメージはなかった。近鉄の経営がいよいよマズイとなれば、どこかに売却するだろう。元々大阪のチームを関東から応援していたから、本拠地がどこに移転しようと問題ない。もちろん選手や関係者には大変な苦労があるだろうが、応援する私には問題はないのだ。新しいオーナー企業が球団運営に力を入れてくれるかどうかは大きな関心事になるが、それがどうであれ応援し続ける。どれだけ弱くてもどれだけ負けていてもファンを辞めるなどは夢にも思ったことがない。それは強いに越したことはないが、それはそれである。名前は変わるとしても、今「近鉄バファローズ」として応援しているこのチームを、未来永劫応援し続けることになんの疑いも差し挟んでいなかった。

今にして思えば、なんともおめでたい限りである。

『2004年の~』を読んでわかったことは、単純に近鉄球団の経営の問題ではなく、当時のパリーグが抱える構造的な問題と、新規球団の加盟料の問題により、売りたいからといって売れるものではなかったのだ。
ネーミングライツは最後の手段だった。あの時までは近鉄は球団をなんとかしようとしていた。近鉄が「近鉄」という名前を捨ててまでして赤字を圧縮して球団を持ち続けられるように考えた。これも別に協約違反というわけでもないはずなので、上手く話を進めていれば通った可能性もあった。だがともかく話は拗れ、潰れ、そしてオリックスとの合併へ進むことになる。

合併については今でも納得いかない。普通に考えてそんなこと許されないだろうと思う。球団を持ち続けることにギブアップするのはわかる。それは仕方ない。だが合併というのはなんなのか。
『2004年の~』を読んだ今ではイメージすることができる。それは巨人戦放映権料を獲得するためにパリーグ球団が1リーグ制への移行を目論んだからだ。12を10にして1リーグへ。1つ減ればあと1つくらいなんとかなるだろう、という思惑が透けて見える。

読めば読むほど皮肉だが、途中から現実問題として1リーグ制は無理だと皆が気づき始める。1リーグ制を目指して近鉄を潰し、やっぱり1リーグは無理だから2リーグを維持しようとし、そのために楽天が新規参入した。もう決まったことだからと合併は実行された。

完全なる繰り言だが、関係者全員がこの結末を知っていれば「現実問題として1リーグは無理」という関係者が自ら悟るこの事実が初めからわかっていれば、合併の画策は起こらなかったのだ。誰にとっても必要ないことなのだから。

「1リーグだ」→「やっぱり2リーグだ」
この狭間に近鉄は落ちた。この移行の真ん中にだけ、球団を呑み込む虚無が存在した。ほんの少し持ちこたえていればそこには落ちない。ピンポイントのごく小さな狭間だったのに。

近鉄は結局は何の意味もなく消滅してしまった。
結局2リーグで良かったのだから、減らす必要などどこにもなかった。
私の18年間の推しは、球界全体のためや何かの大義のためではなく、単なる行き違いで間違って消えてしまった。
ああでも強いていえば、近鉄の犠牲があったからこそ「やっぱり2リーグだ」に辿り着いたのかもしれない。どこかが犠牲にならなければ1リーグの幻想は球界を覆い続けたのかもしれない。近鉄の消滅が2リーグ制を守ったと言って言えないこともないが、だからといって何の救いにもならない。

ライブドアが近鉄を買収したいと申し出たときはまさに救世主だと思った。「救世主堀江」だと思った。当時からライブドアと堀江は胡散臭いという意見を耳にすることがあったが、それがなんだというのだろう。
なくなるよりはいい。1年後に転売しようがなんだろうが、なくなるよりは断然いい。

世論の風向きが変わり、選手会によるストが行われたが、最後の希望もやがて絶たれた。交渉は選手会側の要望が多く通ったが、近鉄を残す話はもうされていなかった。世間の喧騒は続いていたが、近鉄の消滅は決まってしまっていた。

2004年は息子が生まれた年だ。
それまでブラブラしていたが、2002年に結婚して就職した。
2004年は公私ともに忙しく、環境の変化もあって全試合を観るというわけにいかなかった。
現在の記憶だと、そういうこともあるかと消滅を比較的冷静に受け止めた覚えがある。「まあそういうこともある」

だがこれは記憶の改ざんが起きていたらしい。
『2004年の~』を読んでいろいろなことを思い、当時のことを妻に話したところ、

「もう終わりだ。俺がずっと応援してきたチームがなくなる」
「なんでだよ、もう終わりだ。終わりなんだ」

といつも言っていたらしい。
まあそれもそうか。

近鉄最後の選手会長の礒部が最終戦のあとに「いてまえ魂を忘れずに」と円陣を組んで言ったと聞いた時には泣いた。

礒部と岩隈がオリックス行きを拒否したというのも嬉しかった。といって行った選手についてどうこう思うこともなく、行くのが普通だと思うのだが、そういう選手がいてくれたことに、わずかに救われたような気持ちになった。

来年からどうしようか?
この問いは、消滅が決まってしばらくずっと頭の中にあった。
プロ野球を観ないで過ごした経験がないのだ。
ローテーションや選手の好不調は常に頭に入っていて、先の日程まで考えながら日々の生活を送っていた。シーズンオフは別として、プロ野球がやっているのにプロ野球を気にしない生活を送ったことがない。

近鉄の選手が半分近くいるとはいえ、オリックスを応援する気にはとてもなれなかった。

「楽天を応援するか」
何度かそう思った。
プロ野球のない生活をしたことがなく、来年からもプロ野球のある生活をしたかった。これからの人生にもプロ野球が欲しかった。

でもどうしてもその気になれなかった。
オリックスと違って楽天には負のイメージはないし、礒部・岩隈をはじめ近鉄の選手もたくさんいる。
でも駄目だった。
私は18年間全力で近鉄の応援をしてきた。それは生活のかなりの部分を注ぎ込む全力で、その情熱を楽天というチームに改めて向けるパワーがどうしても湧いてこなかった。そこそこに応援するという一般的な状態に戻ることができない体になっていた。

こうして私はプロ野球から卒業した。
セパとも今どのチームが首位にいるかもわからない。
日本シリーズくらいはたまには観るかと思うのだが、大抵は気づいた時には終わっている。
ちょっと真剣に楽しむことができるのは、WBCくらいかな。

選手はもちろんオリックスというチームにも、悪感情は持っていない。オリックスというチームが近鉄を潰したわけではない。
ただ「オリックスバファローズ」という字面には今でも強烈な違和感を覚える。不快感といってもいい。見ると思わず目を逸らしてしまう。

元近鉄の選手の動向だけは気にしていた。
そこでだけ辛うじて野球とつながっていた。
2020年。巨人に在籍していた岩隈の引退のニュースをネットで見た。

「ついに・・・」
感慨とともにそう思い、ページを閉じたが、ふと思った。

「節目だ」

引退試合のチケットを取った。「行くか?」と息子に聞くと行くというので、2枚取った。
岩隈のその後はずっと気にしていたが、といって引退試合を観たいと思っていたわけではない。その日の東京ドームで行われたのは、16年遅れの私の引退試合だった。

2004年に生まれた息子と一緒に。
心の中の感慨を言っても息子に伝わるわけもない。

「内野ゴロを打つと、キャッチャーがファーストのベースカバーに走るんだ、ほら」

代わりにそんなことを教えたりした。

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