自由であることの難しさを知るところから、

こんばんは。今津新之助です。

今日は札幌にいます。すすきの駅からタクシー数分のホテル。価格はリーズナブルで、広くていい感じ。フロントで2度繰り返して英語で話しかけられ、「No,Im Japanese」と返している自分に苦笑。英語、全くできないくせにね。カッコつけたいのかもしれない。

さて、今日の昼は京都にいた。2013年から関わらせてもらっている、とあるカリスマ精神科医がはじめた会社の月1経営会議。関わってどれくらい経っただろうと指折って数えると丸7年。決して短くない期間に思える。感慨深いものがある。

今でこそ、その組織も少し落ち着いて月1回の関わりになっているけれど、当初2年ほどは毎週のようにやりとりしていたし、夜中に電話なんていうのも当たり前だった。自分よりも20歳も年上のその方に対して、随分とえらそうな言葉を吐いていた時期もあった。なんとか良くしたかったという思いが余ってしまうことがよくある。体当たりはぼくの特徴かもしれないのだが、喧嘩や物別れになることはしょっちゅう。今もこうしてお付き合いできているというのは、相手の度量が大きかったからである。

ぼくがその人から学んだ最良のものは、人間は何歳になっても学び変わっていけるのだという実例を目の当たりにしてきたことかもしれない。一般的に言えば十二分な成功者である彼が、自らのミッションやビジョンに、そして自らが愛するメンバーのために、文字通り身を投じ、自身のこれまでの成功体験やパタンを手放し、まもなく60歳にもなる身体に鞭をうって、苦手なことに向き合おうとする様を見てきた。

facebookにも同じことを書いたが、彼はとても「自由」な人であり、だからこそその会社には「自由」がある。彼は自らと同じように、他者の自由を尊重する。そうした自由を生きている彼だからこそ体現できる経営スタイルがあり、今ある常識を批判的に捉え、新たな価値をつくり続けようという組織のエネルギーの源でもあった。では果たして、そうした「自由」なる感覚は他者にバトンできるものなのであろうか。ぼくたちの挑戦はそこにあったのかもしれないと思う。

自由とは困難なものである。不自由を感じる環境にいるとき、人は自由が欲しいと言う。自由に憧れ、それを提供してくれそうな場に魅力を感じる。しかし、いざ実際に自由を与えられると、そこを生きることの困難に気づく。実際には自由は外側にはないのかもしれない。それは自らが感得し、獲得していくものであるのかもしれない。私たちは決められた枠組みを生きることに慣れ過ぎてしまっている。感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。まるで紐をつけられた飼い犬のように、システムに飼い馴らされているということでもあるのかもしれない。

しかし、自らがそうした枠組みのなかにいたのだということを認識し、その枠組みが実はネガティブな様相だけではなく、ポジティブな様相も示していたことに気づき、認識したときに世界は転ずる。そのことを認識するとは、過去の自分の至らなさ、責任を転嫁してきた自らのありようを認めるということもあるだろう。そもそもそれは決して簡単なことではない。

しかし、それがスタート地点となり、新たに自らを生きることになるのだ。生き直すための出発点。生まれ変わり。自由を生きるという旅が始まるのだ。

今日の経営会議では、とあるチーム・マネジャーが、組織の歴史と、自分の歴史とを重ねながら、まさにそのような趣旨のことを語った。なんとまぁすごい人だな、すごいチームだなと思った。まぁ前から思っていたのだけど、どんどん進化していくのだから。どういうプロセスを経て、彼女はそういう境地に至ったのだろうか。いつか聞いてみようと思う。

あなたにとって大切なものは何か。自由は簡単なものではないかもしれない。けれど、それは人生の時間を投じてまでも、挑戦する価値があるかもしれない。

おやすみなさい。

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